本当の自由

社會の中で何かによって教育されることで、他人はルールというものに自然に慣れ親しんできます。しかしその社會のルールは、自分が理解して一つ一つ納得し自分に置き換えたものであれば使いこなせますが、外圧的に何かの力によって単に従っているだけではだんだん自由の本質が分からなくなるのかもしれません。

人は自分が自由だと思っていますが、その自由とは自分が在る程度のルールの中で自由であることを自由と思っています。以前ブログで書いた想定外と同じ理屈で、自分の中である程度想定している自由のことを自由だと思っているのです。

実際の自由とは、何ものにも束縛されない自由であり、自分らしく生きているということの自由です。それは、自分の全人格が認められているものでなければなりませんし、そこには無条件であるがままでいてもいいとなっているものです。

インド独立の父、マハトマ・ガンジーにこういう言葉があります。

「私は人格をすべて表現するために自由を望む」
何をもって独立するかというのは、自分たちの人格を守るということでしょう。今の世の中は、評価中心の社会をつくりあげ、何かあれば人間を査定し、一方的なモノサシで計ろうとします。そしてそれをまるでその人の人格かのように評します。
しかし本来は人は一人一人まったく異なる個性を持っているし、人格もまったく別のものが備わっていますからそれを十把一絡げに扱うというのは、人格を尊重していないということになるのです。
同じ人間だからと社会をつくったのですが、同じであることを強要することで同じ人間でもなくなるという不合理が起きるという仕組みです。
また今まで散散そういう社会の中で生きてきたら、満足してしまいますから今さら新しい自由を欲しようとしないのも人間かもしれません。よほどの抑圧よりましだと言うように、周りと比べて周りよりも良いのだからと自分を納得させることで仮初の自由を満喫するのです。
これは比較という刷り込みで在り、本質を視るよりも何かと比べて考えて答えにするといった外的なものに縛られるという癖がついているのです。比較をしないで考えるには主体性が必用ですし、自ら自主的に判断する場合は自立し自律していなければ本質にならないからです。
「人は自由を得たのち、いくらかの歳月を経過しないと、 自由を用いる方法を知らないものだ。」(マコーリー)があります。
そもそも民族が融和していたものを西洋的な国家観として成立させようとすると、自由というものの定義もまったく別のものに刷り込まれ置き換えられたのでしょう。
これはどの組織でもそうですが、「何でも遣って善い、自由です」といっても人によっては数年から十数年、意味がわからず何もできずに停滞するのと同じです。指示命令の中で動くことを憶えた生物はなかなか元通りになることは難しいのです。
今の人たちが本物の自然体を身に着けるのが難しいように、本物の自由もまたとても難しいものなのでしょう。自分で物事の本質を見極める、そして自分の人生を自分で丸ごと生き切るということは天命を活かすということなのでしょう。
東洋思想には、この「道」という生き方がありますから道に入れば自ずから目覚めていくのかもしれません。最後にまたマハトマガンジーの言葉です。
「間違いを犯す自由が含まれていないのであれば、自由は持つに値しない。」
自由というのは、来たものを選ばないで受け止め受け容れる勇気なのかもしれません。避けたり逃げたりすることで自由は得られず、正面から取り組む時のみ正直であり素直になり、そして自由になるのです。
自由を得て人格が次第に善くなっていく仲間を観ていると、幸福な気持ちになります。
有難うございます。