真の発酵人~地球が喜ぶか~

人間の腸内には今わかっている範囲で100種類以上、100兆以上の膨大な微生物が生息しています。その微生物群の状況は、人間の指紋と同じく一人ひとり同じものはまったくないといいます。つまり、その人の体の状態に合わせてバランスよく微生物が配置されているということです。

この微生物たちが人間を活かしているのは、この微生物が食事をしたものを消化して発酵することで人間のエネルギーに転換されるからです。これは植物の根粒菌と同じく、土の栄養も根っ子の微生物がいなければエネルギーに転換されないように人間の根も同じく腸の微生物が栄養を転換しているのです。その根粒菌が死滅すれば植物が死滅するように、人間の腸内細菌が死滅すれば同じく死滅するのです。

その腸内細菌は、常にバランスを維持しています。健康も不健康も、その人の腸内の微生物の環境によって左右されていきます。よく生活の立て直しは、食の立て直しからといわれる所以もまたその腸内のバランスを立て直すことをいうのです。

先日、ナショナルジオグラフィックのニュース(「Nature」誌オンライン版に9月17日)で興味深い記事がありました。

「「ただより高いものはない」という言葉があるが、最新の研究によると、“カロリーゼロ”食品に使われる人工甘味料にも当てはまるようだ。イスラエルの研究チームは17日、サッカリンなどの人工甘味料は腸内細菌を変化させて血糖値レベルを引き上げる可能性があると発表した。砂糖の代用品である人工甘味料が、避けるべき状況を逆に招いていることになる。」

これは砂糖も人口甘味料も同じく、腸内細菌のバランスが炎症に傾き血糖値を変化させてしまっているということです。結局は添加物というものが腸内に与えている影響がとても大きいということを結論付けます。

今の時代は、日常は意識していませんが今の日本では年間平均4キロの合成添加物を摂取していることになっています。これを10年続ければ当然40キロ、20年では80キロというように自分の体重を超えるほどのものを摂取し続けているのです。

ひとたび合成添加物が入ってくると乳酸菌よりも、その添加物を分解吸収しようと日頃は日和見でいる菌や敢えて炎症を起こすような悪玉菌が活動してエネルギー転換しようとします。そうすると腸内のバランスもまた崩れ、それが人体に影響を及ぼし調子を悪くしてしまうのです。

昔から日本人が大事にしてきた「菌食」というのは、乳酸菌発酵食のことです。菌食をやめれば心身のバランスが崩れると言われるのもその理由からです。昔から大事にしていた味噌汁などの麹、漬物などの乳酸酵母菌、玄米などが持つ玄米発酵などをやめて安易にお菓子やコンビニで買えるようなもので代用するから心身の調和が保てなくなってきているのです。

体というのは心と密接で、病気になれば体だけではなく心にもダメージを受けますから心を健康にするのは体が健康でなければなりません。心身を健康に保つというのは、食生活を改善するということです。そして食生活というのは、言い換えれば生き方ですから生き方を改善するということになります。

眼には見えないところで、私たちは微生物たちのハタラキによってこの体を動かしていくことができます。微生物たちがエネルギーを細胞へと送り届けて体を動かすことができます。細胞の中のミトコンドリアも核がありますから元は微生物だったのではないかと私は思います。

つまりここから導き出される推察では私たちの体はまるで微生物そのものということになります。人間の便1グラムに100~1000億の微生物ですから毎日排泄するということは日々に膨大な微生物が役割を終えて一緒に排泄され続けているのです。そう考えてみても微生物を殺すような抗生物質も、洗剤も薬品も、それがまわりまわって自分たちの体を痛めつけていることを忘れはいけません。

なぜ人工添加物がよくないのか、なぜ抗菌農薬がよくないのか、これは自分たちの体が何でできているのかを自覚すれば自ずから自明すると思います。

微生物たちが喜ぶものを日頃から摂取していくというのは、いつも微生物の御蔭て活かされているという感謝の気持ちを忘れない実践になります。日頃目には見えないけれど、確かな存在に活かされいる、見守られているという謙虚な心があることでまた微生物もお役に立ちたいと真の発酵をしてくださるはずです。

