龍とプロフェス

人間はその人を理解しようとするとき、その人がどのような人物であるかを客観的な判断材料によって判別するものです。

趣味とか、仕事とか家族構成などもそうですが、そのものの特徴をある程度ジャンル分けして判別するものです。

そしてそのジャンルというものは、世間一般の常識である程度この辺の人物ではないかと判断されてしまいます。特に会ったことのない人や、又聞きをする人は、ほとんどその本質を理解するのではなきっとこうだろうといった思い込みで分別してしまうものです。

一般的な人間の特徴として、発達を通してある程度の身近なことは自立できるようになります。社會性が必要ですから、他人に迷惑をかけないようにしたり、自分のことはある程度自分でできるように躾されていくのです。そのため、自分というものは他の人と同じことができるようにもなっていきます。

学校の勉強や、お手伝いなどもよほど反抗しない限りはある程度はできるようにしてくれるのです。

しかしその人本来に具わった性質や性格というものは天が与えたものです。

これは躾ようにもどうにもならず、そのものが何をやり遂げたいか、そのものにしかできないことをやろうとするのだからそれは本人にしかわからないものです。周りに合わせている自分というものと、本来の自分というものがあるのです。

本来の自分で生きようとするのがプロフェッショナルのように思います。このプロフェッショナルの語源は、「プロフェス」といい、「神に誓いを立てる使命の厳しい人」という意味になります。私なりの解釈では「大義」のことであろうと思いますが、天が与えた使命に対して天真を発揮する人物ということです。

これは自分の直感に従って、天が与えた天性を磨き上げていくということです。そしてこれとは別にアマチュアというものがありますが、アマチュアの語源は、「愛する人」といいます。これは人間の持つ愛し合う特性のことを言っているように思います。仕事では素人と言われますが、これプロではないという意味で使われているのでしょう。

人間、如何に自らの使命に燃えてそれを貫き果たすかはその性を生きるか、そしてその性にどう死ぬかという生死を度外視して一期一会の今を生き切っていこうとすることだと思います。

相田みつをさんにこのような詩が遺っています。

「プロというのは、寝ても覚めても仕事のことを考えている。生活すべてが仕事。そこがアマチュアとの絶対差だ。」

この絶対差というものは、自分の信念を生き切っているかどうか、自分のいのちを遣りきっているかどうかの差のことでしょう。

自分にしかできないことを遣るという意味の難しさは、世間の常識や世の中の分別知からかけ離れていますからずっと誤解ばかりで大変さは痛感していますが、それでもやむにやまれるのは自分の中に棲まう大和魂という名の龍が居るからです。

志を高めて、大義に寄り添い、一期一会の今を味わっていきたいと思います。