循環の学び

時代時代にはその時代のルールのようなものがあります。

たとえば、現在でいえば大量生産大量消費がルールでありその中でゲームをするかのようにその中身を競うようになっています。かつては少量生産少量消費や、大量生産少量消費の時代もありましたが生産性の向上によってその消費の質量も変化していくのです。

簡単に言えば、機械化や合理化によって大量に生産できることが前提で今の世界は出来上がっています。人口の増加も、経済の発展もそれを下支えしているのは大量に作り出すことができるということが大前提の仕組みがあるからです。

しかしもしもそれが何らかの理由で大量に生産できなくなったら今の世界の姿は一変するように思います。食糧に端を発してその後は様々なエネルギーの枯渇や労働者の減少、また原料の消失などでもしも少量になってしまえば消費はできなくなるからです。

消費にあわせて量を増やしてきたわけではなく、大量生産にあわせて消費をつくっていくのが今の経済ですから生産できない事態が起きることがもっとも問題になっていくのです。

しかし限りある資源を遣い切るような大量生産は次第に生産量が減退していくのは自明の理です。野菜や生産物でも、地力を肥料や農薬でふんだんに引き出して使い切っていますが土や環境も次第に疲弊してその地力が消失してきます。するとそこでの生産ができなくなり、生産力は次第に衰えていきます。

これは野菜や植物だけではなく、動物や人間もある一定以上の過剰な労力を引き出せば次第に生産力は衰えてしまうのです。少子化の問題も、経済の減退の問題も、食糧難の問題もすべては密接にその大量生産の課題に関係しているように私は思います。

だからこそ先を見据えて戦略が必要なように思うのです。

このまま大量生産を推し進めていても、いつの日か必ず資源は有限ですから枯渇するときがきます。枯渇してからではすべてが手遅れですから、如何に枯渇しないかを考えないといけません。

それは別の資源という考え方もありますが、その資源もまた有限ですからいつの日かすぐに枯渇するのです。持続可能な経済というのは、大量生産を転換する経済のことです。循環して一切の無駄を省くような少量生産でも大量消費できるような世界にしていくことです。

そのためには、そのものの価値をそのものの価値のままに活かしきり、それを遣い切っても尚、そのものが別の価値に転じていくような思想が必要です。永遠に無尽蔵に発生している豊富で多種多様な自然を丸ごと活かしきるというような発想です。

ものが豊富な時代から、ものがない時代へと移るときには、大きな転換を迫られます。きっと先祖たちはそれを以前体験し知っていたから循環の暮らしを守り続けてきていたのでしょう。

ここまで来たらもう止められませんが、既成のルールではなく新しいルールを引き直して子どもたちに未来を残せるように精進していくしかありません。どのような好循環を生み出すかは一人一人の生き方にかかっています。

循環の学びを形にしていきたいと思います。