表現が自由~人格~

自由の森学園の音楽祭の2日目を見学しましたが、初日とは変わってそれぞれのクラスによる合唱が行われました。それぞれにクラスの個性があり、歌をよく聴いていたらそれぞれの色が観えてきます。

合唱というものは、呼吸を合わせて気持ちを合わせていくことで一体感が生まれその協力し合う一体感に人間は感動するのかもしれません。音楽ということの本質を主体的な発表を通して学び合う善い体験になっているのではないかと思いました。

私の昔の学校時代は、音楽の授業は好きではありませんでした。毎回、意味もわからずに無理に歌わせられ、歌えば間違いを指摘され、何回も間違ったところを歌い直され、何の興味のわかない歌を只管に授業が終わるまで練習させられます。学校のテストのように正解かどうか、ちゃんと教科書通りかが優先させられまったく楽しい思い出がありませんでした。

1回の本番の達成感のために音楽を利用するのも一つの考え方ですが、私にとっての音楽は鳥の声や川のせせらぎ、木々の風に揺らぐ音や、動物や虫たちの鳴き声です。神社にいけばいつも穏やかで静かな音楽が流れ、いつも一体感を感じています。

音楽の愉しさは、自分の心の中の自由に由ります。

自分の心の中に自由はあるのだから、それを自分でどう掴んでいくか、そこには音楽が大いに助けてくれると思います。学生時代は学校への反発からかバンドも組み、編曲しライブもし、オリジナルで歌を表現し、今では社業で歌を作詞し一緒に歌い充実した今を演出するためにも音楽を用いています、

自由を求める心に音楽を活用するというのは、新しい発見がありました。今後の社業でもさらに活用してみようと思います。

自由というのは、自由か不自由かの自由はありません。本来の自由とは、そういう比較対象するものを超えたところに存在するものです。自由が分かるのなら自立するというのも、それは自らが自由に気付ける人格を備えているからということなのでしょう。

マハトマ・ガンジーに「私は人格をすべて表現するために自由を望む。」があります。

よく表現の自由とか言われますが、表現が自由なのです。

如何にオープンにいるかというのは、如何に自由でいるかということです。自分の本心や本音を隠したままで我慢をしては人格を表現することはできません。自分の人格のままにいられるのは周囲をはじめ自分を信じるからです。

周りに迷惑をかけなくなるのは、そこに全体への思いやりが育つからです。つまり思いやりのない自律などなく、周りにオープンではない自立など自由ではないのです。

引き続きどのように自由な環境によって子どもたちの心が育つのか、じっくり観察し探究してみたいと思います。

自由に楽しく~やりきる~

昨日、自由の森学園の音楽祭に参加することができました。

子どもたちによって企画され運営される音楽祭は、「楽しむ」をテーマに沢山の「有志」といったグループが構成され、それぞれに演舞や音楽を表現していきます。日頃の部活動の延長になっていることや、学校の文化を実感できるもので子どもたちのパワーに圧倒され青春をする様子に暖かな気持ちになりました。

その音楽祭のレジメの最初のページには実行委員長のお言葉として「オッシャー!!音楽祭だぜ!!今を楽しむことに集中すること、楽しむことに全力をそそぐこと、楽しめていないヤツは今すぐ楽しむこと、分かった?よし、いい子、それじゃぁね。」と書かれています。

初日はサンバにはじまり、27グループの有志がそれぞれに自分たちの企画で出演していました。話を聴くと、50以上のグループの中から予選で選ばれて出てくるそうでみんな自信をもって取り組んでいるのが伝わってきました。

学校運営といっても、大人の理想と建前を使い分けている学校が多い中、ありのままに見せてくれて安心して取り組んでいる子どもたちをみていたら可能性というものは自由の中にあることを改めて実感します。

一人ひとりの主体性という言葉も、自由を伴う言葉です。学校側が何かしてくれることを期待するのではなく、自分たちで運営をしていこうとする子どもの姿に主体的に取り組む意義を実感しました。

アメリカ合衆国第35代大統領、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディにとても有名な言葉が遺っています。

「Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country.」(国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。)

そもそも学校に自分は何をしに行くのか、学校に来て何をするのか、それを自ら明確にしていくのも刷り込みを取り除くには必要だと思います。学校には理念が必要です。そしてそれは会社でも同じです、会社にも自分は何をしにいくのか、会社で仕事をすることで自分は一体何をしたいのかということを自覚していなければなりません。

