子ども第一主義の旅~貢献~

樹木についての共生は運命共同体だと書きましたが、貢献についてここでもう一度深めてみます。

そもそも樹木に限らず、すべての生命は自分たちの種を遺すことを使命にしています。自分たちが今まで生きているということは、かつて様々な気候変動や環境の変化の中で生き抜いてこれた変化があったということです。

その変化は今の時代でも続いていて、常に生き物は変化に対して適応していかなければ子孫を残していくことができないのです。温暖化や寒冷化でもそうですが、その時代時代の変化の中で命を懸けて真摯に真心で生き切ったものが、次の子孫に突然変異をもたらし次代の環境に適応させていくのです。

例えば菌類などもそうですが、常に生まれ変わる中で変化をつくあげていきます。何世代も何世代も生死をめぐり繰り返す中でもっとも環境に適応する種を創り上げていくのです。

共生も同じく、そのものの種を遺すために、その環境や人物と調和していこうとする力、種を遺すために共存共栄していこうとする意志がいのちの中には存在するということです。共に歩む者たちが似てくるのも、共に必要としあう物たちが近づいてくるのも、同じく共存共栄の定理に沿ってのものです。

そして貢献というものは、自然界ではどういうことかといえば生きている過程で大きな無駄を発生させていくことです。

例えば、樹木でいえばドングリなどもそうですが何万個の種を地面に落としてはほとんどすべてが何かしらの生き物たちの食糧になります。その中から1本以上の木が実をつけることができればそれで繁栄できるのです。ほかにも、果実を持つ樹木もたくさんの果肉を提供しては種を飛ばしてもそのほとんどは人間からみれば無駄を発生しているように感じるものです。

しかし発展と繁栄というものは、その無駄多きことの中に存在しています。その無駄はそのものにとっては無駄であっても、周囲にしてみれば決して無駄ではないのです。

人間は軸足が自分にだけ向いていると、その無駄を嫌うようになるものです。自分の物差しで価値を判断し、自分にとって利益があるかないかでその無駄を測るのです。しかし実際は、その一見無駄とも思える中に他への貢献があります。だからこそ自然は、貢献を重んじるのです。

「自分が一生懸命に真心で生きればそれが誰がのためになる、自分の実践が誰かの勇気や元気になる」という言葉も貢献を志す言葉です。貢献したいと願う理由は、そこに確かな子孫繁栄への道筋が存在しているからです。

貢献していくための無駄というものは、その人物にとっては無駄でも、決してそれは全体にとっては無駄ではありません。如何に周囲のために自分を使い切っていくか、如何に全体の為に自分を遣り尽くしていくか、その行動と実践、それが人事を尽くすということです。

そうしていえば、天や自然が必ず善いことにしてくれるということを生き物たちは直感しているのでしょう。進化というのは発達と発展であると私は確信していますから、その発達と発展とは、共生と貢献であるということです。

自然は当たり前の真理を私たちに思い出させてくれます。知識ばかりが多くなって、シンプルな本質も分からなくなっているようでは刷り込みに負けてしまうのは当然です。

最後に種は旅をするということを教えていただきました。旅とは古くは、タベ(たまわれ)とかタビ(他火)という語源が示すように旅は苦行ともされていたそうです。生業を旅まわりともいうように旅を通していのちは無限の生長を已まないということでしょう。

旅そのものが学びであり、旅そのものが人生なのだから、旅を通して浄化し刷り込みを取り払い、常に苦しいながらも楽しむこと、その進化と変化そのものが愉しいというような一期一会の「子ども第一主義の旅」を味わっていきたいと思います。

共生とは何か

昨日、社内研修にて森林インストラクターの方から樹木の話を拝聴する機会がありました。

樹木の世界はとても奥深く、少し触れただけですが私たちよりもずっと前からこの地球に存在し、今までどのように生きてきて、今どのように生き残っているのかをお聴きすると同じいのちを持つものとして尊敬します。

今も生き残っているということは、今までの環境の変化の中で適応してきたということです。言い換えれば、今生きているのはたくさんの恩徳の御蔭様であり、またその生き物があらゆる環境下において助け合って生き残ったという証でもあるのです。

種が残るということは、後に譲っていくということであり、自分の変化そのものが子孫を守るということですからこれは本当に先祖の偉大な丹誠と徳恵をいただいたことに気づきます。