眼には見えないものへの感謝を忘れるとき、人は発酵しなくなるときなのでしょう。腸内の微生物を並べたら地球2周半ほどの長さになるそうです。私たちの中に膨大ないのちを活かしているということは、地球が私たちを活かしているのと似ています。地球が喜ぶ生き方かどうか、これは真の発酵人につながる思想ですが私もそれを体得していきたいと思います。

真の発酵力~醸し出す人~

自然の中の技術の一つに発酵というものがあります。この発酵というものは先祖が自然の中から取り出した技術の一つですが、まさに自然の仕組みを取り出した叡智そのものです。

発酵というのは、発酵と腐敗という言い方をしますが発酵だけが発酵だけではなく腐敗もまた発酵の一つです。どちらも微生物のハタラキですが、真の発酵はそれが全体のお役に立つようになるときに行われているものです。

私の会社でも善いか悪いかとかなく、丸ごとで善い、それを至善と言ってすべてが一円に融合して全体のためにお役に立てることを尊ぶ一円観という生き方があります。それをファシリテーターと呼んでいますが、これも真の発酵と同じです。

人が発酵するとき、それは自然に沿った生き方をしているときです。自然は変化をし続けていますから、謙虚である素直な人は常に自分を自然に沿って「自分がお役をさせていただける有難さ」を噛みしめながら日々に精進していきます。まるで微生物が次々に自分のお役目を全うして醸し出していくように自我欲などを入れずまわりのためにいのちを活かしていきます。

どこか不自然な人は心と体のバランスを崩しています。自分がしていることに文句を言い、自他を責めては日々を味わうことをせずに流されていきます。そうなると変化することを嫌うようになり停滞し、醸していくことができなくなります。

醸し出す人というのは、その人が発酵する生き方をしているときです。これを自然酒の酒蔵で有名な寺田啓佐さんはこう言います。

『発酵している人っていうのは、みんな楽しそうで、素敵なんですね。私が「発酵しているなあ」と思う人の中に、宮沢賢治という、有名な岩手県花巻出身の作家がいます。みなさんもご存知のとおり、「雨ニモ負ケズ」には、「決して怒らず、いつも静かに笑っている。そしてあらゆることに自分を勘定に入れない」という言葉がありますね。つまり「おれが、おれが」じゃないんですね。自分は後回しで、人が先なんです。「苦労したことのない人は、自分を先にしたがる」と自分の師匠もいっていましたけれども、本当にそうだと思います。』(新日本文芸協会)

とあります。

今のような競争社会では、我先に自分のことをまず守るということをして勝ち組とか勝ち残ったとかをさも価値があるかのように勘違いしてしまうのかもしれません。自分のことを考えるよりも、相手のことを思いやったり、自分や相手を責めるよりも、周りのために真心を盡そうとしたりということもまた少なくなってきたのかもしれません。

しかし実際、お役に立てる仕合せというのは、自分が謙虚に素直である時にだけ実感できるものではないでしょうか。そしてそれが「真の発酵」のハタラキであると私は思うのです。

寺田啓佐さんは「うれしき」「たのしき」「ありがたき」を発酵の『神酒ひびき』と呼んで大切にしています。発酵していくと変わっていく、変わっていくと自然に沿った生き方になり以上の3つに近づいていくと仰います。

つまり自分が真に発酵しているかどうかの確認というのは、自分の生き方がどうなっているかということです。自分の生き方がいつも周りに「うれしい」「たのしい」「ありがたい」という意識を与えているか、もしくは「つらい」「くるしい」「めんどくさい」という意識を与えているか、それは自分がどのような日々の自分の生き方を通して発酵場を醸しているかに由るのです。

大事なのは善くしていこうとする「明るく前進」していこうとする気持ち、お役に立とうとする「清々しく前転」していこうとする気持ち、言い換えればどんなことにもヘコタレズに歩んでいける力こそ醸し出す人ということになります。だから腐敗したからと腐っていてはだめで、それをも善いことにしようとすることで真の発酵がハタラクのです。

最後に寺田啓佐さんはこう締めくくります。

「これは宇宙の法則の反映だと思っているんですね。健康のもとであり、幸せになるコツであり、運命をプラスに持っていく、つまりツキをもたらす、そういう秘訣が隠されているものなんです。こんな風に、正しいことよりも、楽しいことをして、自分の信じた大好きな道を歩んでいくのが、発酵に向かう生き方なんです」

