自然の評価

人は自己肯定観が低いと、どうしても他人の価値観や評価に合わせてしまいます。言い換えればあるがままの自分でいることよりも、周りの人たちの評価に合わせた自分を演じてしまうのです。言い換えれば自分の求めている評価が周りから手に入らないという執着の一つです。

これはありのままの自分というものよりも、皆に合わせている自分でいることを優先するときに本当の自分が分からなくなり苦しくなるのです。幼少期の体験が影響をしているとも言いますがそれは切っ掛けにすぎず、みんな自分が役に立っているかどうかを判断するのに周りの他者評価を確認するのです。

実際には、自分が相手を思うように相手は自分を思っていると実感することかもしれませんが自他一体に必要としあっているという感覚を持つには、お互いにありのままの自分で精いっぱいに生き切ることしかないようにも思います。

そもそも自分の存在や能力というものは、自分のものではありません。これは天や神仏、先祖から分けてもらった力であり存在です。それは何かに必要だからそのようになったともいえます。

たとえば、植物や樹木の世界でも多様性があり、時代に合わせて寒い時期に強いもの、温かい時期に強いもの、虫に強いものや、病気に強いものまでありとあらゆることに対応できるように微妙に分かれながら変化していきます。同時に強さというのは弱さが生まれますから、弱いものにも分かれていきます。

平均的にみんなと同じことができるから能力が高いのではなく、それぞれに与えられた能力や存在そのものが価値があるともいえるのです。

つまりそう考えれば、誰一人何一つ無駄なものはない。すべては必要であるということを意味するのです。しかしそれを自分が必要かどうかを周りにあわせて判断していれば、そのままの存在価値よりも相手が求めたことに応えられれば必要となってしまうのです。

もちろん役に立ちたいですが、立てないこともあります。その場合は意気消沈してしまいますが、その時同時に自分の存在はほかの誰かの役に立っていることが多いのです。

例えばある植物が花を咲かせてほかが咲かせないとします。ミツバチや蝶々には役に立てなくても、そのほかの虫たちや後からやってくる生き物たちには役に立ちます。自分がそう思っていなくても、自然界では自分らしく一生懸命に生きるのなら天がそれを調和してくださるともいえるのです。

つまり人事を尽くしていけば天命が下るように、自分自分を精いっぱいに生きていれば何かの一つの評価基準に囚われなくても必ず世界や歴史、自然の御役に立っているのです。もちろんお役に立ちたいと願うことは大切ですが、無理にお役に立つためにその人のための仕事を創っていたら周りのみんなも合わせるために大変になります。

自分の存在は天が与えてくださったものだから、一生懸命に楽しもう、一生懸命に生き切ろうと真摯に自らの道を歩むときに自己肯定ができると思います。つまり自己肯定とは、「これでいいのだ」と自分のすべてをあるがままに受け容れることです。

もしも自分が居なくてもいい存在なら、神様もつくっていないと思います。自分が気づかないだけで必ず自分は何かの役に立っているのです。自分が役に立たないと真面目に思うのは、人間の評価に縛られているからです。自然の評価に合わせていけば、雑草であろうが害虫であろうが、病原菌であろうが、すべて必要不可欠な存在なのです。

世の中にこうでなければならないという頑固さは、同時に他を排するといったマジメさを蔓延させてしまっているように思います。余裕をもって豊かに生きられるようもっとゆっくり、もっとじっくり、今の自分が存在させていただけることを味わいながら自分の存在のままで真心でつとめていきたいと思います。

自然の評価は、かつての祖神から受け継がれてきた古道、かんながらの道にあるような八百万の神々です。すべての生き物は宇宙地球の分霊であり、そのままに神々なのだから自分を認め大切にする真心をもって周りの神々を認め大切にしていきたいと思います。