求道伝道の志~本質と哲学~

人は本質的に日々を過ごしているかで積み重ねているものの価値が決まります。何を大切にしているかは人の生き方ですが、その生き方が影響を与えるのは本質的である時だけです。

本田宗一郎の有名な言葉に下記があります。

「理念なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値である。」

これは理念という言葉を本質に置き換えればすぐにわかります。本質なき行動はまるで凶器のように危険であり、本質なき行動は何の価値もないということです。ここでの本質は会社でいえば理念になります。理念とは、何のために行うのかということですから理念が初心であり、その初心を忘れてはいけないと定めたのが理念だからです。

しかし実際の人たちは、目先に流され本当は何かを省みることもなく表面上で理解したものに従うばかりで日々を追われます。そのうち本質であることよりも結果だけを帳尻合わせするようになっていきます。

そもそも本質とは真の目的ですから、その真の目的のために動いた行動だけが価値があります。それがいくら周りに理解されなくても、それが誰にわかってもらえなくても本質を捉えて行動をしているならばそこには真の目的に相応しい価値が存在します。

しかしもしも本質から外れて何のためにかを自分の中で捉えずに誰かのものを使って形だけをなぞってみてもそれではほとんど真の目的に対する価値には転換されていかないのです。

実際の世の中には目に見える世界と目には観えない世界があります。目に見えるところだけや他人の目を気にしているだけで本質風にふるまってみてもそれでは哲学や思想を自分のものにすることはないのです。大切なのは本質がわかることではなく、本質であることです。本質だからこそ思想や哲学を持つのです、これはイコールなのです。そして世界に発信力のある一流の組織を見渡せば一目瞭然ですが世界に新しい価値を創出した一流の組織人はその組織の人一人一人の中にリーダーと全く同じ質の哲学と思想を自分たちのものにできています。

最近、師の開塾している若い塾生たちがメキメキと見えるほどに成長しているというお話を聴きました。彼らはきっと師の本質を自分の本質に転換しているのだと思います。その過程の中で、師の哲学や思想が自分のものとして内在内包されてきているから素直に伸びているのです。

単に知識や才能だけで容だけを理解して形にこだわるのではなく、生き方を私淑し真似をしてコピーするほどに丸ごとその人の本質に近づこうとする中ではじめて理念は学べるのかもしれません。それはその人が同時に本質といった目に見えないところを観ている証拠だからです。

最近実感するのは、理念を知ったとしてもそれを自分のものにしていけないのは、そこにはやはり人それぞれのセンスと努力があるのではないかとも思います。

これは振り返ってみて今ならはっきりと言えるのですが若いころからの求道の志の質量がエネルギーに転換され、哲学や思想が基礎基本になりその行動をホンモノにしているからです。そして伝道の志を持つならいくら時間がかかっても真心で諦めず常に本質からブレナイように自他の鑑をさせていただけるように精進したいと感じます。

最後に論語に「子曰く、我は生まれながらにして之を知る者に非ず。」があります。ここからみんな誰しも理念を立てて己に打ち克ち努力精進して刷り込みを取り除き人格を磨いたんだよという実践者としての孔子の後人への優しい眼差しを実感します。

日々は有難い真剣勝負の実践道場ですから、優先順位の確認を間違わないように理念の内観と反省、改善を続けていきたいと思います。