歴史の産道~今此処の一歩~

山野の中には人が歩いている道や獣道があります。長い時間、何度も同じところを歩いていくことでそこに道ができます。已まずに歩かれ続けるとその道は踏み固められ、誰も歩かないとそのうちその道が消えていきます。

道といえば代表的な古い道に熊野古道があります。だいぶ前に熊野古道を歩いたことがありますがその道を歩きながら歴史や文化、そして風土や理念などを感じたことを思い出します。

道というものはただそこに道があるのではなくその道をどのような人たちが何の目的でどのような心で歩いたのかという「太古から流れる一筋の思い」を鑑みることができるのです。

今まで続いてきた道というのは、過去にその道を歩んで今の自分にまでつないでくださった方々があるということです。その消えそうになっている道を、自分が後でまた歩むことでその踏み固めた一歩はまた次の人たちへの礎になっていくのです。

誰も見ていないからや誰も通らないからではなく、自分が通る道だからこそ責任をもって歩まねばならないと思うのです。みんなが通ったから安心ではなく、自分が通らなければならぬ志があるのです。

ひとたび歩めば、そこはもう鬱蒼とした密林の中で道なき道をかき分けていくものかもしれません。しかしだからこそ自分が進まねばならぬ、だからこそ自分がもう一度かき分けて入っていかなければならぬという道を開くという使命感です。

私が好きな三つの言葉があります。一つは二宮尊徳、「古道に積る木の葉を掘分けて天照す神の足跡を見む」。そしてもう一つは種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」、最後は源重之の「つくば山 葉山蕃山 しげけれど 思い入るには あわらざりけり」です。

そのどれも自分の境遇に左右されず、自らの道を切り開く真心を感じます。

幼いころ、生前の祖父が山登りをするのに連れられて道なき道を登り山の中を歩き回ったことがあります。今思い返せば、きっと山芋を探していたのかもしれませんが子ども心に迷子になるのではないか、二度と戻れないのではないか、何か獣と遭遇するのではないかと不安を感じつつ背中を見つめては歩んだ記憶が残っています。どこに出てくるのかも、どこに向かうのかもわからず、山の中に何時間もただ分け入って往くのです。しかし思い返せばその体験が山に入る霊妙さと道を歩む崇高さを覚えたのかもしれません。

道は時であり、時は人であり、人は旅です。

そしてその道は歩む中に由って顕れます。

きっと私たちは歴史の産道を歩んでいる最中なのかもしれません。その歴史の産道の意義を決して忘れず、自分の足で今此処の一歩を大切に歩んでいきたいと思います。

 

長い目~地球観~

先日、養鶏場で鳥インフルエンザが蔓延し約10万羽の鶏が処分されました。他の鶏に感染するからと全部の鶏を処分するのですが果たしてこれが人間ならどうだろうかと思ってしまいます。

もともと鳥インフルエンザは昔からある病気で今にはじまったものではありません。鶏自体に免疫があれば感染せず、かかってもそんなに広がらなかった病気です。自然界に棲んで自然界の生活をしていれば、自ずから病気もまた天敵と同じように自浄作用の中で働いているものの一つです。

しかし、人間の都合で鶏を飼育され抗生物質を大量に投与されている合成人工餌を食べている養鶏場の鶏では病気に対する抗体がなくほとんどが死んでしまいます。その卵を食べたり、その肉を食べる私たちもまたその弱体化したものを取り入れて弱くなっていきます。

自然農に取り組み、自然の畑の中に入り感じるものは厳しい環境の中でいのちを育んでいく自然の姿です。寒さに負けず、暑さに負けず、虫にも負けず、病気にも負けずに逞しく育っていきます。苦労という苦労をまともにしながらも、その生はゆるぎなく元気そのものです。

時折、運命に負けそうな出来事が起こっても再び這い上がってきます。天候の変化や人間の余計な手出しがあったにせよ、強く逞しく自ずから主体的にいのちを発揮します。

農薬も同じく、一部の虫が問題だからとほとんどの生き物たちを処分してしまいます。そして除草剤も同じく、ほとんどの草を処分します。それで一時的に処分したとしてもすぐにまた同じ出来事が起こります。根本的に解決しない方法を繰り返しとったとしても、その時は乗り切ってもあとにもっと大変なことになります。