会社に理念があるのはそもそもの目的があり、どれだけそこに自分自身が主体的に参画しているかということが問われるからです。誰かに何かをしてもらうことばかりを求めて国家にすがり、社會にすがり、組織にすがっていたら、いつも与える側と貰う側という二つに分かれてしまいます。その時点で、人間社會は仕合せにはならず自由もまた喪失してしまうのです。

お互いに活かしあう社會というものは、一つの理念のもとに共に運営に携わるということでしょう。この自由の森学園に共感するのは、理念が学校運営に具体的実践として顕現しているところです。

引き続きJ・F・ケネディに「Liberty without learning is always in peril; learning without liberty is always in vain.」(学問を伴わぬ自由は危険であり、自由を伴わぬ学問は空虚である。)があります。

私なりの解釈では理念を実践しない自由など危険そのものであり、実践も自由もない学問など意味がないということでしょう。自分が素直でオープンで本当の自分自身であるかどうか、世界の中の一人として社會で自由かどうかが自分が「生きている実感」のことでしょう。

私も常に自分の生き方が誰かのためになる、自分の人生が世界の役に立っている、自分の実践が世界を変えると信じています。今ある数々の実践のすべてはそのためです。

世界の中で自分という主体が、どれだけ世界の一部として貢献するか、そこには感謝があり謙虚な生き方があります。自由とはそういうものをすべて丸ごと含んでいる言葉なのでしょう。自ずから由るべきは自分なのです。他人に支配された方が楽かもしれませんが、それではいつまでも人生は誰かのものになってしまいます。自分で決めた人生、自分の本気の人生、誰かのモノサシに従ってばかりではなく自分で納得していく人生こそが真の自由です。

そういう体験を子どもたちにさせているということの価値を再認識しました。今年30周年を迎えるそうですが、創業者の理念は継承され人間とは何か、人格とは何か、人の仕合せを重んじている校風に私たちの会社の理念に共通するものを実感しました。

私たちにも理念がはっきりあるのだから安心して子どもたちが憧れる生き方を大人の手本になるように、あの子どもたちの青春する姿のように「自由に楽しく=やりきっていきたい」と思います。

 

 

メンターとメンティ②~信の徳~

メンターとメンティ①のブログで紹介した上杉鷹山と細井平洲は、互いに見守り合う関係においてとても参考になります。

上杉鷹山は、第九代上杉藩主として立派に藩政を改革し立て直し、終生民の幸せに尽力した人物として今でも名君と慕われます。この上杉鷹山が十四歳のとき、二十三歳年長の細井平洲と邂逅しメンターとメンティとして互いに真心を通じ合わせてお互いの人生に多大な影響を与え合います。

その細井平洲は享保十三年(一七二八)に、尾張国知多郡平島村の農家の次男として生まれ、名古屋、京都、長崎で勉学を積み重ね、後に江戸で塾「嚶鳴館」を開き、諸国の人びとを指導していました。尾張藩校明倫堂の初代校長でもあります。
この細井平洲の教えは知行合一であり、これを鷹山は『学・思相須つ』、つまり「学問(学んだこと)と今日(現実)と二途にならざるように実践実行せよ」といつも話されたそうです。すなわち、学問をするということは、知識を得るためだけのものではなく、学んだことを生活に生かして実践しより善くしていくことだと断言していました。

いつの時代も知識と行動が分かれているのは、知識ばかりに偏り大量に詰め込んできた教育の弊害ということです。「知ることはできること、わかることは努力すること」と私もいつも話していても、どうしても現実が変わらないのはそれだけ教育が生き方に影響を与えたものだからです。生き方を変えるというのは、人生を変えるということですから知識だけで変わるはずもなく、どれだけ善き習慣を与えるかということなのでしょう。

この二人のメンターとメンティのやり取りの中で、私がとても大好きな見守りのエピソードがあります。それは鷹山が、初めてのお国入りに当たって平洲に会って助言をいただいた時の話です。

鷹山は尋ねます「私は幼いままで藩の人々に藩主として臨むことになります。不安で心が落ち着かず、薄氷の上を歩むような気持ちで怖くて緊張しています。私は一体どうすればよいのか、ぜひ教えてください」と。

