見守り待つ~痛み分け~

人は心に傷を負うと、その傷がいつまでも疼くものです。

それは過去の逃げ場のなかった時の苦しみを思い出すからです。人間は一人で辛く苦しいときは、誰にも相談できないものです。なぜ自分ばかりや、どうして自分だけというように一人の狭い世界に閉じこもってしまうからです。

それを周囲は見ては被害妄想だとか、自意識過剰だとか言いますが本当はそうではなくその人は傷ついているから防御したいのです。これ以上、傷つきたくないから助けを求めるサインであるのです。人間が何かをするのは、きっとそれ相応の理由があるのです。そっちを観てあげることが人間としての優しさであり強さであろうと私は思います。

相手が深く傷ついていると気づいてあげれば、その傷を分かってあげて待ってあげることができます。しかし傷は身体ではなく感情ではなく、心にあるのだからその傷が一般的には目には見えないのです。心の眼で観るときに、はじめて観えますがそのためにはその人が深く傷ついたことを傾聴し共感し受容できなければなりません。

人は心で相手を観ないでその人の表面上の行動や言動ばかりを感情というフィルターで見ると画一的な刷り込みも入り眼が曇りますから単なる被害妄想や自意識過剰、自己中心的で身勝手な人物かのように錯覚して誤認してしまいます。

しかし本来は、そういう人は何かそれ以上踏み込まれたくない傷がある、過去に何かきっと大きなトラウマを持っていると思いやり信じてあげることでその人の痛みを緩和してあげることができるのです。

逃げ場がない時に向き合えといっても、追い込まれて乗り切ってもそれは力でねじ伏せただけになることもあります。本当は、逃げ場があるときに向き合ってそれを自らで乗り越えて誰かと一緒にそれを称えあい認め合うときにだけ人は傷を癒せるように思います。

心が折れたことを思い出すと、もう二度と傷つきたくないと自分から先に相手に求めては諦めてしまいます。しかし、本来はそれでも自分が先に諦めない、相手に求める前に自分に求めようと勇気を出して世界を信じることで様々なことを自然に受け容れる日が訪れるものです。

そしてその過去の傷の痛みは、これから同じような体験をした人たちとの痛みの分かち合いで共に痛みを乗り越えていくことで人は出会いの感動に世界を癒せるのです。

準備ができるまでじっくりと待てばいい、その日が来るのを楽しみに待てばいい、共に傷つき辛かったからこその痛み分けをすることができればそこに同志や仲間、親友たちがいるということですから。

傷は待つことで癒えるのだから、じっくりと見守り待つことを自ら実践していこうと思います。