真の賢者

人は矛盾する相反するものを理解するとき、一流であると人々から評されるものです。以前ある人は矛盾を抱えながらも一つを成し遂げることが個性であると言いました。つまりはあらゆる矛盾をどう乗り越えるのかがその人の人間性であるのです。

例えば仕事では、働き方と生き方の一致ですし、生き方でもあり方と処し方の一致、他にも自分と他人との一致、人間学と時務学の一致、きりがありませんが二つ以上のものを一つにできるのはその人間の中に矛盾を抱え込む器ができているということでもあります。

自分の性格も生来からどちらかに偏っているものです、それが個性でもあります。ある人は積極的、ある人は消極的であるとも言えます。積極的な人には内省を促し、消極的な人には実行を促す。そのどちらもバランス善くできる人が真の主人公です。主体性と一概にいっていても、その主体性を発揮するには人間を磨き、自分を育ててバラス感覚を身に着けて矛盾と調和を内在できるようにならないと自由にはなれません。

結局は、自由も人格が関係していて自由の中にあるあらゆる矛盾を受容できてこそ自由という無限の選択肢の中に生きられるようになると思います。自分を変えるということも、柔軟性ということも、全てはこの矛盾に対する実力のことを言っているように思います。

人は膨大な知識を得ては想像を膨らませますが、同時にその一つ一つの知識を実体験によって消化していくという矛盾に生きています。夢と現実、思想と実践、目に見える世界と目に見えない世界、それらを調和するのは自分なのでしょう。

最後にシュバイツァーの言葉で締めくくります。

An optimist is a person who sees a green light everywhere, while a pessimist sees only the red stoplight, the truly wise person is colorblind.

楽観主義者は、どこでも青信号を見る人のこと。悲観主義者とは、赤信号しか見えない人のこと。そして真の賢者は、色盲である。

「真の賢者は色盲である」。

これは面白い言葉で、読んだとき嬉しくなりました。刷り込みのない世界に生きた人たちと刷り込みを取り払っていきたいと思います。

いのちのむすび~生命の畏敬~

先日、アルベルト・シュバイツァーのことを深める機会がありました。「世界人類は皆兄弟である」という思想を持ち、平和活動だけではなくアフリカのランバレネで医療活動を通して自分の生き方を貫かれた人物です。

生き物を深く愛し、「生命の畏敬」という言葉を遺しています。

私のかんながらの道でも最も重要なテーマがこの「いのちのむすび」です。そもそも私たちは自然界が産んだ一つであるのだから、元来繋がって丸ごと一つになっているものです。ふと田畑に出ては、様々な虫たちや植物たち、動物たちの声を聴いていたらその田畑の中にある自分に気づくことがあります。

そんな時、生きている自分ではなく活かされている自分に気づくのです。その安心と安楽はとても言葉では表現できず、自分も皆と一つになっている仕合せを味わえる瞬間です。

その時、いのちは自他一体に結ばれています。それぞれにどれも必要であり、要らないものは一つもないということは自然を観れば明白です。しかし人間が価値を定め、その価値基準によって上下軽重など仕分けて権力を握っている世界ではどうしてもその考え方から離れてしまうのかもしれません。八百万の神々とあるように私たち日本人は大和という考え方が基本にあります。その基本があるから、いのちを尊び、いのちの有難さ、いのちの御蔭様に見守られている感覚を失わないのです。

そのことをシュバイツァーは「わたしたちは、生きようとする生命に囲まれた、生きようとする生命である。」という言葉で語り掛けます。つまり同じく一緒、私たちはいのちそのものなのだという言葉に強い信念を感じます。

そして私が何よりも感銘を受けたシュバイツァーの詩があります。

「自分にどんな価値があるのかが問題ではない。
生命そのものが神聖なのである。

虫が灯りに集まり、羽を焦がして落ちるのを見るよりは
むしろ窓をしめきって我慢する。
雨上がりの地面にはうミミズを見れば、
太陽が照り輝く前に、湿地にもどればいいと気づかってやる。

これを人は、感傷と呼ぶかもしれない。
しかし、私は恐れない。

認められるまでは、嘲笑される。
これは真理の常である。

私が「生命」というものの真の意味を見つけた土地、ランバレネ。
人は誰でも自分のランバレネを持つことができる。」

窓の外をみれば青空と光り輝く朝露の中で、鳥が歌い、花が咲きます。その一つ一つのいのちと同じように、今の私も愉しくしわあせに生きています。自然に身を置くというのは、いのちを大切にするということ、思いやりを何よりも優先しようとすること、それは役割を与えてくださっていることに自然に感謝できるからかもしれません。