それに対して平洲は「藩主となるあなたに最も大切であると思うこと、お手本にしたほうが善いと思うことはもう全て教えています。あなたは、これからは「現実の政治」を実践していかなければなりません。藩の人々の暮らしを豊かにしていくためには、まず自らが身を正しく修めて、絶えず努力して、自分の信じるところを貫いていかなければなりません。」と語り掛けます。

そしてここからが大好きな名文「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」です。

意訳ですが「『自分を信じる』、これは勇気のある者だけができるのです。勇気ですよ!勇気なくして、どうして政治ができるでしょうか!いよいよその時が、やってきたのです。」と話すのです。

これに鷹山は「大事なことを教えていただきました。私は終生このことを帯に書いて忘れないようにします。」と答えたのです。

ここにメンターとメンティの生き方と働き方が合致したのを感じます。共に人生の中で、大事な局面において何よりも学び合っていたのは本気の覚悟です。知識として教えただけではなく実践も同時に教える。これがメンターの役割ではないかと私は思います。

知識だけでは人生は何一つ変わることはありません。人生とは、生き方が何よりも優先されそれに付随して知識が必要なのです。知識で先に刷り込まれてしまうと、その根本を見失ってしまうのかもしれません。実践の大切さが維持されるのは、メンターとの邂逅を求めるその人物の真摯な人生との向き合いがあるからでしょう。

今まで当たり前すぎて「勇気」というのをあまり考えてきませんでしたが、勇気とは人生の大事な局面において信じ合っているからこそ出てくるものなのかもしれないと考えるようになりました。信じているから勇気が出る、勇気が出るのは信じ合った証そのもの。

そしてその信の形として顕れる勇気こそ、「信の徳」なのかもしれません。

いつも勇気を与える存在になり、いつも勇気をいただいている存在であることを忘れないでいたいと思います。

樹の本質~The Giving Tree~

ギビングツリー(The Giving Tree)という物語があります。これは米国の作家のシェル・シルバースタインという作家が描いたお話です。この本はすでに30ヶ国語以上に翻訳され今でも世界中で読まれ続けています。

この話は、樹と少年のかかわりの物語です。少年が大好きな樹は、少年がほしいものを自分の身を削って与え続けます。すべてを与え続けてそれでも少年が大好きで、樹はいつまでも幸せだったというものです。もっている自分のすべてを大好きな少年に差し上げていく樹の姿に、言葉に表現できないぬくもりや見守りを感じます。そして少年もまたいつまでもその樹を忘れずに大切な節目にはいつも頼りにしながら自分の人生を自分で歩み切っていきます。

この樹と少年の関係の中には、お互いの絆を通して共に絆を深め合っていく尊いご縁と結びが観えます。この物語が深く共感され長く人々に読まれるのは、そこに確かな愛を感じるものがあるからかもしれません。

先日、ある森を歩いて樹を観察していたら樹はもともとその性質の中に「与える」という徳性があることに気づきました。なぜなら樹は存在し生えることで、周りの生き物たちをすべて活かすからです。

樹は1本から循環をはじめます、その樹は伸びていくことで水の流れを保ち、落葉しては土壌の微生物たちをはじめ様々な生き物の住処を用意し、木蔭で休憩する動物たちや、実や樹液は食べものになり、幹はあらゆる道具として活かされます。

地球上にいて歴史が古く、もっとも長く自然の篩にかけられても生き残っているのは樹木です。この樹木がなぜ選ばれるのかは、そこに「与える」という生き方があるからではないかと思います。

私にとっては、「tree=giving」であり、「与える=樹」であるとしています。樹はもともと与えるのが樹であるということです。今の樹があのようになっているのは、与えるのみの姿であるから私たち人間には気づきにくいのです。本来の樹は与える中に存在しているからこそ、自分の生き方がそうなったとき樹の生き方が観えるのでしょう。

そして自分への見返りを一切求めずに与えることは、それは失っているのではなく同時にサムシンググレートから偉大なものをいただいているということでもあります。自分が得ようとするよりも、与えることで得られるのが天恩であり天恵です。

つまり自分にとっての損得ではなく、自然そのものの尊徳を感じているのが樹ではないかと私には思えます。

樹から生き方を学んだ一年でしたが、少しだけ樹の持つ本質を学び直したように思います。

この「TheGivingTree」の物語のように、愛と見守りの仕合せの関係を生長の中で真の自立=人間愛を築き合っていきたいと思います。

 