どんなことがあってもすべて善いことにしていく力、自然の道。私のいう「かんながらの道」も同じく、禍転じて福となし好循環を創りだしていくという生き方です。発酵も腐敗も全部善いことにしてしまう力こそ元気で明るく楽しく幸せな人としてのいのちの持つ本来の力ということでしょう。

自然に適うと人は生き方が自然になっていきます。余計なことをせず邪魔をしなくなれば融通無碍の愉しい世界が待っているのでしょう。日々に転じて醸して道を歩んでいきたいと思います。

 

意識と総力戦

人間には意識というものがあります。

意識とは、自分がどのように覚醒しているか、自分がどのように心で感じているかという自己認識です。言い換えれば自分が感じていることの丸ごとでもあり、自分が正直に感じる全てです。

その意識をチェックすることで、自分がどうなっているのかを理解できます。

例えば組織というのはみんなで共有して集まり大切な目的のために協働する場ですがその組織の一員としての意識に有名な3意識というものがあります。

それは「問題意識」、「危機意識」、「当事者意識」というものです。

だいたいこの3つの意識の欠落が起きると、人のせいにしているうちに自分が発揮できず組織の中で自分も活かせず、気が付くと何もできなかったということになります。それはなぜかといえば、現実が自分の問題ではないからです。

人間は自分が納得していないことは人のせいにできるものです。自分はここまでやればいいというように自分の役割を自分で決めてしまうとそこから先は他人事になってしまいます。

これは幼少期から日本の教育で個人主義を徹底して刷り込まれ、なんでも一人で責任を持たされてきたからかもしれません。日本人は宿題も一人、担当も一人、役割も一人、なんでも責任は一人でやるようにという練習ばかりしてきています。みんなではあっても一緒にではない、つまりグループといいつつ個人の集まりに責任を課せては一人責任を全体を使って押し付けていくのです。

本来、チームというものはチーム責任ですから一人一人がチームというものの責任を持ちます。個人の分割された仕事の責任だけを持てばいいではなく、本来のチームの目的の責任をチームのメンバーがシェアしているのです。それはチームが自分であり、チームの責任が自分たちの責任なのです。

先ほどの問題意識というのは、自分の問題かということです、そして自分の危機か、自分事になっているかということです。つまりは自分だけは安全で安心であれば、別に組織や全体がどうなっても自分とは別の問題、別の危機、別のことであるという意識になってしまうことがここでの問題なのです。

例えば日々刻々と世界では様々な出来事が発生します、今なら中東のテロの問題、エボラ出血熱の問題、スコットランドの独立の問題、世界経済の動向のこと、あらゆることが発生します。その世界の問題に目を向けることができるのもまた世界の問題は自分事だと思っているからです。

気が付いたら戦争だった、気が付いたら伝染病に感染した、気が付いたら経済が破綻したでは、いったいどこで自分は何をしているのかということに最期はなるのでしょう。関係ないわけないんです、必ず自分に関係してくるのです。

だから寝ぼけている場合ではなく、覚醒していないといけないのです。

まずは健全な危機意識を受け止めることです。自分を活かしてくださっている世界がピンチなら、何よりもまずそのピンチのために何で貢献するかを決めなければなりません。問題がとても他人事ではないくらい共感できるなら、自分が何を守るかを決めなければなりません。そして自分が世の中を変えている一人としての責任を持つと決めなければなりません。

人は正しい責任を認識するときだけ、この意識改革ができるように思います。歯車としての自分勝手な押し付けられた責任ではなく、まるで一家、ファミリーとしての一家を支えてファミリーを助けるという主客一如の責任の自覚です。

真の楽観性は、絶望を受け止めたときであることはブログでも書きました。もしもと常に危機に備える心は楽観的になっていることと同義です。大丈夫だろう、まだこれくらいはいいだろう、自分一人くらいはという意識こそ己の中に在る真の敵なのです。

自我というものは常に虎視眈眈と我儘に自分都合を優先させ、自他を分けるように忍び寄ってくるものです。その分けたことから、無駄に自分を守ろうとし人に迷惑をこうむることを平気で行い一緒にの心の寄り添いが消失していくのです。