最後に、自分探しや自分を見つけようと焦っている人をみますがその心配はないことをシュバイツァーの言葉で伝えます。

「人の本当の価値というのはその人自身から見出す事はできない。それは周囲の人々の表情や雰囲気の中にありありと浮かびあがってくるものだ。」

どう生きたらいいか。

この魂の自問自答は、謙虚さの中で育まれ、自然の答えに生きることでつながるのかもしれません。偉大な先人に習い、修養を続けてさせていただきたいと思います。

 

 

人財教育の王道

人間は理想と現実の間に今を設け、今を見つめ向き合うことではじめて今に存在することができるように思います。妄想ばかりをいくら増やしても、現実は変わらないのですから実行していくしかありません。

昨日、鹿児島に入り維新館を見学する機会がありました。ここ薩摩は、古より教育を何よりも重んじる風土があるような気がします、昔から「島津にバカ殿なし」と呼ばれるようにここには郷中教育をはじめ様々な人財育成の仕組みが文化として継承されているように思えるからです。

その郷中教育の中で、日新公いろは歌というものがあります。これは物心つく前から毎日唱和しからだに沁みこませてきた歌です。そこのはじまりの「い」にはこうあります。

「いにしえの道を聞きても唱えても わか行いにせすは甲斐なし」

(古来から言われてきたどんなに素晴らしい道を聞いても語っていても、自分で実践して行わなければ何にもなりません)という意味です。

そして「ろ」にはこうあります。

「楼の上もはにふの小屋も住人の こころにこそはたかき賤しき」

(どんなに立派な御殿に住んでいる人も粗末な小屋に住んでいる人もそのことだけでは人間の価値は判断できない。要は住んでいる人の心の気高さが重要なのだ)とあります。

今回は「は」までご紹介しますが、そこにはこうあります。

「はかなくも明日の命を頼むかなけふもけふもと学ひをはせて」

(人間明日のことは予測がつかない。勉学修行を明日にしようと引き延ばし、もし明日自分が死んだらどうするのか。今その時その時に全力投球せよ。)と。

この「いろは」だけでもこの言霊の濃さと重さです。これは島津中興の祖である島津忠良が5年の歳月をかけて郷中教育の基本として定めたものです。この出発点であり原点が今の薩摩の人財をいまだに育てているのではないかと思います。

なんだか今回のご縁に何をすべきであるかを直感するものがありました。出発点や原点を思うとき、今までのものを毀す勇気が今にこそ必要のように思えます。そんな時は「今」を奮い立たせる勇気のある詩に励まされるのも人間のように思います。

最後に京都大徳寺大仙院の尾関宗園さんの詩を紹介して終わります。

「今こそ出発点」

人生とは毎日が訓練である
わたくし自身の訓練の場である
失敗もできる訓練の場である
生きているを喜ぶ訓練の場である
今この幸せを喜ぶことなく
いつどこで幸せになれるか
この喜びをもとに全力で進めよう
わたくし自身の将来は
今この瞬間ここにある
今ここで頑張らずにいつ頑張る

普遍的な道の上にこそ人財教育の王道があると確信できました。

ありがとうございます。

実践躬行~至誠~

吉田松陰の座右に至誠があります。この至誠は、孟子の「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」という言葉から来ています。この至誠とは、読んで字の如く、「言うを成す」から出来ている字です。

つまりは言行一致のことです。誠というのは、自分の言ったことを実行することを意味します。先週の大河ドラマ花燃ゆの中で、吉田松陰が久坂玄瑞に対して「あなたの情熱は素晴らしい、あと実行さえできればあなたは必ず志を実現できる」と励ましていました。

知行合一、常に分かるということは行うことで行うことが分かることであるという王陽明の一文を思い起こします。これはかつての人物たちが必ず実践した理です。

論語では、「子曰わく、弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば則ち以て文を学ぶ。」とあります。これを伊與田覚さんはこう訳しています。「先師が言われた。若者の修行の道は、家に在っては孝を尽くし、世に出ては、長上に従順であることが第一である。次いで言動を謹んで信義を守り、人々を愛し、高徳の人に親しんで、余力あれば詩書などを読むことだ」と。まず実行が先で余力があれば本を読むなどをすればいい、まずは至誠を盡しなさいといいます。

永平寺の道元禅師は、「修せざれば現れず」という教えを遺しています。ここには「曰く、「知る」ということと「わかる」ということとはちがうのです。知っていても実行されなければ、わかったことにはなりません。薬の効能書を読んだだけでは病気は治りません。禅も実行してはじめてわかることなのです」とあります。