長い目で物事を観ることを已めてしまうということは、それだけで悠久の歴史の中の智慧を失ってしまうことになります。生き残るという意味が、どれだけ長いスパンで考えているかはその人の生き方に由るものです。

ある程度の数を制限し、広い空間の中で、自然の雑草や穀物、昆虫を譲られた分を自然に食べるようにすれば全体とのバランスの中で病気にもかからなくなっていきます。これは鶏だけの話ではなく、すべての動物に言えることです。

もっとも悍ましいことは、人間が今動植物に行っていることが人間にも行われていくということです。戦争も同じく、自然に天敵があるように、人間にも天敵があります。それが決して外界にあるものではなく人間の精神や心の中にあることに気づいている人は多いはずです。

何千年も前から悠久の歴史には人間は自分に打ち克つことを戒めてきた言葉ばかりが刻まれます。今の時代、スピードを上げるばかりで内省する時間もないようですが根本に立ち返り、本質に立ち止まる勇気と、流れを断ち切る信念が必要なのかもしれません。

なぜ自然養鶏なのか、なぜ自然農なのか、なぜ自然の生き方なのか、自分の中にある自然の力を外側から抑え込んでもそこには限界があることを自然はいつも教えてくれます。

私たちは46億年の地球の一部ですから、地球観を持ち、長い目で静かに物事を判断していく力を身に着けていきたいと思います。

志士の実学

日々というのは学びの連続です、何のために学ぶのかというのはその人の生き方ですが何のために生きるのかとなればその人の理想があります。人を愛するものは、人々の仕合せに生きようとします。人類が求めて已まなかった夢のために生きようとするものたちが自分の身を顧みずに義に盡す時、志士が顕現するように思います。

歴史の中で何度でもその機会を与えてもらっては、善悪を超えたところで生き続ける魂はその後の子どもたちの魂の模範になっているように思います。教えというものは、時代を超えて語り継がれているのはそれが本物の教えであるからです。本物の教えを継承するということは、本物の生き方を同時にできたということなのでしょう。そこには実学といった知行合一の生き方があったのです。

道元禅師の「正法眼蔵」の中に白楽天の話が紹介されています。タイトルは「諸悪莫作」といいます。これは史実ではなく後から仮定された話だとも言われますが、白楽天と道林禅師のやり取りの話です。

昔、白楽天が中国の杭州の市長のような仕事をしていたころ、樹の上で暮らし修行をしている仏教の覚者である道林禅師を尋ねました。その際に「あなたは仏教の悟りは何だと思いますか?」と聞きました。

すると道林禅師は「悪いことをせずに人々に善い実践をさせることです」と応えました。白楽天はそれを聞いて「そんなことくらいなら3歳の子どもでもみんな言いますよ」と返事をしました。

道林禅師は「3歳の子どもにもそれが言えても、80歳になるこの老人がいまだにそれを実行実現できないではないか」と言います。それを聴いて白楽天はただ黙礼しかできないでいたという故事です。

白楽天は中国の詩人で仏教徒でもありました、白楽天は中国の試験科挙にも合格するような秀才であり知識も豊富でした。その白楽天がこの道林禅師に参禅して多大な影響を受けたのではないかと私は感じました。白楽天が後に文字の読めない老人に自らの詩を聴かせ誰にでも理解できるように真摯に思いやりの改善に努めたこともこの「諸悪莫作」の故事に通じるものがあり心に響きます。

善悪を超えた思いやりを実践するというのは、その模範があってはじめてできることかもしれません。教科書には書いてない答えがあり、全知全能の知識の中では想像できないところにあるものが実学です。

自分の人生を懸けて学ぶという姿勢が志士ですが、その志したところが間違っているのなら以上の白楽天の話も本意が違って聞こえてしまうのかもしれません。

吉田松陰に「ああ、世の中に研究や読書をする人物は多いが真の学者がいない理由は、学問をするにあたって、その志がすでにまちがっているからである。 精魂を傾けて政治にあたる君主は多いが、真の名君がいない理由は、政治を行う最初において、その志がすでにまちがっているからである」

