人と道具

人は自分の目線を内省することで自分がどのような眼差しでいるかをチェックすることができます。自分の眼差しというのは、世界を自分がどのようなモノサシで観ているのかをチェックするということです。

自分自身がどうなのかということは省みることはほとんどされず、実際は外側の世界のみを自分の都合で変化させようとすればするほどに眼差しは思いやりではなく独りよがりになっていくものです。

例えば、道具の一つに剣があります。剣を扱うのにも、殺人剣と活人剣というものがあります。本来、人を殺傷する目的のための刀剣が、使い方によって人を生かすものとしてはたらくことがあります。つまりは道具は使い手の心によって如何様にもなるということです。

道具ばかりを善くしようといくらしても、その使い手が自分の意識を変えようとしなければどんなに名剣と言われるようなものでもそれは殺人剣になってしまうものです。

同じく大人の都合で儲かるからと子どもの主体のことをよく考えて自らを省みることもなく、簡単便利な道具をさもそれをやればうまくいくと謳っては販売しているような道具だけで自分たちがよくなるはずはありません。

使っている道具はあくまで道具であり、それをどう活かすかは自分自身によるからです。

そして道具が本物であればあるほどに、自分の実力を磨くしかありません。例えば、大工さんの鉋に電気鉋というものがあります。電気鉋ができたおかげで素人でもすぐに使えるようになりましたが、本来の鉋は職人たちの姿勢や心構えが備わっていないとうまく活かしていくことができません。

手間暇がかかるものですが、その心を何よりも大切にしていくのがその道を志す人たちの誇りでもあるのです。結果が同じであれば簡単便利なものでもいいという考え方は、道具次第ということになりかねません。

人が道具を活かしていきますが、道具もまた人を活かしていきたいと願っているのです。それが人と道具の真の関係のように思います。どのような眼差しで道具を開発した人たちがいたか、そしてその道具を使いたい人がいたか、道具と人との関係というのは同じ志、同じ理念であるからこそ活かせるのかもしれません。

信念を以て、道具そのものの役割が果たせるようにあるがままを受け止めて難関に立ち向かっていきたいと思います。