活かし合う人間社會

先日から江戸時代の生活を色々と調べていく中で、共通するものを感じました。

江戸はその時代はじめて世界で100万人以上が住んでいた都市です。その50パーセントは武家などの大名の家臣たちで、残り30パーセントが神社仏閣、そして残り20パーセントが町人や商人というような構成で成り立っていたそうです。

一年で特に正月から3か月で一日平均3回の火事に遭い、大火で全部消失することもあったのですら、長屋などもあまり豪華につくらず家具も持たないということで狭いところに簡単な作りの住居で生活したようです。

また親は子どものみんなの親、子どももみんなの子どもとして見守りあい、お年寄りや病人の介護も長屋や周囲の町の人達で交代で見守り、近所も家族同然にほとんどガラス張りの協働生活の中で助け合い、認め合い、分かち合い、義理や人情を優先して暮らしていたそうです。

人が他人を信頼するという仕組みを都市そのものが持っていたように思います。都市の中での善い暮らしがどういうものか、そういうものを究めていくと江戸のような文化が発展するのかもしれません。

そもそも都市とは何かといえば、人間が人間同士で創ろうとする理想の社會のことであろうと思います。自然の中にいけば、自然の中の社會ですから人間と自然の共生である天道地理の里山であったりします。

しかし人間が意図的に創造した家という社会の中では、人間同士の理想、そこに人間の調和がありますから義理人情の都市があります。

今の東京のように個々人が個別にお金を持ち個を尊重という名目で他人に干渉せずにバラバラに生活するのではなく、江戸では常にみんなの都市であることを尊重し個が義理と人情というつながりを優先し生活したのが分かります。

これには、自然観の中にある無駄なものは一切ないのだという思想から練り上がった社會だったからのように思います。西洋では、なければ侵略すればいいという発想があります。狩猟民族というのは、場所を変えては資源を探し求めて移動していく遊牧の民です。しかし農耕民族というのは場所から移動できませんから、その場所で如何に無駄のない生活をするかの智慧と工夫で様々な困難を乗り越えてきました。

私達の先祖は、自然と一体になって今いるところをフル活用して一切の無駄を生じない暮らしを目指してきたのです。そこにはお互いに人間同士においても全てを活かし、つながりを切らないように工夫して何かの時には常に助け合ったのです。

このために必要でいらないなら捨てるというゴミを出すという発想ではなく、何時か必要かもしれないから大事にする、そして修繕してより使いこもうとする「勿体ない」という発想だったのです。

少しでも長く都市を活かそうとしたならば、300年以上続いた江戸の文化や文明はとても参考になるように思います。人間は傲慢になってきて豊かになるとすぐに無駄なことばかりをしたくなります。しかしこの無駄というものを避ける中にこそ真の豊かさ、そして平和が潜んでいるように思います。

今の価値観の中に蔓延る「使い捨て」という考え方をやめなければ無駄はなくならないのかもしれません。

利潤を高めるというのは、如何に無駄のない生活をするか、言い換えれば全てを活かすかということなのでしょう。活かされている自分だからこそ活かそうとすることが謙虚のはじまりなのかもしれません。いのちは多いだけがいいのではなく、そのいのちの質が同時に高いことこそに価値があるのです。

今一度、家という考え方において会社という組織を見直していきたいと思います。