白楽天が目指した理想が何か、他にも志士と言えるものたちが目指した社會は何か、そこを間違うと実学が実学ではないものになるのかもしれません。何のための「知行合一」か、何のための「体認」なのか、「実践」というものは其唯夢のためということなのでしょう。

「己に行う者を以て、是れを子々孫々永々世に伝ふべし。」(吉田松陰)

自分で体験したことを心で呑みこむことで学んだ智慧を、実地実践して後世に伝えていくのが「志士の実学」ということなのでしょう。孔子は志士のことを「志士仁人」と言いました、初心を忘れず真心を籠めて日々に学び直していきたいと思います。

 

好奇志心~時の旅人~

人は生き様の中にその人の思想や哲学が籠っています。それは時間の中に顕れてくるように思います。どのような生き方をするのかは、その時間の過ごし方にあるようにも思うのです。

時機というものは、待つものであり単に待てばいいのではなく丹精丹念に日々の努力精進をしながら待たなければならないことばかりです。それは自分の心との正対であり、自分の精神との正対でもあるように思います。

忙しいくらいで自分を見失っているのでは、本来の生き方がまだまだ自分の都合が入っているからかもしれません。どれだけ壮大な夢のために自分を使うかはその人の志如何に由るものだからです。

運命があったとしても、その運命のせいにせず半分は自分の意志で覚悟をもって歩むのが志士のように思います。

吉田松陰の言葉の中に「聖人の胸中は常に多事(多忙)にして楽しむ。愚人の胸中は常に無事(暇)にして楽しまず。」があります。

意訳ですが、(生きとし生けるものの心の幸福のために生きる人の精神はどんなに忙しくても心から楽しむことができる。しかし一般的な人の精神は時間があったとしても楽しむことができないものだ)ということです。これは多難にして謙虚に感謝し、無難にして傲慢に怠慢と言ってもいいかもしれません。

自分の時間ではない人は、常にそれが意味があって意義がある時間だと自分を使い切ることができます。しかしそれをいつも自分のためだけに使っている人はその時間の意味も意義も知ろうともしないのだから面白くないのです。

時間というものはその人の志が入ってきます。いつも世の中のために自分を使う人は、自分が使われていることに仕合せを感じるものです。しかし自分の欲望ばかりを優先している人には、使われる喜びに出会えません。学問は、勉強することではなく人生を生き切ることですからそれを楽しんでいるかどうかはどれだけ自分の真心に能動的実践をするかということです。

「学 ゆるむべからず、一日をゆるめば、まさに大機を失せん。」(学問は決して弛み怠ってはいけない、やったりやらなかったりをもしも一日でもやれば偉大なチャンスも全て失ってしまいます)と吉田松陰も言います。

天命を待つからこそ学問を怠らず真剣に打ち込むことができます。その天命とは、その人の願いに対して応じるもののようにも思います。

人は自分の考えではどうにもならない現実の中でもどれだけ魂を輝かせるかはその人の生き方次第、生き様次第です。同じ人でも観え方が変わるのは、人間はみんなその魂の生き様に憧れるからです。

それは羨ましいのではなく、自分から憧れるということです。憧れて入った道ならば、その道が楽しくないはずがありません。その憧れこそ童心であり、その人の本質、そして初心でもあります。

「志をもっている人間は、何かを目にしたら、必ず心中に感じるものがある。」

好奇志心のままに内省を片時も怠らない楽問をしていきたいと思います。

 

志の意義~親孝行~

今年は大河ドラマで吉田松陰に関することに触れる機会が多いため、今まで見聞きし調べてきたことを何回かに分けて深めてみたいと思います。

吉田松陰は脱藩をしたり、ペリーの黒船に乗ったり、討幕を訴えたりと危険なことばかりを繰り返した我儘な人物ということをよく誤解されます。当然、人間は封建的なものを持っていますから秩序を乱すようなことをすれば排斥されてしまうものです。特に明治維新前の時代は思想をはじめ言論から行動まで非常に強く抑え込まれていた時代ですから危険人物の中では突出していたとも思われていたのでしょう。