だからこそ常に一緒にいるために、自分の問題をどれだけの広さとどれだけの深さで捉えていくか、言い換えればどれだけ100パーセント自分の問題と言い切れるか、そのような独立自尊している自分を育てていかなければならないように思います。結局この世は、つながっていますから如何に好循環を創れるかが自分の人生の使い道です。つまり今では人類約70億80億人といわれる人たち丸ごとの「総力戦」なのです。

そもそも人が何のために生きるのか、教育をして一体人間をどうしたいのか、そういうことを問題にはしないことが本当の問題なのかもしれません。

畢竟、意識とは生き方のことです。意識がいつまでも変わらないのは生き方がいつまでも変わらないからです。生き方を変えたときのみ、人は意識が変わるのでしょう。自分の生き方が誰かのお役に立っているという自然の生き方をみんなができれば、世界の平和は守られるように思います。

一人一人の力が試される今の時代、意識というものを見極めていきたいと思います。

 

善き捨て拾い

人にはみんな何かしらの欠点というものがあります。何かの長所が突出すればするほどに、その反面何かの短所も突出していくものです。長所がせっかくよくてもその短所を庇おうとしていたら、結局は平均的にどちらでもないものになるだけです。

人は欠点があることを認めることができるから、徳性を伸ばしていくことができるともいえます。

また自然界には共生があります。これは自分の持っている特性を最大限に活かすために敢えて捨てるという戦略です。自分にしかできないことに特化するには、それまでに自分がやっていたことを諦めて他を信じて任せていかなければなりません。運命共同体のように、お互いがその機能を捨てる、そして捨てたものを拾う勇気がいるのです。

その勇気は、大変な覚悟でありもう二度と捨てたものはもとに戻るわけではありません。そして拾ったものは二度と捨てることはできません。捨てる神あれば拾う神ありというのは、私の持論ではどちらも神であったということです。つまりはそれだけの真の絆を持ったパートナーであったということです。

本田技研の本田宗一郎と藤澤武夫という人物は、お互いを深く信頼しあい、お互いの持つ長所に互いに専念しました。そしてお互いに捨てたものには掣肘しないという覚悟を持ち、ともに自分を活かしきることに専念しました。

これはその方が自分を活かせるということであり、短い人の一生に於いて自分が最もやりたいと思うことに専念するという腹を割って腹を決めてご縁を結んだのです。自分がしなくてもいいことを自分がしていたら、一つごとに集中することができずエネルギーも分散します。また全部のことを自分で全部握りしめていたらあれもこれもとやっているうちに身動きもまたできなくなります。

本来、人の使命というのは有限な人生の中で何をもっともやり遂げたいかということにかかっているように思います。そしてそれをやり遂げたい人たちが運命の出会いをすることで、互いに活かしあうことができるように思います。

そうして活かしあった魂に人々は感動するように思います。

欠点を一生懸命に埋めて努力しようとする生き方よりも、欠点を受け容れてその欠点は周りの人たちに助けてもらおうとする生き方。欠点を悪いものと決めつけるのではなく、それだけやりたいことや得意なことがあるということへの目覚めがいるのでしょう。

まだまだ私自身、捨てられないものに苦しみ拾えないことに苦しみ、自分の使命を存分に発揮しようとしていない自分自身の刷り込みが払えず悩み悶えています。もう今まで何人の人たちがそれを私に伝えてくれたでしょうか。もう何人の人たちが命を懸けてそれを示してくれているのでしょうか。もうこの刷り込みに向き合って長い年月が経ちすぎて、いつ頃から悩んでいるのかさえ忘れてしまいました。

そろそろ機が熟してきているように思います。

やりたいことがあるのを知って駆け付けてくれた仲間たちがあることにより一層の自らの使命感を感じます。今まで身に着けてきた中での最大の刷り込みをまさに乗り越えようとしています。今回の気づきは、たくさん人たちの勇気になることでしょう。

今一度、正対し、身近なところから善き捨て拾いをしていきたいと思います。

認めるはじまり~育つ~

人は自分の存在を認めることで、人の存在が認められるようになります。人は人格を尊重するには自分を含むすべての世界のことを認めていかなければなりません。人は自他を認めるときはじめて、すべてのいのちが同じ存在であることに気づくからです。

