個性の尊重~人生を信じるということ~

自分の人生を疑わない姿勢というものは何よりも大切なものであろうと思います。

自分のやりたいことがわからないということで悩むのは、自分のやりたいことを無理やりにつくってきたからともいえます。あらゆることの制限の中で、自分のやりたいことはこれだと無理に教え込めばそれは刷り込みになるのです。

以前、子どもの学校の話で夢を持たせるというものがありました。時間内に夢を決めてきなさいと言って授業参観で報告させるという内容です。夢がないので周りの子どもが書いているものに合わせて書いたという子ども、親が言うとおりにしたという子ども、だいたい身の回りにある職業から決めたという子どもがありました。

本来は自分のやりたいことの先に自分の夢があるのですから、やりたいことは自然に出てくるというのを待つということを信じるということです。しかし、今の世の中では先に何かがあってからでないと頑張れない、結果が先という概念が横行しているようです。結果ありきであれば、努力の真価やその有難い機会に対する感謝なども感じられなくなるでしょう。私にはどんな成功者も結果意外のものを追っている人という定義がありますから、成功の定義を教える人が成功したことがないので分からないままに教えているのかもしれません。

本来の自分の天性というものは、天が与えるものです。たとえば、産まれてから分かれるものに男性女性からその先の個性に至るまで自分の性格というものは天地一体の役割の中で確かなものが存在しています。

その役割がどのようなものかとわくわくドキドキと楽しもうとすることが夢につながっているのではないかと私には思えます。他と比較したり、単に客観的に評価されている世の中の成功者のようになろうとしても、その通りの役割が自分にピタリと当たるのはほんの偶然の産物です。ほとんどの人は自分自身の人生とは異なるものを探し求めては、自分の足元を深く掘り下げようとはしないのです。

あるがままの真の自分自身になるということは、自分の役割を正しく果たしているということです。それは丸ごとの人生を疑わないということであり、自分の個性を尊重して性格を育てていくということです。

それを自分が先にこんなはずではなかったとか、あの人と比べて自分はまだこの程度などと人生に文句を言えば、自ずから個性を否定していることになり、自分自身ではない他人の人生を自分の人生だと勘違いして生きてしまうことになるのです。

自分の人生というものは、今、与えられているすべての機会を自分のものだと信じることです。言い換えれば、そのお役目そのものが尊いということです。どんなお役目であれ、自分に役割があるということを思えばそのもの自体がかけがえのない大切なものをいただいていることに自明します。

人生には無駄がないというのは役割があるという意味です。どんな体験であれ、自分の今いる此処で全身全霊、精いっぱい生き切ったならばそれは天寿を全うしたのだという有難い恩恵の中にいたということでしょう。

誰かと比較し早死にとか病気だとか、他にも色々と不満があるかもしれません。しかしご縁という世界から物事を観れば、一期一会に与えられているつながりに心から感謝できるものです。あなたがいるから私がいる、私があるからあなたもいる。どちらも一生懸命に真摯に人生を生き切っているというのが絶対安心の境地、人生を信じるということでしょう。

疑わないというのは、ありのままの自分自身になるということです。

信じたものが子どもたち一人一人の個性を育む環境につながっていることを忘れずに、見守る環境や子ども第一主義の伝道に自信をもって命を懸けていきたいと思います。