先日も吉田松陰のことについて他人に聞かれましたが、親に迷惑をかけて周囲に迷惑をかけてなんて勝手な人だという人がいましたが決してそうではないのです。

吉田松陰はいつも自分が行ったことで親に申し訳ない、周りの家族に、親族に、お世話になった方々にと涙しながら前進した人物でした。脱藩の時は、毎晩のように涙を流して親の安否を心配し続け、ペリーの時は有志の師の佐久間象山先生の安否を気遣い続け、牢獄に入れられ私塾を開き討幕を訴えて兄は失職し両親も仕事がなくなり、養父の責任も巻き込み、申し訳なさに涙涙しながらも志を貫き至誠を通し真心を盡した生き方の人でした。

それは手紙や詩の中にたくさん残っています。

「知るや否や親を思う連夜の涙、天衷自ら万人同じきあり」(分かっているのだろうか、両親のことを心配し流している連夜の涙を、人間には必ず天から与えられている情があるのだから私もまた同じなのです)

「吾が家の父母兄弟いずれもつつがなきに候や」(我が家の父母兄弟はいずれもご無事であろうか)

「これからは、拙者は兄弟の代わりに此の世の禍を受け合うから、兄弟中は拙者の代わりに父母へ孝行してくれるがよい。左様あれば、つづまるところ兄弟中皆よくなりて、果ては父母様のおしあわせ、また子供が見習い候えば子供のため、これほど目出度き事はないではないか」(これから私は兄弟の代わりにこの世の災難を請け合うから皆はどうか両親に孝行してください、そうであればみんな家族は仲良く両親も仕合せで子どもがそれを見習えばきっとめでたいことだから)

最期の別れでは、母親に元気な姿で帰ってくると約束し母親を安心させ旅だち、処刑前に遺した詩が「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」(私が両親を思いやる心以上に私を思ってくれる両親の真心、今日の私の死の知らせをどう思うだろうか)とするのです。

このような人物が我儘で自分勝手に生きたわけはありません。吉田松陰は何よりも孝行を大切にし、忠義を盡して、至誠に生きた人物なのはすぐにわかります。激しい一面だけを見ては危険な人物というところだけを見ては、世の中の批評はあったけれど、内面や内心、本心はとても思いやりのある優しく純粋で正直な子どものような人だったのです。

自らを「情人」であるといつも言っていた松陰は常に立つときその情に於いて煩悶するがそれでも往く、「慈母の愛、父淑の責めは人情の堪え難きところ、唯だ非常の人のみ能く非常のことを為す。孔孟の国を去り、釈迦の山に入る、皆常情にあらざるなり」という。孔子も孟子も自ら家族を遺して国を去り、釈迦もまた同じように山に入っていったように決して比べられない大事なもののために覚悟するのだと自戒し言うのです。

自分の真心を信じてくださる両親に甘えつつも、同時にそのことで多大な迷惑をかけてしまう苦悩に煩悶し涙する日々の中「已むにやまれぬ大和魂」(それでもやめることはできない私の善心)という言葉は、それでも已めるわけにはいかないという透徹した純粋で正直なその人の心魂から吐出す信念の血言霊だったのではないかと私は思います。

本当に未来を憂い、世界の将来を心配し、人々の行く末を案じるのなら魂の先輩から志の本意を学ばなければなりません。私たちは単に義理か人情かではなく、志ということがどれだけ苦労の実践実行と関与しているのかを自覚しなければなりません。親孝行の中に大切な教えは全て入っているように思います。

親孝行をするというのは、志を練り上げる第一の徳です。

子ども心に憧れた松陰はいつも心の中に居ます。時機を心待ちにしているのなら、いつの日か同じ境地に近づけるのでしょうか。これからも何をもって親とし、何をもって孝行とするか、その志の意義をよくよく考えて生き切っていきたいと思います。

運も実力のうち

先日、「運も実力のうち」という言葉を考える機会がありました。運の善さというのは、自然の摂理に従って人事を盡していることで目には見えない何かに見守られいつも助けてくださっている感謝に包まれているものをみるとつい運の善いと思ってしまいます。

