いっしょ

今の時代は、教育によって個人主義を指導されていきます。自分が周りと同じことをできるようになることが目標にされ集団というものはそのために使われます。競争もまた質を高めるものではなく、みんなが同じことをできるようになるために使われます。

みんなで一緒にといっても、その使う人の「いっしょ」がどの意味で用いられるかでその一緒の意味が変わっているのではないかとも思えます。

本来、この「いっしょ」という意味はどういうものだったのでしょうか、それを少し深めて観ます。

一般的には、一緒にはいろいろな解釈があります。辞書には、ひとまとまりになることや区別のないこと、同時に同じことをすることなどが書かれています。基本的には混ざっているという意味で用いられ、同じでなければならないという意味ではありません。

例えば、チューリップの花を一緒に育てたといっても同じチューリップを咲かせようとするのは一緒にの意味とは異なります。ここでは同じところで同じように育てたという意味でしょう。

しかし本来の「いっしょ」は、私には渾然と一体になっているという意味に感じます。つまりは、あらゆる多様なものたちが同じ場所に生きてそれが渾然と混ざり合いつつも調和しているという状態のことです。

その一緒は、前者の同じだという意味とは異なり、異なっているけれど同じ今に生きている仲間というイメージがあります。同じことをただ同じようにみんなでやることが一緒ではなく、異なるもの同士が同じ時代に生きてご縁を伴にさせていただけることが一緒なのでしょう。つながりの中に存在しているという意味です。

一緒という言葉一つであっても、謙虚な気持ちで感謝がなければその有難さに気づかなくなるのかもしれません。権力で同じように同じくさせようとしても、その一緒はともにいるわりにもの寂しく心もバラバラであることが多いように思います。英語のgroupもteamも、そして何をもってtogetherと定義しているかが根底で理解できていないと日本語のグループもチームも一緒もまたその意味が勘違いされていくのでしょう。

本来、私たちは大和の民族、渾然一体陰陽調和している民です。天皇を中心に家族として一族で和の尊び生き方と働き方を同時一体にしてきた暮らしを続けてきました。その先祖たちが実践してきた「いっしょ」を理解していくことが私たちの心を一緒につなげていくコツなのかもしれません。

常にいっしょの意味を個人的な価値観で狭めて歪んだ個人主義の枠組みに心が亡くならないように、丸ごと渾然一体になったご縁に感謝して今をいっしょに歩んでいきたいと思います。