そしてその最初の認めるということに、「育ち」があるように思います。専門的には発達といいますが、発達というのは本能であるように自然にそのものが行うものです。

つまり人間を含むいのちはすべてはじめから「育つ」ようにできています。その育つということをよく内観すると、育つという行為は空気や水のように当たり前すぎて気付きにくいものですが何よりも人間を人間として尊重しているものであるのです。

そもそも自発性や主体性といいますが、そんなものは後から誰かによって引き出すものではなくそのものをもってすべての生き物は産まれてきます。生きていること自体が絶対的能動でありますから、その能動体として自分はそもそも発達しているということです。

その発達を認めていくというのは、そのものの人格を認めていくことに他なりません。発達を認められることで人格が認められ、その人格が認められることで安心して発達していくことができるのです。

発達を邪魔するというのは、人格を邪魔することと同じです。

つまりは、そのものの存在を丸ごと認めようとしないということです。すべての生命は誰に指示されなくても命令されなくても、自ずから然るがままです。それを認めないのは人間の浅はかな知識で刷り込むからであり、その刷り込みを取り払うならだれもが安心立命できる世の中になるはずです。

そういうものを幼いときに認めてあげることが、如何に自分を自分で認められ、その自分が周りを認められることになるのかということです。

人はひとたび自分の存在を丸ごと認められると納得するならば、周りの存在を丸ごと認め受け容れることができるようになります。自由になるということです。その自由を尊重することで人は思いやりが発露してきます。

お互いを思いやり、見守る社會が顕れることで徳の好循環がはじまります。幼児教育だとか高等教育とか、色々と言っている人がいますが本来人間としてどうあるべきかを正対するのが根本であることは道徳から省みれば自明の理です。

色々と雑音が聞こえてくる今の世の中ですが、よく耳を澄まし耳を傾け、心に聴いていきたいと思います。善いご縁をいただくことで学ぶことが限りありませんが、多くの人から学んだことをもっとシェアしていけるように精進していきたいと思います。

誇り高き日々~初心動機~

人が物事をするのには必ず動機というものがあります。動機とは、何のためにそれを行うのか、なぜそれを行いたのかの理由です。その理由を初心ともいい、それを理念とも言います。

よくなぜこの人はこんなことで怒っているのだろうと不思議がることがあります。別に客観的に観察していても特段怒るようなことではないことを、目の色を変えて怒るようなとき、それはその人には譲れない大切な信念が其処に存在していたりする場合があるのです。

例えば、大義というものがあります。大義とは、その人の中で生きていく上で何よりも大切にしたい生き方であって、人としての道義、筋道ともいいます。道を歩く人は誰しもこの筋道を通すものが一本ありますからそこに触れ失礼なことをすると烈火の如く叱られることもあります。道とは生きていく上で、由って立つところですからその道から外れることを何よりも畏れるのです。

大義に生きる人には、義憤というものがあります。これは道義に外れた不公平なことへの憤りとありますが、つまりは本質として何のためにやっているかということを忘れるときに出てくる憤りです。

人は何のために働いてるかといえば、それは個々人の理由があります。しかし組織にはその個々人を超えるほどの大きな理由があります。個人を超えて設定したその理由と実際に仕事をしていることとの間に隔たりがあまりもあればそこに不公平が生じます。

例えば、ある仕事をする際に、なぜこれをするのかを自覚している人は自ずから深淵に出会いますから粘り強く根気強く物事に正対し簡単にはあきらめません。自分の存在価値や存在意義の大きさを自覚すればするほどに、自分の一挙一動が如何に多くの人たちに影響を与えているかを知るからです。

しかしそういうものを自覚せずに、眼前の仕事を単なる業務のように認識しているだけではなぜこれをやっているかもわからず、自分の価値基準で自分の判断のレベルで物事を処理してしまうのです。それでは逆に与えている影響も小さくなり、自分の存在意義や価値もまた小さくおさまってしまうのです。

本来、人生に対峙するとき人には誇りというものがあります。

それは自分の生き方において自分が納得した尊厳と名誉、いわば気高い精神であり自己実現を尊重しようとする魂の疼きです。自分の存在が、自分の生き方が、誇りです。どんな仕事をしているかではなく、何のためにやっているのかが誇りです。

その誇りを穢されないように、真摯に努力精進し、心を澄ませて事に挑むことでまたその人生は誇り高いものになるのです。一人一人の成長を願うリーダーならば、その誇りを穢されることをとことん嫌がるものです。それが義憤として顕現していてもなんらおかしいことはありません。