これからいくつか樹木についての発見をまとめていきますが、共生についてまず深めてみます。

例えば多くのイチジクの仲間(クワ科イチジク属)は、イチジクコバチ(類)と呼ばれる小さな蜂をポリネーター(花粉の媒介者)がいるそうです。そして、イチジクの種類ごとに異なるイチジクコバチがいて、お互いに繁殖するために共生関係を結んでいます。

お互いに進化することでお互いが進化する、イチジクが変化すればコバチも同じように進化するという関係が存在します。しかし強い共生関係は強い繁殖を産みますが、お互いのどちらかが絶滅してしまうと同時にそのペアの相手も絶滅してしまうそうです。まさに運命共同体です。

自然界はこのようにお互いが活かしあえるのならば、助け合おうとという関係はイチジクだけに限らず、多くの植物と昆虫の間にも見られます。

同時に人間と植物、人間と虫や動物との関係もあります。たとえば、ツバメと人間であったり、蜘蛛と人間であったり、稲と人間であってもそうです。お互いに長く生き残っていく中で互いに互いのことを必要としあって共生してきました。

不思議ですが、自分が生きているということは一緒にいきていた運命共同体がいたということです。その運命共同体がいなくても生きていけるように改良されたり、改造されたりしていますが、必要としなければ絶滅しますから種が減ってくるというのは互いに活かしあう関係が断裂しているともいえるのです。

自然界の絶妙な共生関係を崩してしまうのが人間だとしたら、この人間に適応するために動植物も大変な変化を強いられていることを実感しました。進化や変化は地球の気候変動に左右されるものですから、何があっても生き残れるように工夫してきた種が断絶してしまうということはそれだけ私たちが生き残る戦略も減っていくということなのかもしれません。

先祖たちはそういう大事なことを知っていて、だからこそ杜を守り育て生き物たちがたくさん生存できるような環境を遺してきたのかもしれません。環境に優しいとか色々と今は言われていますが、本来はそういう人間側の都合で語られるものではないことを直感するのがこの共生の原理です。

共生とは運命共同体のことです。

運命共同体=共生であることを決して忘れずに、どうあるべきか自分たちの生き方を見つめ直していきたいと思います。子どもたちや子孫のために、自然とご縁を結び直し絆を深め、一つでも多くの運命共同体を遺していきたいと思います。

顕彰の証

陰ながら善行を積み上げてくことを陰徳といいます。

顕彰という言葉がありますが、あれはその人の陰ながらの功績や善行、真心を忘れないという意味で使われます。彰という字は、明らかになるという字で、同じく顕という字もはっきりと明らかになるという意味です。

これは何が明らかになるのかといえば、目には見えないけれど偉大な恩徳が明らかになっているという意味です。

吉田松陰は、自分が正しいと信じて実地実行するのならば誰が分かってもらえなくても後の世に同じ聖人の道を志すものたちがいつかは自分のことを分かってくれるから気にせずに突き進めと弟子たちや自分を叱咤し善行を積むことを優先した人物でした。

それは留魂録にも、生死を度外視というものの中に確かな徳を積むことの価値を述べています。そしてそれはやはり死して彰かになっているものであり、後の世の志士たちに顕かにされていくのです。

表彰というものは、その陰徳を顕かにしていくものです。

その人が自分が信じた正しい道を踏み固めるとき、誰がわかってくれなくてもどんなに評価してもらえなくても、それを観ているものがあることを全体に伝えること。決して目立たなくても、決して覚えてもらえなくても、その人が積み上げたことが後の世に偉大な功績を遺したことをはっきりと明らかにすることが社會をよりよくしていくことにもなるのです。

今の時代は、表彰というとすぐに人を操作したりとか動かすためにとかいいます。しかし本来はそういうものではありません。

祖先や古人たちは、善いことがいつも観えていました。心が澄み善行や陰徳を常に観える目がありました。だから人が陰ながらやっているのを察して讃えて、常にそういうものを見つけよう、そういうものを育てて守っていこうとする真心や思いやりがありました。

今ではそういう陰徳を観ようとはせずに、見た目や結果がよかったものだけを褒め称え、その陰で目立たずに地味に世の中のことを憂い、平和な社會のためにと徳を積む人たちに気づかなくなってきました。

