愉快痛快~学びの真価~

昨日は久しぶりに乗馬の稽古をしてきました。

日々に実践をしているのとは異なり、少し間隔があくだけで全身に筋肉痛が起こってきます。相手が機械や物ではなく、生きている動物ですから合わせるといっても全身全霊です。

思い通りにはいかず、これでいいのかという試行錯誤です。師匠はほとんどの指示はなく、じっと見守ってくださるのですが教えようがないことは教えない、何度も訓練して身体で覚えることだと仰います。

先日も教えるということで、気づいたことがあったのですが教えないというのは求める力に応じるということなのでしょうし教化するからこそ人は頭で考えてしまい身体や感覚を用いようとしなくなるのでしょう。

人馬一体というものも頭でできるものではなく、この全身筋肉痛と皮を擦り剥いたりする痛みを伴いながら次第に習得していくものです。

そもそも身体に沁み込ませるというものは、何度も何度も実践するということです。自然農もはや4年ですが、今では4年前と観えている世界が異なりますし身体が気候にあわえて今、何を行えばいいかを先に取り組むことができています。種にも播き時、そして実りも刈り時というものがありますから最初は何度も何度も失敗しましたが今では自然にその時に直感するようになりました。

また虫や草、その他の動物たちの一年の廻りや土の中の微生物の様子まで今では身近に感じて触ることや匂いを嗅ぎ時には舐めてみることで直感します。

乗馬についても、半年から1年をかけて何度も痛みを体験し、身体が覚えるまで全身全霊で取り組むことで次第に乗りこなせるようになるのでしょう。

習得というのは、場数が必要です。

そしてその場数とは自分が求めている質量に比例します。求めれば求めるほどに、その質も高まり、求めれば求めるほどにその量も増えていきます。実際に「心がけ」とはその人の生き方であり、それは単なる考え方ではありません。

その人が求道するその人の一個の人生に於いて、状況や他人のせいにはせずに自分が決心したことにどれだけ誠実であるか、どれだけ嘘をつかずに正直にいるか、それは全身全霊かどうかとうことが試され練磨されるのでしょう。

稽古とは、語源由来辞典には「昔のことを調べ、今なすべきことは何かを正しく知る」と書かれています。先輩や先人に稽古をつけていただけるというのは、本当に有難いことであることがわかります。

そして練という字には、練られるという意味があり、練習、訓練、試練というように練そこには確かな練度があり、熟練した人ほど質量の高い現場の場数を経験しているから指導者になっているのです。

時々の初心を忘れるべからずというのは、どの稽古に於いても同じです。私は善い師、善い体験、善いご縁に恵まれ続けて場数の有難さや練習の楽しさを基礎に持っているのかもしれません。これは頭でっかちにやってこなかった心がけの証であり、いつまでも全身全霊の現場実践で面白い学びの日々を送っていられているからかもしれません。

これも今までの尊い出会いの御蔭様です。

自らを磨き修養していく愉しさを味わい尽くして、成長できる痛みの仕合せに愉快痛快に道を歩んでいきたいと思います。