多くの出会いに恵まれて素晴らしい環境を創造していく人たちに共通するのはそこに運の導きを素直に受け取っているその人の生き方があるように思います。

その運を次第に引き寄せるのはその人の実力のように思います。その実力とは、その運が善くなるように日頃から知らず知らずのうちに努力ができているということではないかと思います。

つまりは正しい努力を怠らないことができているから運が善くなっていくという好循環のことです。自分の中に何がもっとも善いことなのか、つまりは善良や善心を持つ人はその本心本性に従って自ら自然に精進を怠りません。

すると、その努力はもっとも純粋に地球の好循環と同じ流れに入り運もまた活かせるように思います。例えば私でいえば、選ばないことや、他人のいうことを神様のように聴く、意味を味わい尽くして学んでいくなども努力しているところです。

日頃から何を努力している人なのか、それが目に見えないところで怠らず慎み実践している人だから実力があるということなのでしょう。

運を学ぶということは、努力の意味を学ぶということです。

日々に気づいて改善していきたいと思います。

伝心

人は知識があるないにかかわらず、信じているか信じていないかは言葉に表れて出てくるものです。何のために知識を持つのか、それがかえって不安材料になってしまうのではせっかくの知識がうまく活かせないことになるかもしれません。

先日ある人が、若いときは「できないことが増えるから挑戦したくない」ということを言っていたという話を聞きました。優等生で優秀であったために、何かをすればできないことが増えるから何もしたくないという心理があったとのことです。それを聞いた周りの人は「できないことが増えるのはできることがそれだけ増えることだからもったいない」と言っていましたが、その人はできないことが増えることは可能性が広がるという考え方でした。

同じ事柄であっても、できるできないをどう捉えるかというのはその人のセルフイメージが決めています。セルフイメージとは自分の心と思いのことです。自分の中で何を信じているか、自分の中でどのような思いがあるかということに気づけば自分の努力の方向性が分かるようにも思うのです。

人は対話をします。その対話はただ言葉を行き来させているのではなく、その人の心や感情を伝えるものです。いくら上辺を繕って表面上は誤魔化してみても、心はそのまま相手に伝わります。心や思いがどうなっているのかは、語らずとしても伝わるものです。

これを以心伝心といいます。信じるということもこれに似ています。その人が言っているから鵜呑みにして信じるではなく、自分から能動的にどれだけ信じようとするかということが大事なのです。

言葉にはその人の信が入ります、そして眼差しにも信が入ります。信じ合っている絆は強く簡単には崩れません。しかし信が弱くなれば、絆は脆くなります。お互いが信じ合っているという関係を維持するのは、お互いにその信を送り続ける努力が必要なのです。

信じるというのは、自分が信じる実践を積み重ねていくことで溜まっていきます。自分との約束を果たし続けていたり、自分に打ち克ってきた場数によって信はより篤く盤石になっていきます。もしくは自分の信じる人が信じているものを一緒に信じることでその信を結び信頼の手綱を握り合うこともできます。

目には見えませんが、その信があるからお互いに頼り合うことができるのです。自立というのは、信頼関係を築けるということです。つまり自ら信じることができるようになるということです。

信じさせてもらおうという態度では、いつまでも他人のせいにできるような姿勢では信じることは難しいものです。自分を如何にだまし続けるかは、自分が如何に信じ続けられるかです。本来の知識とは、自分を信じ騙すためにあるもののように私には思えます。そしてそれは信じる方も同じです、信じているかどうかが相手の信の礎になるのです。

どんな情報も知識も受け取る側の考え方次第ですから、それを善いものへと転じるのは具体的な実践による智慧に換えた時に変わるように思います。知識をどのように活かすかは、その人の生き方ですから長い目で観て世の中を仕合せにするために遣っていきたいと思います。

子どもたちのためにも、できるできない、分かる分からない、知識か智慧かではなく、信じるということ。何よりも主体的に心を育てて思いを揺るがないものに成長していきたいと思います。

師弟とは~一心同体~

よく師弟関係という言葉を用いることがあります。何の道でもそうですが、何かを習い始めては師がいますが師がいれば自分は弟子となります。しかし本来の師弟というのは一体だと私は信じているのでむやにやたらに誰かを師にすることはありません。