メンターとメンティ①~親切という生き方~

メンターという言葉があります。

これはギリシャのホメロスの叙述詩『オデュッセイア』の登場人物である「メントール(Mentor)」という男性の名前から来ています。このメントールという男性は、オデュッセウス王の友人でもあり、王の息子テレマコスの教育を託された賢者でした。

そのメントールは王の息子にとり、生き方や判断のモデルとなり、指導者、理解者、支援者といった見守る役割を果たした人物です。このメントールが英語でメンターと言われるようになりメンターの対象者が「メンティ(Mentee)」ということになります。私の主観ですが、日本では吉田松陰と高杉晋作のような関係や、細井平洲と上杉鷹山の関係もまたこのメンターとメンティの関係のように思います。

もともと人は一人でやっているようで一人でやれることはありません。その人が結果を出せるのは、その陰に見守ってくださるメンターたちがいてはじめて事が実現します。

何かあればいつもメンターが助けてくださっているからこそ、メンティは立派に事を成し遂げることができ、メンターもまたそれを支援することでその人自身が志を完遂するのを惜しみなく助けるのです。

もともとメンターというのは、困っている人を助けるような存在です。つまりは見返りを求めない親切さがあるものです。今まで私がお会いしてきたメンターもみんな本当に自分のことを実の息子のように可愛がってくれて惜しみなく智慧や励ましやアイデアをいただきました。

その御蔭様をもって今日があり、今日があるのはメンターとの出会いがあったからと断言できます。そしてメンターもまた、メンターがいて同じようにメンティでもあったのです。

人は生きていく上で、実践モデルは必要です。自分にすべてをさらけ出して命を懸けて大切なことを教えてくださる存在がメンターです。教わる方もそれを命懸けで学んでこそはじめてメンティとも言えます。

つまりはメンターとメンティは共に本気であること、同等の覚悟をもつもの、道を共にし志を同じくするものたちがそう呼ばれるのではないかと私は思います。

善いメンターに出会いたいのなら、善いメンティにならなければなりません。つまりはお互いが「生き方としてのモデル」になったとき、ホメロスの叙事詩に画かれるような素晴らしいご縁や出会いの物語に恵まれるのです。

親切にしていくこと、親切にされたことを周りへお返ししていく生き方がメンターとメンティを育て、そしてその両方が子どもたちがお手本にする生き方の実践になって学問の素晴らしさを伝え、世の人々との関係を好循環させていくように思います。

自分がメンターでもありメンティでもあるのだから、常に学問は命懸けで実践していきたいと思います。コーチングもカウンセリングもどれもこれも基本は親切心と真心ですから常に自分の魂に問い出会いを磨いていきたいと思います。

バランスの善い人~知行合一~

人は志を持ち、自分から自問自答して場数を体験しなければ学問を大成していくことはできないように思います。教えてもらうことを学びにしている人は、教えてもらおうとする頭ばかりを働かせて頭でっかちになってしまいます。

この頭でっかちとは何か、少し深めてみたいと思います。

もともと頭でっかちとは体に対して頭が不釣合いであることをいいます。それを比喩し、知識は多いけれど実行が伴わないことをいいます。これも今の学校教育の刷り込みの一つだと思いますが知識ばかりを詰め込んでは場数や実行の量が圧倒的に足りないということです。

実行するには心を遣う必要があります。心を遣うと体が動きます、体が動けば心もまた動きます。そしてその中で頭を働かせるという順序が本当の働かせ方のように思います。

世間では何かの道を学ぶとき、心技体のバランスを確認するものです。これは心技体全てを駆使して渾然一体になっているかということです。難しい言い方になりましたが、志を持ち、律儀に場数を踏み大量行動によって自分を育てていけばいいのです。

しかしそれができないのは人には怠惰な精神というものがあります。頭でっかちになってしまうと、如何に楽をしようかと考えてしまうからです。本来、「頭」の仕事というのは身体が無理しすぎないように、心が傷つきすぎないように調整する役割を持っているように思います。

頭があるから、計算して休むことができ、頭があるから、知識によって体験が困難になりすぎないように調整してくれるのです。ただ実際は、頭を優先してしまうと体が動かなくなり精神が着いてこなくなり心を亡くしてしまいます。