常に実行を伴うことで語りそれを言葉にしていくような生き方をするように諭します。言い訳のない生き方というものの中に、覚悟を感じ、その覚悟こそが志を為す元であることを感じずにはおれません。

できないことを並べてもできるようにはならず、諦めそうなときは実践者の先人先輩たちが背中で励ましてくれます。

その覚悟の激励のやり取りも論語の中に遺っています。『冉求曰く、子の道を説ばざるに非ず、力足らざればなり。子曰く、力足らざる者は、中道にして廃す。今、女は画れり』。

これを意訳すると(冉求が言いました。「私は先生の言っていることを有難く思わないのではありません。しかし今の私の実力や力量が不足しているのです」と。それに対して孔子は言います。「もしも本当に実力や力量が足らないのならば、途中で投げ出しているはずだ。今、お前は自分で見切りをつけているのだ」)と。

冉求は、心を入替えて自分から先に見切りをつけるのをやめ、真摯に実践躬行に取り組みその後にある国の宰相のように大きく用いられました。この冉求は孔子十哲の一人と称されていますが、消極的な性格だったので常に孔子から「聞くままに斯れこれを行え」(すぐに実行しなさい)と叱咤激励され続けたと言います。

どんな時代も、頭でっかちにならないように真心の汗をかきなさいという教えに救われる気がします。他人にはそれぞれの特性はありますが、躊躇うことは誰にでもあります。見守りの中で信念を育て、信念の根をはっていけるように実践させていただけることに感謝して歩んでいこうと思います。

 

個性~人格形成~

人はそれぞれ生き方があり、個性も異なりますから、その顕し方も人それぞれです。しかしその個性は比較する中で出てくるものではなく、その個性は人格が磨かれてくる中で顕れてくるものです。なぜなら本当の個性というものは、そのものが何よりもそのものとして在るときにはじめて出るからです。

よく誰かと比較して個性があるやないとかいいますが、実際は組織や集団に入る中でその人の個性は引き出されてくるものです。一人では個性とは言わないように、集団の中で個性は出ます。その時の個性は、集団の中でのその人の役割のようなものです。しかし本来の個性は、その人が思いやりや真心で全体のために自分を活かした時こそはじめて発揮されているように思います。

そしてそのためには人格を磨き人物となっていなければ個性を修めることができないのです。周りに合わせるのではなく、自分を修めるという発想が個性を存分に発揮するには必要のように思えるからです。

論語に十五にして学を志、三十にして立つ、四十にして惑わずとありますが、少年期は志を立て、青年期には自分を試しあらゆる挑戦をし、中年期には自力を発揮するようにそれぞれがそれぞれの年輪で自らを磨き修めることが世の中で自分を発揮していく道だと述べているかのように思います。

今の自分がみんなのためにできることを発展させてそれを広げ膨らませていくことで本当の自分自身に出会うということでしょう。そして同時にそれは自らの人格を育てて自分をつくり上げていくということです。

東井義雄さんに『自分は自分の主人公』という詩があります。

「自分は 自分の 主人公
世界でただ一人の自分を
光いっぱいの自分にしていく 責任者
少々つらいことがあったからといって
ヤケなんか おこすまい
ヤケをおこして 自分で自分をダメにするなんて
こんなにバカげたことってないからな
つらくたってがんばろう
つらさをのりこえる
強い自分を 創っていこう
自分は 自分を創る責任者なんだからな。」

自分は自分の主人公、世界でただ一人の自分を創っていく責任者という言葉は、個性とは自らで磨き上げていくものであるということを伝えてきます。自分に打ち克つというのは、誰かに打ち勝つよりも難しいことです。常に自分との調和融合を実現し、平常心を身に着けることで人は自分らしく自然体でいれるようになるのかもしれません。

畢竟、個性を大切にするというのは、人格を尊重するということです。自他一体に人格形成を優先して大事にしていきたいと思います。

心の在り処

人生はゆっくりでいいと言いつつも、この世の中のスピードは目まぐるしく変化していきます。周りを見ては比較をし、遠くをみては不満ばかりを募らせ焦ることも多々あります。

人間は自分の思い通りでなければ不安を感じるものですし、執着がありますから様々なストレスがかかってくるものです。しかし論語の「速やかならんを欲するなかれ、 小利を見るなかれ。 速やかならんを欲すればすなわち達せず、 小利を見ればすなわち大事成らず。」にあるように、なんでも急ぎ、自らの我欲を満たそうとすればそもそもの初心や原点を忘れてしまうものです。