吉田松陰にこのような言葉があります。

「師道を興さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべきし。」

これはかなり厳しい言葉にして、師とするな、師となるなといいます。真にこれは教えなければならない学ばなければならないことの時にだけ師となれというのです。

吉田松陰や孟子の著書を沢山出版している川口雅昭氏がこれを解釈しています。「この言葉はよく一般論として、教師、上司はこうあらねばならないという引き合いにだされるが、実はそうではない。知識があるとか、品行方正、学術優秀な教師はたくさんいると。しかし松陰のいう師弟関係とは、国家のために死ねと命令したら死ね。死ねない人間は弟子になるな。これに対して弟子も、先生の言うことなら死んでもいいという。両者の思いがそのレベルで一致して初めて師弟関係となる。」

つまりは、お互いの「本気」「覚悟」があってのものということです。言い換えれば、師を弟子に置き換えた文章でも同じということです。「弟子道を興さんとならば、妄りに人の弟子となるべからず、又妄りに人を弟子とすべからず。」なのです。

思いを同じくするというのは、知識が多いから師匠と呼ぶのではなく、経験が豊富だから師匠というのではなく。師弟一体になりたいと願う、魂の求道なのです。それだけ一心同体になって物事に真剣になりたいということなのです。

私は孟子の私淑という言葉が大好きです。私淑とは「孟子巻第八離婁章句」に書かれている言葉です。

「予未だ孔子の徒たるを得ざりしも、予、私かに、諸を人に淑くするなり」

意訳ですが、私は時代が異なり孔子の弟子になれなかったけれど、孔子の遺した徳風から様々な薫陶をうけそれを学び周囲の人々に伝えていたのです。つまりは「ひそかにその人を師にして尊敬し模範として学びます」という言葉です。

孟子の姿勢は孔子にとって一心同体のように私には思うのです。それだけ本気だったということ、それだけ同じ夢を目指したという事、ここに真の師弟を観るのです。単に自分が学ぶために師とするのではなく、師と同じ夢を持つという事、同師というのかもしれません。

師道を興すというのは、後に続く者たちへの夢を遺すということです。

本気度で師に刺激をいただく日々に感謝しつつも自戒ばかりが頭をよぎります。子どもの前に立っているのだからこそ、子どもが背中を追いかけてくるからこそ、決して自分のために行うのではなく、やったりやらなかったりするのではなく、真摯に至誠の実践を積み重ねていきたいと思います。

探究心~真剣な実践~

人間は物事のことをどれだけ深く掘り下げていくかで本質に近づいていくように思います。世の中の話をいつも鵜呑みにばかりしていたら、本当のことは分かりません。物事の意味を実践により咀嚼してはじめて自分のものになるのが本質ですから本質が理解できるということはどれだけ探求しているということです。

探求というのは、字の如く「求めて深める」ということです。つまりはそのものの本質を見極めようとする力であり、真理を知りたいと思う好奇心のようなものです。

私もどうも好奇心旺盛で、本当のことが知りたいとばかり思うようです。いくら本に書いてあっても、いくらそれが科学で証明されていると言われても、自分自身が自分の感覚で「探していたのはこれか」と納得するまでは諦めきれない性分のようです。

先日も、保田與重郎の著書に飛鳥の神奈備のことが書かれていて本当にそうかと自分で現地にまで調べていきます。その過程で、様々なご縁に導かれ新たな発見をし、なぜそれを調べたかったのかを竟には自覚自明するのです。

探求するというのは言い換えれば道を歩んでいくということです。自分の舌で咀嚼し、自分の胃で消化し、自分のモノにしていくということです。それには真理探究に対する強い熱意が必用のように思います。

偉い先生が言うのだからとか、誰もが知っている事実だからとか、未知なるものだからだと考えるのをやめてしまって無関心に流していたらいつまでも本質に近づくことができません。だからこそ、自分から分からないことをもっと本当のことが知りたいと知識欲を転じて智慧欲に換えていく必要があるように思います。