昔、「木を植える男」という絵本を読んだことがあります。その絵本にはある荒れ果てた村を、一人の男が生涯を懸けてどんぐりの種を植え続けて後世にその村が豊かな森林や水に溢れ、たくさんの家族が移り住み幸せに平和に暮らす村になった話です。

あの絵本にも、表彰や顕彰という意味が籠められています。

そういうことを忘れてしまう組織や社會というものの中に欲や悪行を蔓延らせる何かが潜んでいる気が私にはします。

これから考えようとしてしている私たちの顕彰の仕組みは、子どもたちにそういう陰徳を忘れてほしくないという祈りと願い、そしてそういうものを私たち大人が何よりも大切にしていきたいという覚悟です。

出会いはいつも私に有難い贈り物をいただけます、ご縁こそが御蔭様でありそれが顕彰の証ですからしっかりと受け止めていきたいと思います。

社會徳

ここ数日、社會に関することを書いていますがそもそも社會をつくる仕事とはどういうことかということを掘り下げてみます。

そもそも社會というのは、人間が一人以上存在する中で成り立つものです。もし無人島に一人で生活するのなら、別にそこに社會は必要ではありません。当然、生きていくためには人間以外の生き物たちといきていきますから広義でいえばそこにも社會はあるとしますが今回は人間社會ということにします。

つまり人間が一人以上になれば社會を形成しますから、社會を形成するというのは人格を形成するということです。人格を形成する必要があるのは、そこに道徳がなければお互いを尊重し合うことができなくなるからです。道徳とは自然の一部である自覚のことです。

先ほどの無人島であっても、人間がもしも道徳から外れるならば島にあるものを全て殺傷し搾取し、あっという間に島の生物たちが死滅してしまいます。そうするとその人間も終には死んでしまいます。そこに人格が形成されれば、社會を活かそうとし周りを助けて自分も共に生きて貢献する道を選んでいくはずです。そうすればお互いに長くその島で幸せに暮らしていくことができます。

このように社會を形成するというのは、その人格を形成するということです。そしてこの人格形成というものが私にとっては教育の本義です。教育とは社會を形成していく人材を育てていくために行うものでしょう。つまり見守る=保育に対して、人格=教育というのを根底に持つのが本来の日本人の民族性からの言葉の意義でしょう。

それを忘れていくら難しい議論を戦わせても、結局は欧米文化の枝葉を揺さぶっているだけで自分たちの持っている日本人の精神を活かしているわけではないのです。

話を戻せば、社會というのは道徳によって行われるときもっともお互いを尊重し合う平和で豊かなものになります。そのためには、人間から道徳をどう引き出していくか、道徳をどう高めていくかということが基本になるように思います。

孟子は、惻隠の情といって人間はもともと善であるという言い方をしました。この善は善悪の善ではなく、そもそも天が与えた天性と天命を持っているという意味での善であると私は定義します。

そういう天の化身が人間なのだから、天の真心を持つ人間から道徳を引き出していけばいい、政治はそうあるべきであると説いているように思えるのです。

だからこそ如何に道徳を引き出していくかは道徳を教えることではなく、その人を信じて見守りその人の善いところを認めて褒めて表彰していくことのように思います。

二宮尊徳は、徳に報いるという言い方をしました、報徳のことです。人間には誰にしろ必ずその心身に徳を享受されている。その徳を引き出し報いようとすることに社會の社會たる価値があるのでしょう。

如何に社會に徳を引き出していくか、ここからが新たな挑戦です。

社會企業

昨日、もう30年以上児童養護施設でお仕事をされている施設長の方とお話をする機会がありました。色々とお話を伺っていると、この業界は人手不足や過重労働で大変なことになっているそうです。

児童保護された子どもたちの世話といっても、実際は家族と共に生活していくのを一緒に行うようなものです。24時間、365日、いついかなる時も活動していますからなかなか働いている職員たちがミーティングする時間も取れず、どうしても目の前のことに追われていることが多いようです。今では、業界の就職定着率が平均3年ほどしかないとのことでとても苦労しているようでした。