如何にそうならないようにするには、一つ一つの実践を踏み締めていくことでしょうがもう一つ別の心境もあるように思います。

先日、ある場所で下記のような詩に出会いました。作者はちょっと難しい名前で○石と書かれていましたがこの○のところの漢字がどうしても読めませんでした。その詩に、今を生きることの大切さ、焦ることの愚かさ、現実の只中で生きていくことの真価を学んだような気がしましたので紹介します。

「足元ばかり見てたら 行く先がわからなくなった。
遠くの夢ばかり見ていたら 足元の石ころにつまずく。
だから休みながら のんびりのんびり
遠くを見たり 近くを見たり
ゆっくりゆっくり 今を楽しみながら。
あしたもきっと しあわせないちにち。」

焦る気持ちが今との直視を避けるものです。心が着いてきていない日々はまるで迷いと不安で心落ち着かない状態になっていることになります。そんなときは、一度立ち止まり何度も内省し、大事なことを思い出し、今の有難さや御蔭様に気づくことのように感じます。

人間、畢竟、天を敬い足るを知ることで心の本来の在り処に気づけるのかもしれません。まだまだ物来順応の境地には程遠いですが、見守りに逆らわずに子ども第一義の道草を味わい尽くしていきたいと思います。

 

ゼロベース~体内時計~

今の世の中のことを知ろうとするとき一つは知識を増やすことによって得られ、もう一つは知覚を澄ますことで得られるように思います。そのどちらも自分という刷り込みを破るためです。今の私たちは自然の叡智に触れて自然の叡智を可視化して自分たちのものにするために知識を得ましたが、同時に自然の叡智の切り取った一部しか視なくなったとも言えます。

様々な叡智を可視化し分けてしまうことで分かれてしまったのは叡智そのものの自然から離れた人間の方かもしれません。そもそも分けてしまっているのですから、一度全ての知識を御破算にして無分別智のところ、つまりゼロベースにしてみないとこの世の基本ともいえる自然を丸ごと理解することはできないように思います。

このゼロベースというのは、例えれば動物の体内時計で自然を理解するのに似ているように思います。ニワトリや猫、犬、その他すべての動物たちは自分たちの体内に時間を持っています。朝になれば朝を知り、春になれば春を知る、新しい仲間も、古い仲間も、生死のめぐりでさえ、体内時計に従います。その彼らの時間は、まるで宇宙のように悠久と矛盾が絶妙に調和して無のようです。

よくよく観察していると、彼らには時間もなく今があるだけです。この今という時間の中には、妄想もなくそのままの宇宙があるように思います。そういう流れて流れない時間の中で、永遠を感じることができるからこそ、その魂をいつも全うすることができるように思います。

魂への刷り込みは、この世の美しさも奪い、この世の真心も穢すように思います。私たちは新しいものばかりを詰め込みますが、本来の古代からの古いものも同時に詰め込めばいいものを古いものは価値のないもののように切り捨てていきます。ここに人間文明の深い問題があるような気がしてなりません。

魂は温故知新することで、あの宇宙の星々のようにいつまでも光り輝くように思います。

英国の詩人、ウィリアムブレイクの「無知の告知」の冒頭に有名な詩があります。

「To see a World in a Grain of Sand  一粒の砂に世界を見、
And a Heaven in a wild Flower  一輪の野の花に天国を見る
Hold Infinity in the palm of your hand  手のひらに無限をつかみ、
And Eternity in an hour  一瞬のうちに永遠をとらえる 」

私の意訳ですが、一粒の砂は土の姿であり、一輪の野生の花は自然のいのちです。その手には悠久が顕れ、時を遡り時は超越されるという意味なのかもしれません。

ゼロベースで感じるご縁とつながりの中で、魂は存在するのかもしれません。詩には不思議な力がありますが、その詩を学ぶとき、詩の中で伝えようとする真実が観えてきます。

詩こそ体内時計のゼロベースで詠う自然の声色なのかもしれません。あの動物たちや植物たち、虫や魚、あらゆる自然界の歌声に詩を感じます。詩を学び、自らゼロベースでいることから自然を取り戻していきたいと思います。

 

からだ~自然の智慧~

先日、地元だけではなく全国で名医と慕われる医師に身体についての話をお伺いすることができました。その方は、知識で身体を学ぶのではなく身体から身体を学ぶというように、身体の反応をよく観察しその反応から原因の根を探し出すというような感じです。

先生の言い方では、雨漏りがあればどこが雨漏りなのかを探せばいいという感じです。身体のことを会社経営をたとえに説明してくださり、経営改善と体質改善が同じであること、体温を如何に下げないで血流を整えること、またもっとも集まっている場所(内臓)のところの環境を温かくすることなどを教えていただきました。