常に志を優先し、初志貫徹、何のためにといった初心や目的に照準を合わせて真摯に実地実行を繰り返すことではじめて頭を活かすことができるように思います。

頭が良いのは才能の一つで、頭が良いことで様々な創意工夫やアイデアもまた生み出していきます。だからこそ、まず如何に自分が望む自分を手に入れるために臆病でメンドクサがりな怠け心に打ち克ち苦労や忍耐を学び、日々に己自身との真剣勝負の場数を踏むかが何よりも頭を従い活かすためには大切なのでしょう。

頭で考えたなら、やれないことややりたくないことばかりでしょう。しかし、実際は現場を体験してもらうことでその一つの現場から学んだ有難いご縁や感謝を実感したらもっと実行していきたい、もっと恩返ししたい、もっと成長させてもらいたいと思うのが人間です。

頭も心に追随して困っている人たちに貢献したいと願っていますから、有難い現場をいただいていることにいつも感謝し、その中から学んだ気づきを改善してより行動を増やしていけばいいように思います。

私も今までの人生を思い返せば、行動してきた御蔭様で今が在ります。今の自分を創ってくださったのは出会った方々と尊い体験と、御縁といった場数でした。心が突き動かされるのはその場数に対する感謝があるからかもしれません。

長くなりましたがバランスの善い人というのは、頭を活かして行動が伴う人です。

知行合一に人生の実践を味わい、世のため人のために盡力していきたいと思います。

 

対話~衆知を集める~

古代ギリシャの哲学者にソクラテス(紀元前470/469-399)がいます。高弟のプラトン(前427-347)らと繰り広げた対話のことを「ソクラテス的対話」(ダイアログ)といいます。つまりは「対話」についてはっきりと定義されます。

もともとソクラテスは、文字に書き残すことで大切なことが伝わらなくなると考えました。プラトン自身も文字では伝わらないことを知りつつも敢えてソクラテスの言葉を文字に起こしました。

そのソクラテスが何よりも重要視したのは「問い」ということです。言い換えれば「自問自答」のことです。周りが何かを言うことに対して答えを求めるのではなく、「対話」によってはじめて自分自身の中の答えに導いていくこと。

つまりは気づきや自覚によって、その意味を掴んでいくことの大切さを説きました。

もともと学問というものは、学校の勉強のように誰かが持っている答えを探し当てることではなく、自分自身が経験したことを自ら苦労して掴んでいくときに「問う」という学びが得られます。

私はよく「わかった気にならない」と話しますが、これは分かるということは苦労してはじめて理解できるということを言うからです。頭ですぐに分かった気になる人は分かるということは学校の勉強のように知識を持つことだと勘違いします。

そんなことを分かってみても、現実の世界は何も変わることはありません。物知りになったとしても、それは議論や討論はできても現実には気づくことができないのです。

問いというのは、気づきのことです。

その問いを持ちつつ、行動し実践し努力苦労していくことで次第に気づきが自分のものになっていきます。刻苦勉励の精進によって体験が自分のものになったとき、はじめて「わかった」と思えばいいのです。

これらの自分自身との対話は、如何に自分自身が素直になっているかによります。その自我から離れた状態を人々の間にどう引き出すのかは、調和者(ファシリテーター)である人物の信念や哲学といった生き方が影響します。

そういう気づきこそが何よりも大切であると、このソクラテスとプラトンの関係からも読み取れますし、論語の中の孔子やその弟子たちとの対話からも感じ取れます。

日本語ではこれを「衆知を集める」としましたが、私たちの行う一円対話はこれを引き出していくものです。さらに実践を高めて、世の中に真理を広げていきたいと思います。

自然の本能~足るを知る~

今の時代は古い暮らしをしていた先住民たちの文化が壊れている時代です。グローバリゼーションという名の波が、世界中のあちこちにまで蔓延し多様な暮らしを一つの暮らしになるように変えてしまいます。

隣国の中国でさえ、15年前と今ではまったく暮らしが変わってしまい都市部ではかつての中国の様子がほとんど感じられません。今ではあの広大な国の僻地にまで大規模工場や娯楽施設、西洋的な住宅が増えてはそれまでの悠久の暮らしはなくなってきています。

