報徳~真心返し~

万象具徳という言葉があります。すべてのものには徳があるということです。この徳とは何か、それを取り柄と呼んだ人もいればその人の天才と呼んだ人もいます。つまりは必ず何かの役に立つものを持っているということです。

世間では、役に立つとか立たないとか誰かのモノサシで判断されます。人間はみんな自分都合ですから自分にとって役立つかどうかで必要か不必要かを勝手に分別するのです。しかし捨てる神あれば拾う神ありではないですが時・場所・状況に応じてその役割というのは多様に変化していくのです。ある人に必要でもある人には不必要、しかし全体丸ごとで観ればそれはすべて必要不可欠ということです。

そしてそれを徳と呼びます。

二宮尊徳は、その徳に報いることを「報徳」と言いましたがこれはまず大前提にすべてのものには徳が備わっているということがあってはじめて行われるものです。

『論語』憲問篇36にこうあります。

「或(あ)る人曰く、徳を以(もっ)て怨みに報いば如何(いかん)と。子曰く、何を以てか徳に報いん。直を以て怨(うら)みに報い、徳を以て徳に報いんと。」

意訳すれば、(ある人が言う、徳をもって怨みを返すというのはどういうことでしょうかと、孔子は言う、何をもって徳に報いるとするか。それは怨みに対しては素直な真心でお返しし、徳に対してはさらに徳でお返しすればいいのです)と。

これは一言でいえば「酷いことをされてもやさしくしてあげなさい」ということです。つまりは徳に報いるということです。

人は自分が酷いことをされても他人にやさしくできるかといえば、人間はすぐに仕返ししてやろう復讐してやろうという気持ちを持ちますからこれが難しいことはすぐにわかります。しかし孔子も二宮尊徳もそれでは徳ではないといっているようなものです。

如何に自分が頂いたものを善いものへ転換して世の中に御恩返しをしていくか。結局は徳を実践していくとはこれに尽きるように思います。どんな徳を自分が天から与えられているかは天に由ります、しかしその徳をどう活かしていくかが大事であってその徳そのものが大事なわけではありません。そしてその徳は自分次第で如何様にもしていくことができるのです。

日々に生活していく中で、自分の徳をどう皆さんのお役に立てていくか、そして皆さんの徳をどう活かしていくかはその人の生き方が決めるものです。自分の徳を高めていくことと周りの徳を高めていくのは、周りの徳を認めていくことからだと私は思います。

善い方へと転じていく、一円融合してすべての徳を活かしていこうとする、その真心返しにかんながらの道の目的も存在します。いついかなる時も報徳の大切さを肝に命じて実践していきたいと思います。