これは職人の世界でも同じく、道を志す人たちの強い憤りは其処が起点になっていることが多いように思います。

自分の働く本当の意味をどこまで自分が理解し納得しているか、自分の志を育てることをどれだけ怠らずに実行しているか、実践していることではじめて誇りもまた育ちますから初心を忘れないことが何よりも大切だということです。

初心とは忘れないという意味です。

何を忘れていないか、今一度自分に確認していくことで誇りと自信を高めていってほしいと思います。本気で生きる人の周りには、本気で生きようとする人たちが集まってきます、尊厳と名誉の周りには、同じような誇り高き人たちが集まります。

自分一人の存在の大きさを知るのもまた理念ありきです。

今日も理念のお手伝いをしますが、自分自身の日頃の実践を何よりも確かめて一緒に誇り高き一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

視野の道楽

視野には広さがあると昨日書きましたが、視野には深さというものもあります。「見渡して観直す」というのは、視野の広さと深さのことです。

視野の深さとは何か、それは文字や言葉では決して表現できない奥深い世界があるということです。人の話を聴くとき、その話を頭だけで理解する人とその人の背景に大変な奥深い悟りがあると聴くのではその言葉の意味もまったく異なって聞えるものです。

真に実践を積み上げ、あらゆることを自分のことと思って受け止めそれを自らの体験によって自学自悟し自明した理を持つ人はその思想が偉大な深遠と深淵に到達しています。

その人の表情や言葉の節々には、決して言い表すことができない暗黙智慧の世界観が存在し、物事が明鏡止水のように透徹して観えているのです。その世界は、光、水、宇宙、星、土、火や木、あらゆる精霊やあらゆる循環が感得できる鑑識もあるのです。

そういう人に触れるとき、自分の世界観だけで理解しようとするのは不可能なのです。自分のちっぽけな価値観を超えて、その人の世界観に近づこうとすることで人はみんな自分の実力を伸ばしていくことができます。学校で単に先生に教えてもらってきたような今までの学び方ではなく、師に弟子入りするような教えられ方を学ばなければその境地の片鱗にも触れることはありません。

それが最初に道を知り視野を持つ最初の入口です、その後はその師の持つ深遠や奥深さに自分から辿りつこうと一心同体になり真摯に精進していくことで次第にその世界を垣間見てさらにその世界を一緒に体験し語り合い学び合うことができるように思うのです。

つまりほとんどすべてのことは外側の教科書では一切学べないということはここからもわかるように、学問は入口周辺で満足するようなものではなくその奥のさらに奥の方にこそその真の妙味があるということです。

このような鏡花水月の世界は、自分と世界の垣根を取り払うことで観えてきます。

今の時代は深さを自分のものにできず浅く狭い自分だけの世界で世界を見ていることが増えているように思います。情報過多で考えたくなくなってきているのかもしれませんし、何事にも受け身であれば次第に入ってくる情報だけで生きていけるからわざわざ深めることをしなくなったのかもしれません。言われたことをやるだけで上手くいった方が簡単便利ですがそれでは道があることもわかりません。道に入って道に入らずという人もあるように、身近にテレビや本や知識が横行することで余計に本来の道の歩くという行為を失っているのかもしれません。

どんな世界にも道があり、同じように私たちの会社にも道があります。

その道を極めんとひとたび決心したら、師弟や仲間とともに妥協なく飽くなき探求心で問題を深め洞察を高めそのものの道の実践を積み上げていくしかありません。ほとんどのことは自分が思っているほど浅くはありませんから、自分の人生の質量と密度を高めて全身全霊で一期一会の日々を積み上げていく視野を持つことが大切なように思います。

どんな日々からもどんな気付きからも自分の知っている知識よりも壮大無限に知らない智慧があることに感謝して、視野の道楽を愉しんでいきたいと思います。

 

視野とは何か

人は同じ実践をしていても、その実践の徳があります。何のための実践なのかというのは、実践が本質的かどうかということです。

以前、田舎の小さな村に宿泊したときに早朝にお坊さんが鐘を鳴らす音が村中に響いていました。毎朝、同じ時間に起きて毎日、同じように鐘を打ってくださっています。これを村人たちは毎朝聴いてから目覚め一日を過ごします、そして夕方また同じ時間に鐘を聴くのです。これは単に時間を知らせているのではないことはすぐに察することができます。