アフリカやブータンなどという古い暮らしも次第にその波に脅かされています。もともと持っていたものの価値を否定し、若い人をはじめ自分たちが西洋人と比べて持っていないことを不幸だと植えつけられ、その不幸を避けるためには勤勉になるしかないと教育し不幸を抜け出すために必死に経済のために働くのです。

みんなが持っているのに自分は持っていないという考え方は貧しい考え方だと言われます。しかし本当は貧しいのではなく、足るを知らなくなることで不幸であるという生き方になってしまうのです。

老子に「足るを知る者は富む」があります。「足ることを知らないと不幸になる。欲が多すぎても強すぎても不幸になる。足ることを知ることに満足できる人は常に幸せでいられる」(老子第46章より)があります。

そもそもの貧しさとは不幸のことであり、豊かさとは幸福のことです。真の豊かさというものは、持っているか持っていないかということではなくすべて持っている、「今の自分のあるものはもっとも今の自分に相応しい」と満足し、だからこそ感謝して、その上で御恩返しになるようにさらなる生活を向上し自助練磨、修身精進していくようなものです。

畢竟、自分は誰とも比較できない自分自身であり、自分自身は絶対的に自分であるという唯一無二の自分らしさよりも誰かや周りと比較しては自他を羨みそして競争し、集団に餌付けされ飼いならされ本能を忘れてはまるで自転車操業のように毎日只管走らされて止まることを恐れ不安にさせられています。そうやって視野狭窄にし追いつめられては周りを巻き込んでいくのが今のグローバリゼーションの手法です。

そこに自分自身が負けてしまうことで不幸は蔓延してより多くの人たちが物が溢れて裕福なはずなのに仕合せに生きられなくなってきています。

かつての暮らしは、自然を優先し人間を少し下げて調和を重んじてきました。

今は人間が何よりも最優先で、自然であるよりも人間社會の中での上下の差や貧富の差にばかりフォーカスされては幸不幸を語られます。一度、破壊され喪失してしまったかつての文化の中にもう戻ることはできず一度走り出したら自転車操業しかありません。

もう一度、真の仕合せとは何か、真の豊かさとは何か、「足るを知る」心から見つめ直して本来の本能を呼び覚ましていく必要があるように思います。

足るを知る心とは、自然界の本能だからです。
自然の本能の減退こそが、人間の不幸だということです。

自然界の本能を育てて磨いて、本来の人間の仕合せを働き方と生き方の一致で新しい時代の真の豊かさを次世代へとモデルを示し譲っていきたいと思います。

 

 

心の原点回帰~もののあはれ~

昔から日本には八百万の神々という思想があります。これは万物の全てには神様が宿っているという意味です。つまりすべては丸ごと神様であるという考え方です。

これは西洋のように人間と神とを分けて考えるのではなく、自然界の仕組みのように人間を中心にするのではなくすべて丸ごとを中心にするという考え方です。

しかしそれを感じる力を持つというのはモノやコトの中に真心を感じる感性がなければそれを実感することはできません。つまりは江戸時代の国文学者の本居宣長が言うように「もののあはれ」を直感できるかということによるのです。

「もののあはれ」とは何か、本居宣長はこう言います。

「世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ身に触れるにつけて、そのあらゆる事を心で味わい、そのあらゆるの事の心を自分の真心でありのままに知る。これが事の心を知るということであり物の心を知るをいうことである。物のあはれを知るということである。そしてさらに詳しく解釈するならば、ありのままに知るのは物の心、事の心であり、それらを明らかに知ってその事のあるがままのかたちに動かされるままに感じられるものが”もののあはれ”なのである。」

この「あはれ」というのは、哀しみのことを言うのではなくありとあらゆることを直感する感性のことであろうと思います。自他一体の時に実感する、繋がりや絆、そのご縁を尊重するときに自分が渾然一体になっているものの変化と同化しているときに味わっている感覚のことです。

なぜ「もったいない」という言葉があるのかは、そこには心があるからです。心があるからこそ粗末にしない、心があるからこそ大事にする、そのモノもコトにも、確かな心が関わりいのちが存在しているからこそ大切にしていこうとする思想です。