現在、看護や介護、福祉という社會のための仕事が人気がなく萎んでいるという現状に何か大きな危機感を感じてしまいます。

その施設長の方は、「日々のことに追われて目の前のことしか見えなくなっていけない、社會のことを常に観ていくことが社會福祉法人なんだ」と仰っていました。

続けて「福祉の仕事は自分の中だけでやるもんではなく、本来は社會を相手にしていることを忘れてはいけない」とただ目の前のことに追われるのではなく、社會を相手にしているかという意識が大切だと朝会などでよく話をしているそうです。

本来、私は社會福祉も社會企業もすべてはそこに社會が入っているものだと思っています。これは福祉や企業という言い方でもなく、個人でも自分でも同じです。そこには必ず社會というものがあるのが人間であり人間=社會です。

その社會がどうあるべきか、その社會をどう創っていくかは一人一人の社會参画に関わっているのです。単に日々に仕事や業務だけをしているのは目の前に追われている状態ともいえます、もしも日々の仕事が何のために行うのかを観えていればそれは社會を相手に働いているということになるのです。

どの立場や職種からも善き社會にできるからこそ会社や組織はそのために働いているともいえます。社會教育であれば、よりよい社會をつくる子どもたちを育てているのであり、社會福祉であれば、思いやりのある社会をつくる人たちを養護しているのであり、社會企業であれば、社會が間違った方へいかないように正したり直したりすることを行っているのです。

私たちの会社は社會企業であり、自分たちが相手にしているのは目の前の業務ではなく社會全体です。世界を変えるというのは、社會をより善くするということでそれは自分の働き実践そのものが如何に社會に影響を与えているかという実感を日々に持つことのように思います。

何のためにを忘れるとすぐに人は目の前のことに気を取られては、日々に忙殺されて自分自身のことだけに囚われてしまうものです。特に今のような時代はどれだけ本質から外れていないか、如何に本質に止まることができるかが大切のように思います。

社會というものは変化していますが、変えてはいけないもの、変えなければならいものは常にその時代を担う人たちの責任であるように思います。

最後に「今の福祉は全部後手にまわってしまっている」という言葉が印象的でした。そういう立場に追い込まれるほど社會が今は貧しくなっているのかもしれません。だからこそ私たちのような社會企業家たちが立ち上がり、世の中を変革していくために自らの働き方と生き方をもって社會に1本自らの姿勢を立ち上げていくことが志士たちの役割なのでしょう。

社會を信じているからこそ、自らの組織で社會を創り上げその一員として社會に存在意義を示すこと。先日の日本理化学工業の視察でも実感しましたが、今こそ社會企業がお役に立てる好機なのかもしれません。

実践をお役に立てていくように、常に前進して已まない自分を練り上げていきたと思います。

個性の真価

人は自分の能力の如何で自分が役に立ったかどうかを自分で判別しているものです。能力が高いと一般的に言われるのは、他の人ができることが自分もできるということです。

しかしそれができない場合は、能力が低いと言われ自分が役に立てないと感じてしまうのです。先日も有能と有用の違いについて書きましたが、有能というものは能力があるということで有用は役に立つということです。

そして私は本来の有能も有用もそれは個性のことだと思っているのです。

人はその人らしさを発揮していれば自ずから有能が発揮され有用になっていくように思います。組織の中で、自分が周りと同じことがたとえできなくてもその人らしい個性が組織で存分に発揮されていればそれがもっとも価値があるのです。

例えば、明るくて楽観的で前向きな人はその人らしくいれば周りに元気ができる存在になります。他にも冷静で客観的で安定感のある人は、周りに的確な判断を与えられる存在になります。他にも慎重で丁寧な人、実直でコツコツの人、繊細で優しい人など、その人の個性そのものが周りを活かし豊かにするのです。

個性を発揮するというのは、自分がその自分の個性を認めその個性を積極的に発揮していく必要があります。周りと同じようになろうとか、周りと同じことができるとか、そういうものを能力だと勘違いせず、自分の個性そのものが周りのための有能さ有用さなのだと発想を転換することで自然に周りを活性化していくのです。

自然界というものも同じく、そのものがそのものらしく生きているだけですがそれだけで周りを活性化するものです。すべては自然の一部なのですから、その一部が発揮されれば全体が発揮されていくのです。

しかし人間は自然の一部であることを忘れて、自然から離れて自分で完結することを自立だとか勘違いしてしまいました。組織から離れて自分のことは自分でできることで迷惑をかけていないなどという人もいます、しかし本当にそうでしょうか。