無事で一日が過ごせて無事に一日が終えることができた、その有難い見守りに感謝しているということです。

しかし、仮にその鐘を打つ人が自分が鐘を打ってやっているんだという気持ちで打っていたらどうでしょうか、ひょっとしたら朝から煩いなと村人は感じるかもしれません。実際はそんなことはないのでしょうが、きっとお坊さんは今日も私が鐘を打たせていただいている、心を澄ませてその感謝報恩をしていきたいと「実践」しているのでしょう。

つまり実践というものは、自分がやっているという傲慢な感覚ではなく、有難く自分がさせていただけるという感謝で行うことが実践の本質なのです。

実践風というものは、どこか実践までも自分だけのものにしてしまいます。本来、実践とは自覚があってのものです。自分の存在が多くの人たちのお役に立っているという自覚、自分の体験はたくさんの方々のためになっているという自覚、つまりは自分は「何ものかによって活かされている」という自覚をもってはじめて実践が正しく行えるように思うのです。

謙虚な心がなければ、素直な心でなければ、周りから活かされているという自覚がありません。周りに迷惑をかけても気にならない人というのは周りを意識することもありません。礼を失し、思いやりに欠け、常に行動が自分中心になってしまいます。

よく考えてみなくてもすぐにわかることに「健康」がありますが、毎日健康で過ごさせてもらえることだって決して当たり前のことではありません。親からいただいた大切な身体、祖先や天から分けていただいた徳で生きていることができています。よくよく「見渡して観直せば」如何に自分が多くのものに恵まれ満たされていることに気づくはずです。それもすべて決して当たり前のことではありません。

そういう気持ちを常に忘れないことが謙虚素直の体現である「正直な実践」につながっていくように私は思います。

自分でいっぱいのときは周りの感謝が観えなくなるのが人間です。だからこそ自分の人生体験は常に誰かの励ましになっている、自分の存在が誰かの支えになっているという「リーダー(主人公)としての自覚」を持つことで視野もまた広がっていくと思います。

視野が狭い人はどこか自分を存分に活かせていないように思います。視野が広い人はいつも真心で自分を活かしていくことができています。仕事でも、仕事をするという意識と、仕事をさせていただけるという意識では、働く愉しさも仕事の歓びもまた変わってくるのでしょう。

どうせ実践するのなら、その実践が御蔭様を感じる自分の真心でたくさんの方々の見守りになるようなものにしたいものです。

最後に先ほどのお坊さんの鐘ですが、きっと村人たちはその毎朝の鐘を一生涯ずっと聴き続けているうちにいつの日か心にその鐘の音が永遠に響き渡るようになるのでしょう。その日常の当たり前という偉大な御蔭様の有難さの徳の実践に感化され村全体が自然に心から感謝できるようになるのでしょう。その陰徳は、いつまでも心に鳴り響き、そのお坊さんが年老いていなくなってまた次の世代の新たなお坊さんになっても実践が続いていく鐘に「自分たちはいつも偉大な存在に見守られている」という自覚を互いに持てるようになっていくのでしょう。

見た目ばかりに捉われ察する力が減退してきた現代だからこそ、人間としてこうありたい、こうでいたいという自分像をしっかりと自覚して精進を積んでいきたいと思います。

3つ子の魂

「3つ子の魂100まで」という言葉があります。これは3歳までは魂のままという意味になります。では魂とは何かということですが、それを深めてみます。

そもそも人間には本能というものがあります。それはこれがやりたいと思う心です。人は納得するまでやりたいことをやることを発達と呼びます。発達はそのものがもっとも望むものを納得するまでやり遂げるとき満足する状態をいうように思うのです。

産まれて間もない本能のままの子どもが将来何をしたいのかを産まれてすぐから発達のために練習をはじめるのですから、それはもともと持っている魂の力であるといえるのです。これは自然本能の持つ作用ですが、魂の持つ作用です。