今の時代はありあまるほどに存在するモノやコトに囲まれています。一歩外に出れば、そのモノやコトの情報が氾濫し、内に戻ればそれを持ち帰ってしまいます。穢れを祓い清めるというのは、心を亡くしてしまったものを取り戻し、それをキチンと整理整頓し清潔にシンプルにしておくということなのでしょう。

自分の心と感情を澄ましていくというのは、「もののあはれ」を感じられる状態にいつも自分を維持していくことだと思います。それはモノやコトをどれだけ大切にしているかですし、内省によってどれだけ丁寧に暮らしていくかということでもあります。

何でも雑にしていたらそのうち心は亡くなって、モノだけではなくコト、そしてヒトやタカラまで失っていきます。沢山いただき恵まれているものに感謝の心がなくなってしまったら、それは何よりも悲しく不幸なことです。

常に「もののあはれ」を感じる心は、心が清く明るいままで維持されるようにその汚れをきれいに払しょくし洗い流すような実践が必要になるように思います。日々に穢れなくさっぱりとしている自分かどうかを確かめ、余計な雑念に大切な理念や初心を忘れないように平常心を磨いていきたいと思います。

あの美しい自然、今朝の綺麗な朝の光のようにいつも心の原点回帰をしていきたいと思います。

観方を転じる~徳に報いる~

先日、あることを考えていると天罰ということについて見直す機会がありました。よく悪いことをすると天罰が当たるという言い方をしますがこの天罰とは何かということです。

そもそも天は罰を与えることはありません。罰が当たるのは自分自身です。自分にとってつらいこと苦しいことを罰とし、その罰が来たということです。天がわざわざ罰を与えたわけではなく、自分自身が素直になったときに「これが報いか」ということを自覚するだけです。

報いというのは因果応報のことですが、これはそもそも先ほどの天罰と同じく悪いことで使われますがこれもおかしな話で自分にとって悪い報いだけが起きるわけではありません。善悪というものも、人間が自分にとって善悪を決めるだけで天は善悪を持ちません。つまりは、因果応報もこれは単に行ったことが形になっただけでそれに善悪を設けているのは自分自身ということです。

人間というものは、自分を中心に置いて物事の善悪や成否を決めます。そしてそれは常識という枠組みの中によって正解と不正解を裁きます。そのことにより自然だったものが不自然になり、本心だったものが本心じゃなくなっていくのです。

物事というのは観方の問題です。

現実というのは、偉大な循環の中の一つであるためその物事や出来事は必然的に自分に置かれます。つまりは産まれてくる場所をはじめそこに自分がいるのは全体の一部としてそこに必要として来たのです。その現実は現実ですから受け止めて受け容れるしかないのはそれはどうしようもない事実だからです。

だからこそその事実を変えてしまいたくなるような自分中心の自分自身があるのでしょうが、それを手放していかなければ現実の苦しさに自分が耐えられなくなってしまうのです。そういう時は、観方を換えるしかありません。本来、善いことであるという観点、丸ごと善いことであるという観点、繋がり味わい楽しむならばそれが正しいという観点のように、自分の観点を不安不信ではなく信の世界に換えるのです。

そもそも天罰などはない、天はいつもすべてゆるしてくださっている、天はいつも助けてくださっているというように大前提を変えてしまわなければ観点は変わりません。つまりは自分の解釈そのものの基準を、信じる方へと善い方へと変えるということです。

自分の不安が未来を悪くしていくのは、そういう観方を換えられないだけです。今の生き方を常に善い方へと善転できるならその人はどんな運命であろうとも自分の人生を仕合せに歩んでいくことができるからです。

人は自分の思い通りになるとき、このままずっと今のままがいいと願うものです。しかし時代はそれを待ってくれません、自分ひとりで生きているわけでもなく世界は発展を続けるからです。

だからこそ今の自分を転じていくこと、それが人事を盡していくことだと思います。天は信ですから、その信に報いるのは徳です。その徳を磨いていくことは、人事を盡してあとは天に任せていくことです。

自分の思っていることなどたかが知れていて、ほとんど全ての出来事が自分ではない周りのところが動いてくださってことはなされていくものです。それが循環の理でもあり、地球の中に共生する原理でもあります。

偉大な中に存在させていただいているのだから、自分の役割を果たしていくことが徳に報いることです。自分都合自分勝手な解釈を戒め、常に観方を転じて信の世界を子どもたちに譲っていきたいと思います。