迷惑をかけないというのは、迷惑をかけているという自覚であり、それは自分が全体の一部である自覚を忘れないということなのです。社會というものは自然と同じです。つながりの中で一部として存在しているのですから、つながりが断裂しないように常に慈しみ手入れをし、つながりの中で自分の個性を発揮させることでみんなの仕合せに貢献しようということが働くということでもあります。

仕事だけできるなら能力さえあればいいのでしょうが、仕事ができないのも能力のせいにしてしまうなど言い訳になります。そうではなく、働くというのは如何に自分自身の個性を発揮してみんなの御役に立つかを積極的に実践するということなのです。

これは私の確信ですが「自らの個性を活かす時、その存在そのものが誰かの御役に立つのです。」

自分の存在が役に立っていないなどと嘆き文句を言う前に、では自分の個性を発揮しているかと自分と正対し間違った考え方を払しょくすることのように思います。

自分が自分らしい時、それが有能であり有用なのです。

個性とは、天の命じたその人の一個の天性です。その天性を活かしなさいと天は私たちに与えたのです。それを私物化して活かさなければ周囲から奪う存在になってしまいます。もしもその個性を周囲のためにと発揮するならば、それは天が与えたものを周りの人々へと与える行為になります。

奪う側か与える側か、これも生き方働き方、自分の積極的な心がけ次第です。

環境や状況に左右されずに発揮すべき真価とは「個性」なのでしょう。
自分らしく輝いているか、これは自立をテーマにする私たちの本義です。

自助精進

昨日、昔から私たちと一緒に理念を取り組んでいる園を、これから一緒に理念に取り組む園が見学に伺いました。もう6年も前から一緒に実践を高めて取り組んでいますから気心も知れているのですが、改めて学び直すと本当に多くのことに気づかされる素晴らしい一日になりました。

人生には無駄がないというのは、決して無駄になっているものはない。その一つ一つに気づけるかどうかは自分次第であり、その事物から教えていただくことの方が確実なのです。

過去に共に歩んできた軌跡が如何に有難いことだったか、誠実に正直に取り組んでお互いに信じてきたことが如何に価値があったのかは、振り返った時にこそ味わい深くなるものです。

信頼というものは、信じて認めるということですが一緒に真剣に取り組んだからこそそれが強い絆になって今を照らすのでしょう。同じような悩みや苦しみがあり、そしてそれを乗り越えたものもこれから乗り越えるものも共にその大切さに気づけるということは道を一緒に歩んでいきましょうという無言の励ましになるのです。

他人が実践し踏み固めてきた道を観れば、それを観て元気を出るのは諦めなかったという心の姿勢に触れるからかもしれません。理想に向かって信じて歩んできた仲間たちの存在は心強く自他を愛し励ますものだと改めてご縁に感謝する日になりました。

特に感謝したのは、一緒に取り組んできた理事長の一言です。

如何に人が定着するかという話の中で理事長が大人も子どもも同じことですという話です。他人が居心地がよくなるのは子どもならどうか、

まず一つ目が「ここは僕の部屋だよ。」と子どもが感じていること。そして二つ目が「大好きな先生がいる」こと。そして三つ目が「大好きなお友達がいる」ということと教えてくださいました。

これが大人であっても同じことで、その職場は自分の家だと思えること。そして大好きな上司や大好きな仲間たちがいればそれがもっとも居心地が善いと仰っていました。

そのうえで、美味しい給食、色々なイベントとか、その他の処遇とかのオプションがあればいいとありました。

そして「この保育園の一人だと思えることが大事。」だと語られました。これは言い換えればこの組織の一員だと思えることが何よりも大事だということです。

自分がこの一員であることに誇りを持てるような関係になることがもっとも有難いことかもしれません。本気で理想を求めて已まず実践を励まし合い助け合い、どんなことがあっても前に進む、いや、進んでこれたという大好きな自分を持てる人が一人でも増えることが遣り甲斐であり働き甲斐だからでしょう。

実際は大変だったし今も大変ですと同時に仰られる姿に、ご縁と出会いがあったことに深い感動がこみ上げました。一つのことが結実するのは数年から十数年、もしくは数十年、数百年とかかるかもしれません。

