善き捨て拾い

人にはみんな何かしらの欠点というものがあります。何かの長所が突出すればするほどに、その反面何かの短所も突出していくものです。長所がせっかくよくてもその短所を庇おうとしていたら、結局は平均的にどちらでもないものになるだけです。

人は欠点があることを認めることができるから、徳性を伸ばしていくことができるともいえます。

また自然界には共生があります。これは自分の持っている特性を最大限に活かすために敢えて捨てるという戦略です。自分にしかできないことに特化するには、それまでに自分がやっていたことを諦めて他を信じて任せていかなければなりません。運命共同体のように、お互いがその機能を捨てる、そして捨てたものを拾う勇気がいるのです。

その勇気は、大変な覚悟でありもう二度と捨てたものはもとに戻るわけではありません。そして拾ったものは二度と捨てることはできません。捨てる神あれば拾う神ありというのは、私の持論ではどちらも神であったということです。つまりはそれだけの真の絆を持ったパートナーであったということです。

本田技研の本田宗一郎と藤澤武夫という人物は、お互いを深く信頼しあい、お互いの持つ長所に互いに専念しました。そしてお互いに捨てたものには掣肘しないという覚悟を持ち、ともに自分を活かしきることに専念しました。

これはその方が自分を活かせるということであり、短い人の一生に於いて自分が最もやりたいと思うことに専念するという腹を割って腹を決めてご縁を結んだのです。自分がしなくてもいいことを自分がしていたら、一つごとに集中することができずエネルギーも分散します。また全部のことを自分で全部握りしめていたらあれもこれもとやっているうちに身動きもまたできなくなります。

本来、人の使命というのは有限な人生の中で何をもっともやり遂げたいかということにかかっているように思います。そしてそれをやり遂げたい人たちが運命の出会いをすることで、互いに活かしあうことができるように思います。

そうして活かしあった魂に人々は感動するように思います。

欠点を一生懸命に埋めて努力しようとする生き方よりも、欠点を受け容れてその欠点は周りの人たちに助けてもらおうとする生き方。欠点を悪いものと決めつけるのではなく、それだけやりたいことや得意なことがあるということへの目覚めがいるのでしょう。

まだまだ私自身、捨てられないものに苦しみ拾えないことに苦しみ、自分の使命を存分に発揮しようとしていない自分自身の刷り込みが払えず悩み悶えています。もう今まで何人の人たちがそれを私に伝えてくれたでしょうか。もう何人の人たちが命を懸けてそれを示してくれているのでしょうか。もうこの刷り込みに向き合って長い年月が経ちすぎて、いつ頃から悩んでいるのかさえ忘れてしまいました。

そろそろ機が熟してきているように思います。

やりたいことがあるのを知って駆け付けてくれた仲間たちがあることにより一層の自らの使命感を感じます。今まで身に着けてきた中での最大の刷り込みをまさに乗り越えようとしています。今回の気づきは、たくさん人たちの勇気になることでしょう。

今一度、正対し、身近なところから善き捨て拾いをしていきたいと思います。