自然共生の原理

稲から学び直す中で、中尾佐助著「栽培植物と農耕の起源 」(岩波新書)に出会いました。

私も稲と大豆、麦を中心に自然農で観察する中でイネ科のことやマメ科のことなどを調べていると野生種と栽培種の違いについて発見の連続の日々を過ごしています。特に、最近のF1種ではなく固定種で観察してもはっきりとその生育は異なりますが、本来の古代米などの野生種と現在開発された種とでも明らかに生育は異なります。

そもそも産まれた時からずっと人間が手を入れていないものと、人間が手を入れてきたものでまったくその出来が異なるのが自然栽培です。自然の栽培とは、人間がこまめに手入れをし、そのものとの関係性を築き上げ、そのものと共生する自然の力を使うことです

これを私の言葉に言い換えれば、「自然共生の原理」を使って、そのものと調和協力することでお互いを近づけて共に活かし合う関係を築くのです。自然は孤立していると本当に弱いものです、ですからそれぞれが助け合って存在しています。

あの野生の草花でさえ虫たちや鳥たち、そのほかの菌類にいたるまで様々なところでお互いを活かしあってともにこの自然を楽園にし生き抜いてきました。文化が存続するというのは、シンプルに言えばお互いの種を永続させて残すということです。

そのためには、力を合わせていかないと子孫につなげていくことができないのです。これは単に子どもを産むことだけを言うのではありません。これは共に活かしあう関係をどのように維持していくかということをもっと真剣に考えるということです。文明が文化を侵食するというのは、今まで組んでともに支え合ってきた関係と縁を切っていくこです。

たとえば、私たちはお米を食べていますがお米を食べるのをやめれば文化は滅びます。なぜなら文化は何を私たちが食べてきたか、言い換えれば何と一緒に何万年も過ごしてきたかということを否定するからです。

先ほど冒頭で紹介した中尾佐助氏の言葉がとても印象的です。

『「文化」というと、すぐ芸術、美術、文学や、学術といったものをアタマに思い浮かべる人が多い。
農作物や農業などは「文化圏」の外の存在として認識される。

しかし文化という外国語のもとは、英語で「カルチャー」、ドイツ語で「クルツール」の訳語である。
この語のもとの意味は、いうまでもなく「耕す」ことである。

地を耕して作物を育てること、これが文化の原義である。

これが日本語になると、もっぱら「心を耕す」方面ばかり考えられて、はじめの意味がきれいに忘れられて、枝先の花である芸術や学問の意味のほうが重視されてしまった。

しかし 根を忘れて花だけを見ている文化観は、根なし草にひとしい。」

この根とは種のことです。そして今年の私は「里」がテーマですが、里は共生のことです。真の文化とは共生のことであり、共生することで互いを活かしあうことではじめて子どもたちはこの先も安心してこの地球で幸福に暮らしていくことができるのでしょう。

本来、どのような環境を残していく必要があるのか、かつて苦しかったとき、ピンチだったときに助けてくれた仲間たちを蔑ろにしていないか、本当につらい時期を乗り越えたものたちを粗末にしていないか、恩を忘れてはいないか、そこにも生き方があるように思います。

稲や豆だけではなく、牛や馬、鳥などかつての仲間は今はどうなっているのでしょう。

まだまだ自然のルーツから学びなおしていきたいと思います。