しかしこの道は一度しか通らぬ道、もう二度とは通らぬ道なのです。

恥じないように誠実に取り組んできたことが、形になることは本当に有難いご縁に見守られ支えられた日々があったという証明です。饅頭を増やすよりも餡を増やせという言葉の意味も改めて深く腹に落ちてきます。

まさに「天は自ら助けるものを助く」です。自助精進こそ進化成長の要諦ということなのでしょう。

引き続き、人が仕合せになる仕組みを人が徳に報いる自らの実践を怠らず日々を真摯に高めていきたいと思います。

 

実践の励まし

実践をしていると、いつも蔭ながら多くの人たちに支えられ応援されていることに気づきます。

先日も、クルーブログというものを愛読してくださっている方から色々な質問をいただいたり、また新聞を読んでくださっている方からも記事を褒めてくださったりしました。

他にも日ごろの実践がお客様のところで、参考にしてくださったり真似してくださったりと発信したことを丸ごと信じて一緒に取り組んでくださっていたと知ると、有難い気持ちになり頭が下がる思いがします。

本質から外れないようにと、理念を忘れないようにと、日々に実践を増やしては来ましたがそれが誰かの勇気になったり、それが誰かの貢献につながっていくのを実感すると、正直に取り組んでいてよかった、誠実であって善かったと自分を褒めたくなるし自分を好きになるものです。

人間は正直に行うことや誠実に取り組むことが最も尊いと気づくのは、見た目で誤魔化さなくても自分自身が観ている、自分が取り組んでいることは天が知っていると自分に正直誠実であるときかもしれません。

実践をさせていただける有難さというのは、実は多くの人たちの見守りがあってこそだと直観するのです。

実践はひとりで黙々と坦々と行うものですが、それが知らず知らずにお役に立てていると知るとより心が強くなっていきます。そして一緒に実践してくださる仲間たちが増えていくのは何とも心強い気持ちになります。

道はどのように歩くのかはその人が決めるものです。二度と同じ道は通らず、もう一度通ることはない道なのがこの人生です。その人生をどのように歩んでいくのかはその人が決めています。

その信じた実践をみんなで持ち合って、お互いに道中を励まし合いながら助け合いながら歩める道は、豊かで愉しいものであるのです。

たった一度の道をどのように歩めばいいのかを発信していくということは、自分の生き方を、そして働き方を示すことです。何のために生き、何のために働くのかを発信するということは、同じように生き、同じように働きたいと願っている人たちの励ましになるのです。

励ますというのは、背中を見せることかもしれません。そしてその背中をそっと押してあげることかもしれません。人は信じれないようなことが多いとだんだん不安になり分かっていてもできないというように歩みが弱弱しくなってしまいます。

そんな時こそ、実践がお役に立ち、励ませるように思えるのです。

どの人生も、いや、すべてのいのちもその生き物が生きる以上、自然界では何かの御役に立っているのですから正直に誠実であればそれだけで周りの力になっているというのは真理なのでしょう。

多くの励ましをいただいているからこそその有難さを決して忘れず、感謝の顕れでもある日々の実践を怠らず、正直に誠実な自分を高めていきたいと思います。

信を握り合う~絆~

人間は誰かと一緒にいるだけで支えられるものです。

特に価値観を共にする人と一緒にいるというのは、お互いの存在を認め合い、お互いの努力を信じ合えますから居心地が善くなるものです。

昨日もお客様のところで同じ実践を積み上げていく中で共に振り返り、共に反省し、共に励まし合う中でお互いが信じ合うものを確かめ合う中で仕合せを実感しました。

また相手から求められ、一緒にできる仕合せの御蔭で安心できますと言われると何とも有難い気持ちに心が満たされていきます。

御縁というのは不思議で、自分が信じて一生懸命に行い愉しみ喜ぶことがほかの誰かのためにお役に立っていると思えることは有難いことです。そういうご縁をいただけるのもまた喜びと幸せであり、そういうご縁に導かれて自分か活かされていることに感謝の心に満ちてきます。

相手を思いやっていながらも相手からも同時に思いやっていただいているという感覚は思いやりに満ちていると思います。

つい人間は一人でやろうとすると、うまくいかないことを他人のせいや自分のせいにしてしまいます。しかし一緒に取り組めば、相手のせいにも自分のせいにもせず、お互いに感謝しながら必用としあって助け合えるものです。

