教育の目的

教育の技法としてのティーチングとコーチングがあります。これは教えるときの教え方ですが、よく一般的に言われるのは主体が先生か生徒かでその違いがあると言われます。

しかしこれはここが問題ではないと私には思うのです。本来の教育とは誰のためにあるのか何のためにあるのかということを考えてみると分かります。

例えば、国家教育や社員教育、学校教育とあるように教育には目的があります。誰かによって何かを教えているのはこの言葉が示すように一目瞭然です。国家が国民に国家の一員として教え込む、会社が社員に会社の一員として教え込むのです。そしてそれは何を教え込むのかは目的によって異なります。

本来、教育が示しているのは何のためにかを考えればその意図も読めるからです。もしも国家のためだけや会社のためだけ、学校のためだけになればそれは教育がその人のものではないということです。あくまでそれは権力によって管理するために教え込まれるものになってしまいます。

私が中学高校と学校に反抗した理由は単に子どもで未熟だったからではなく、学校のための教育に納得ができなかったからです。今思えばなぜあんなにも反抗したのかと思いましたが、言行不一致の本質的ではない学校体質に憤りがあったのかもしれません。そしてそれでも無理に教え込もうとする場合はティーチングというものを用います。これは主体が国家、会社、学校側にあるということです。その場合は相手が主体ではないのだからコーチングは使えません、あくまで一方的に教え込む方が進めやすくなるのです。

その逆にそもそも教育は子どもたち、相手自身の成功、本人の仕合せのためにとなるとどうでしょうか。その場合は、対象となる相手は”できる”ようになりたいと思うのを助けるという考え方になります。主体は組織ではなくその人自身の仕合せになりますから相手がそれができるように寄り添うためにコーチングを用います。相手自身の問題に寄り添い相手が自らで解決できるように導くのです。

本来、人はその人が人格的に成熟し成功し仕合せになるのなら世界も一緒に仕合せになるものです。理想論と笑われるかもしれませんが、一人一人が真摯に一生懸命に自分の役割を果たすのなら世界は必ず仕合せに出会うように思うのです。それは先日の樹木研修でも同じく、木々が一生懸命に生きていればそれが森全体の仕合せになるように、人々が一生懸命に本来の生に生き切れば社會全体は幸せになるのです。

それを日本理化学工業の大山会長は、「皆働社會」と名付けていました。私もその考え方に心から賛同しています。

そしてティーチングもコーチングも含め、本来のいのちを尊び教育することではじめて教育の真価がでてきます。それを私は人々をファシリテーションするともいい、一円調和するとも言います。私のファシリテーターの定義はその目的が明確なのです。

もう随分長いこと既存の教育に刷り込まれている人は、教育とは何かによってさせられるものだと信じ込んでいます。自分から主体になって学ぶことを忘れていたりします。お互いの慾が絡まり合って真実から目をそらさせられたのかもしれません。染まってしまうとなかなか自分が染まったことに気づかなくなるのです。

そういうものを体験と気付きによって思い出させ、本来、何のために誰のために学ぶのか、社會を仕合せにするのは一体誰なのか、真実と実践と伝道によって平和を広げていきたいと思います。

本質を見失わずに、現実の中の理念実践を展開していきたいと思います。