知識は簡単に便利にすぐに入ってきますが、智慧は入ってきません。智慧は具体的な行動と探求によって自分のものになっていくからです。以前、メンターに「距離に負けるな好奇心」という言葉をいただいたことがあります。

面倒だなや、大変そうだな、しんどそうだなと、いちいち何かをやる前にそんな気持ちに探究心が負けてしまっていたら何一つ自分のものにはならないということでしょう。

最後に論語にあります。

「子曰わく、憤せずんば啓せず。非せずんば発せず。一隅を挙げてこれに示し、三隅を以て反えらざれば、則ち復たせざるなり」と。

如何に真剣に物事に取り組むか、真剣であればあるほどに探究心は高まるのです。真面目そうになるのではなく、真面目であることは志事に如何に真剣に取り組むかということです。本当の真面目とは何か、本当の真剣とは何か、味わえる仕合せを周囲に自らの実践で伝えていきたいと思います。

 

 

自戒の意味~慎む~

人間はいつもの自分をどの高みで内省するかで気づきの度合いが異なるものです。気づいているようで気づいていないのも、気づきというものは素直さと比例するからのように思います。素直でないと反省もまた反省風になり、気づいても気づかず、直そうにも直せないということにもなるからです。

自分のことを正しく理解できるというのは、思い込みや刷り込みを取り払ってあるがままに物事が視えるということです。言い換えればそれが素直さなのですが、受け止めたくない事実がある場合や受け容れられない現実がある時はそれを湾曲してしまうものです。

気が付けば、やっているつもりになっている実践が多いのもまた事実です。如何に深く内省し、如何に深く気づき、如何に謙虚に行動するかはその人の人格の成熟や精神の研鑽によるもののように思います。

そしてそれを直すのに自戒があります。自戒とは、自らの癖を見抜き気を付けるための心掛けのようなものです。人間は欲や自我がありますから気が付けば怠惰に流されてしまう自分に対して主体的に自ら気づき自我欲よりも優先できるものを持とうとするものです。

しかし一人慎んでいないと気づかないうちに優先するものが入れ替わるのが人間ですから、その入れ替わった瞬間に気づけて改善できるかどうかが実力をつけるポイントのように思います。

先日、あるお寺を参拝しているときに慎むということの実践で興味深い文章に出会いました。この文章の作者は元善光寺の住職が作ったものと言われていますが自分が気が付けば慎んでいないときの事例が書かれているのではないかと実感したので紹介します。

「 高いつもりで低いのが教養  低いつもりで高いのが気位

  深いつもりで浅いのが知識  浅いつもりで深いのが欲望

 厚いつもりで薄いのが人情  薄いつもりで厚いのが面の皮

  強いつもりで弱いのが根性  弱いつもりで強いのが自我

 多いつもりで少ないのが分別  少ないつもりで多いのが無駄」

(元善光寺「つもり違い十ヶ条」より)

この十か条は人間として気を付けないといけない生き方を並べると、今の自分がどちらに傾いているかを内省するときの基準になります。これはこのまま並べてみればその意味が分かります、つまり「低い教養、高い気位、浅い知識、深い欲望、薄い人情、厚い面の皮、弱い根性、強い自我、少ない分別、多い無駄」ということです。

高慢・傲慢・不遜になってはならぬ、自分のみの価値観の世界に浸って陥ってはならぬと言い聞かせるのです。人は他人の話が聴けなくなると以上のような状態に陥るものです。素直に他人の意見を聴けるというのはそこに謙虚な生き方があります。

上記のことを逆さに書いてみると、「高い教養、低い気位、深い知識、浅い欲望、厚い人情、薄い面の皮、強い根性、弱い自我、多い分別、少ない無駄」です。つまりは人間として慎む姿が観えてきます。

人間は知れば知るほどに、知識が多ければ多くなっていくほどに慎まなくなっていくものです。教える立場の人たちは何よりも自戒する必要がある智慧が「慎む」という実践なのでしょう。

真の実力とは、精進により磨かれた人格の上に慎み抜かれて錬成された実践です。他人のことをとやかく言う前に知識ばかりを詰め込む前に、自分の生き方をよくよく見つめて内省していきたいと思います。