同じ目的のために同じ理念のためにと力を合わせていけば、そこはまるで家族です。

一緒に実践していられるのは、同じ理念があるからです。理念とは本質のことであり、理念とは自分がもっとも大切にしたい理由です。そういうところをお互いに理解し合い分かち合ったならその時こそお互いが信を握り合うことができるように思います。

信を握り合うというのが絆のことであり、お互いが自分と決めた約束に誠実になっているということです。この強い絆は、お互いが相手をみて自分を変えるようなこともせず、お互いが自分で決めた約束を自分で守るという決心と覚悟に忠実であるということです。

信頼というのは、自分自身に負けずに他人のせいにもしないときに結ばれていきます。その信頼があるからこそ、相手のことを自分のように思いやり、励まし、応援し、労い、そして褒め、愛を与え合うことができます。

自分が遣ってきて善かった、諦めなくて善かったと思うのは、自分が挑戦し自分が打ち克って道を切り拓いてきたことを信じる人たちが幸せになっていく姿を観るときです。

それもこれもまたご縁の不思議な世界に導かれます。

ひとりひとりの出会いを大切に、丁寧に丹誠を籠めて実践を積み上げていきたいと思います。

 

愉快痛快~学びの真価~

昨日は久しぶりに乗馬の稽古をしてきました。

日々に実践をしているのとは異なり、少し間隔があくだけで全身に筋肉痛が起こってきます。相手が機械や物ではなく、生きている動物ですから合わせるといっても全身全霊です。

思い通りにはいかず、これでいいのかという試行錯誤です。師匠はほとんどの指示はなく、じっと見守ってくださるのですが教えようがないことは教えない、何度も訓練して身体で覚えることだと仰います。

先日も教えるということで、気づいたことがあったのですが教えないというのは求める力に応じるということなのでしょうし教化するからこそ人は頭で考えてしまい身体や感覚を用いようとしなくなるのでしょう。

人馬一体というものも頭でできるものではなく、この全身筋肉痛と皮を擦り剥いたりする痛みを伴いながら次第に習得していくものです。

そもそも身体に沁み込ませるというものは、何度も何度も実践するということです。自然農もはや4年ですが、今では4年前と観えている世界が異なりますし身体が気候にあわえて今、何を行えばいいかを先に取り組むことができています。種にも播き時、そして実りも刈り時というものがありますから最初は何度も何度も失敗しましたが今では自然にその時に直感するようになりました。

また虫や草、その他の動物たちの一年の廻りや土の中の微生物の様子まで今では身近に感じて触ることや匂いを嗅ぎ時には舐めてみることで直感します。

乗馬についても、半年から1年をかけて何度も痛みを体験し、身体が覚えるまで全身全霊で取り組むことで次第に乗りこなせるようになるのでしょう。

習得というのは、場数が必要です。

そしてその場数とは自分が求めている質量に比例します。求めれば求めるほどに、その質も高まり、求めれば求めるほどにその量も増えていきます。実際に「心がけ」とはその人の生き方であり、それは単なる考え方ではありません。

その人が求道するその人の一個の人生に於いて、状況や他人のせいにはせずに自分が決心したことにどれだけ誠実であるか、どれだけ嘘をつかずに正直にいるか、それは全身全霊かどうかとうことが試され練磨されるのでしょう。

稽古とは、語源由来辞典には「昔のことを調べ、今なすべきことは何かを正しく知る」と書かれています。先輩や先人に稽古をつけていただけるというのは、本当に有難いことであることがわかります。

そして練という字には、練られるという意味があり、練習、訓練、試練というように練そこには確かな練度があり、熟練した人ほど質量の高い現場の場数を経験しているから指導者になっているのです。

時々の初心を忘れるべからずというのは、どの稽古に於いても同じです。私は善い師、善い体験、善いご縁に恵まれ続けて場数の有難さや練習の楽しさを基礎に持っているのかもしれません。これは頭でっかちにやってこなかった心がけの証であり、いつまでも全身全霊の現場実践で面白い学びの日々を送っていられているからかもしれません。

これも今までの尊い出会いの御蔭様です。

自らを磨き修養していく愉しさを味わい尽くして、成長できる痛みの仕合せに愉快痛快に道を歩んでいきたいと思います。