道具の自味

先日、人吉にある日本で唯一の鋸鍛冶師「岡秀」の仕事を見学し鍛冶やその道具について話をお聴きする機会がありました。全国の山師が信頼を寄せるその鋸ですが実際に自分の手でその鋸を使ってみると驚くほどの切れ味と使い勝手に感動しました。

実際に鉄を打つ現場も見せていただき、その工程についても拝聴させていただくと大変複雑な工程を丁寧に一つ一つ心を籠めて手作りしている様子に、道具の作り手と使い手の真心を実感しました。

昔は、道具というものはその道具を用いる人、その道具を作る人が一緒になって創意工夫をし、その道具を育てていました。先人たちは、その用途にあわせ、また自分の技術や実力、器用さに応じてその場その時その性質によって道具を使い分けてきました。

農具などは、全国津々浦々のその土地の性質でまったく異なるものが作られてきました。その地方独特の道具が開発されてそれが代々受け継がれています。それと同時に各地方には鍛冶師がいて、道具を打ち直し、その道具のいのちを伸ばし、またその道具とともに伝統や歴史、その精神を受け継いできたともいえます。

同じ鋤や鎌、鍬ひとつとっても長さや重さ、そして形状、それは様々な性質を見抜いてはそれに沿って道具を工夫しているのを拝見すると昔の人たちは自然の見立て目立てができたということが観えてきます。

現在はホームセンターなどで画一化された道具や機械化されたものを使いますが昔の道具は人を選んでいたともいえます。だから道具も人も育てる必要がなくなったのでしょう。

昔の人たちは鍛冶からたくさんのことを学んでいたのがわかります、その証拠に鍛冶に関することわざがたくさんあるのです。

「鉄は熱いうちに打て」「付け焼刃」「頓珍漢」「焼きを入れる」「相槌を打つ」「しのぎを削る」「磨けば光る」等々、まだまだ相当数の言葉が遺っています。

それらの言葉が、お話を聴きながら自然に出てくることに道の職人の仕業の奥深さを体験しました。そして中でも印象深かったのは、「味」のお話でした。

「なんでも人は味わが分かるようにならないとその本質が観えない。切れ味は自分で確かめた方がいい。その道具の味がわかっている人にはすぐにその味の善し悪しがわかる」というのです。

何より今回の体験で鉄を打ち錬金する中にある「切れ味」という「味わい深い」世界が存在するということを知りました。切れ味がわかるようになるには、自らを研鑽練磨し、真剣勝負の実践の中で研ぎ澄まされた自味を育てていく必要性も実感しました。

自然の道具を人具一体に育て上げている職人に心から敬意と同時に、その道具を使いながら自分を育てていくという学びをこれから一つ一つ自助研磨しながら味わっていきたいと思います。

道具は思想そのものであり、その思想を使う使い手もそれによって活かされるということ。道具がちゃんと使いこなせるようになるには、道具が分かる人の生き方が身に沁みなければ近づけないということです。

私の作る様々なマネージメントという名の道具もまた、これと同じものなのです。道具を販売するのなら同時に道具の味わいが分かる世界を体験することがもっとも近道なのかもしれません。道具によって人を育てるという先人の知恵を活用しているからです。

有難いご縁に感謝しております、御蔭様でこれからの道程で手作業に入ることがより楽しくなりました。

道具から学び、その道具を深め育てて自己一心の道具を開発していきたいと思います。