3つ子までが魂なのは、その年くらいまでは誰もその子どもの本能を抑止することができないからです。

どうしてもやりたいことがあるというのは、何がそうさせるのかということです。それは理屈や理論では証明できない已むに已まれぬものの存在です。

今の世間はそれを抑止することで魂を曇らせ世間の価値観に染まった錆びた大人にしていきますが、本来はその3つ子の魂を持ったままに純粋に育った人たちが大きくなり子どもたちにもそれを成し遂げてあげたいと信じることが他の人たちの仕合せを願う自分の生き方になるように思います。

自然界に於いても、ありとあらゆる生命がつながりの中で必要とし合い産まれてきます。そして誰が止めようともどんな境遇にあっても最期まで必死に自分の生を全うするのを已めることはありません。その運命がたとえ私たち人間からみたら悲惨に見えてもその魂は満足しているように思います。

良し悪しを大多数の人間の尺度と価値観で決めるのではなく、そのもののいのちがそのものらしく納得しているかどうかという尺度が「3つ子の魂」の求めるところです。そういうものをもしも100歳まで持てればその生はどれだけ満足したものかと思うのです。

人生は二度ありませんから、その人生が一度であるならばそのものがやりたいことを納得するまでやらせてあげたいのが天の真心と一体になることかもしれません。まだまだ実践が追い付いていませんが、真摯に正対し今、此処を研鑽していきたいと思います。

実践か

先日から実践と考えるということを深めていると、その意味がまったく異なっていることが整理できてきました。それを少し書いてみます。

実践といえば、森信三先生に下記の言葉が残っています。

「例外をつくったらだめですぞ。今日はまあ疲れているからとか、夕べはどうも睡眠不足だったとか考えたら、もうだめなんだ。」

ここの「考えたらもうだめなんだ」という言葉に共感するものがあります。

人は考えてしまっているときは、実践しようとしていない時です。なぜなら、考えるというのは頭で考えていることであり、心まで到達する前にそれを止めてしまうことだからです。

属にマニュアルを用いて人を管理するような手法もありますが、このマニュアルというものは考える人たちには有効です。しかし本来の物事は、心で感じるところで動かすものです。それを決心ともいい、それを初心を忘れていないとも言います。

そして組織には理念というものがありますが、これは何のために集まって長期的に何を目指して何処に到達するのかといった方向性を示すものです。自分が今、何処にいるのかがわからなくならないように、また迷子になって一緒にいる皆に迷惑をかけないように常に初心を確認して方向性を感じながらはじめて通る道を歩んでいくのです。

人間は感じたままに実践しているときと、いちいち考えてからやっているのとでは実践と考えるという違いがあります。前者は心で決めた覚悟のままに実践を積み上げているのであり、後者は頭で考えて実践風に形式だけをなぞっているということになります。

考えるというのは、信が不足しているともいうように思います。信じさせてもらえるからやるというのは自分の信を自らが使おうとはせずに誰かによって指示命令されて動かされるから信じるという行為で責任も発生せずに楽なのです。

しかしもしも自分が信じるのならば、考える必要はなく信じたままに行動すればいいのです。この時、はじめて責任を実感することができ自分の役割に誇りが持てるようになります。

畢竟、人はやらされるときは無責任で自分でやっているときだけ責任を果たしているということです。自分から信じる人になるには、考えさせてもあまり効果がなく、それよりも感じてもらった方が効果があります。

自ら気付くことができる人になるということです。

自ら気付くには、自分から考えるのをやめてもらわなければなりません。考えるばかりで実践しないのは、自分から信じて動いていこうという行動が少ないからです。行動が少ないと実践もまた積み上がりませんから信も積んでいくことができません。

初心を感じたままに行動するということは、理念を確認しながら実践するということと同義です。何のためにの初心の確認は、自らが羅針盤で方向性確認することと同義です。

考える前にやってみろ、まずやってみろという言葉の中には、信じなさいという応援が入っているのです。信じているから人は信によって信用されはじめてご縁は有難く結ばれていきます。信じるということはとても偉大な行為ですから、考えてもそこには達しないのです。

私がマニュアルを嫌い、文化にこだわるのも、考えるのを嫌い、実践にこだわるのも、真実や本質がいつも現実にあるからです。現実の中に生きている自分たちだからこそ現実逃避しないようにしていきたいと思います。それが人生二度ないという意味につながるのでしょう。

心気を引き締めて、粛々と実践をしていこうと思います。