特に目から鱗が落ちる話は、身体の痛みが回復そのものであるたとえです。今の医療はすぐにどこかが痛いや何かのストレスがあるとすぐに薬を出していますが、それでは対処療法にしかならないという話です。

膝を曲げれば足が痺れてきます、それは血流が滞ってきているからです。そして膝を伸ばせば痺れがとれて血流が順調にめぐりはじめます。その時、足はジンジンしてきます。そのジンジン痛いというのは、血流が流れはじめて回復しているということです。他にも熱が出たり、怪我したときの苦しみは痛みは、すべて治癒している証拠であると話がありました。

今では病院に行くときは薬をもらいにいっているようなものですが、その都度、苦しみや痛みを悪者のようにして薬を処方していたら直るものも治りません。本来、治癒の本質は苦しみや痛みを伴うように私も思います。

人間が成長し発達するとき、そこに大きなストレスがかかります。あらゆる感情や妄想が頭をもたげてきます、しかしそのもたげたストレスをどのように善いものに転換できるかで私たちは治癒を働かせていくように思います。

ストレスといえばすぐに良い悪いと区別しては、コントロール不能に感情に呑まれていますが、本来は善いも悪いもなく、そのものを生長の糧にしていけばいいのでしょう。

しかし今の社会の在り方がストレス社会になっていますから、気が付けば刷り込まれてありとあらゆる病気を引き起こしているように思います。それは知識が氾濫しルールばかりが増えて、速度超過、多忙を極めた不安と心配で緊張して、人とのつながりが薄く金権主義的な世の中になっているからです。言い換えれば、不自然な世の中にいるからストレスが悪いものになっているのです。

どのようにストレスと向き合っていけばいいか、そこには考えずに行動したり、悩む前に実践をしたり、優柔不断になる前に覚悟を決めたりといった方法でストレスを善いものへと転じていくしかありません。

そもそも上手くいかないから上手くなりたいと願うものですし、できないからできるようになりたいと思います。さらに優しくなれないから優しくなりたいと思い、人の役に立てないから役に立ちたいと願うのです。すべては表裏一体に自分の心の赴く方を示しているのが感情です。

その感情に素直になるためにも、今此処、一瞬一瞬を大事に味わいつつ内省し人事を盡して信じたことを天にお任せしていくことしかないように思えます。そしてそれがストレスを福に転じるコツかもしれません。

転じるというのは、めぐりを善くすることです。

川が海に流れてそれが雲になり雨になって川になる。変化に柔軟であることが、自然であり、その自然をお手本に身体を労わることが自然治癒を学ぶ基本なのかもしれません。

自分自身のからだから自然の智慧を学び直していきたいと思います。

結び~真心の共感~

人の心に共感する仕事というのは、人の心に寄り添う仕事です。数々の現場でいつも感じるのは自分の真心がどこまで相手と一体になっているか、自分のことに思えているかという自問自答でした。欧米ではカウンセリングという言葉もありますが、それでは何か足りないとずっと感じていました。

なぜかといえば、相手と自分が分かれているなかでいくら相手に近づいてでもそれ以上は近づけないという場所があります。それは自分が相手と同じにはなっていない、どこか分けてしまう場所があるからです。相手の心に寄り添うというのは、ありとあらゆる感情に一緒に向き合うのですから単に知識や頭でできることではなくまさに全感覚を研ぎ澄ませていくものです。

それに自分がどんな状況でも望みを捨てず信じているからこそ、相手はその自分によって哀しみや苦しみが癒されていくのです。不安や心配の中で真摯に耐え忍び乗り越えようと人がするとき、そこに希望を探します。その希望を見出し守るのが本来の共感ではないかと私は思います。自分がどれだけ相手の絶望に寄り添いながらも自分が希望を捨てないか、それがどれだけ厳しいことかといつも感じるからです。

聴福人、一円観を実践する中に、傾聴、受容、共感、感謝があります。その中のすべてはある一点に向かいます。それは日本文化の真髄でもあるし、かんながらの道の達する境地でもある「結び」の一点です。

心がよそにいかず、心をうしなわず、いつも心がそばにいるという境地は、「分けない」ことではじめて可能です。どんなに忙しくてもどんなに状況が変化があっても、心はいつも結ばれたままであるという安心を与えることです。そしてその結びのご縁というものも、「この人と私は強い結び合いがある」と互いに信じることで希望の糸は織られ紡がれていくからです。

この結びという真心は、目には観えませんが私たちの精神の支柱になっているのではないかと私は思います。かつて、私の祖母や私が尊敬する方々は皆、この結びによる真心の共感を私にも発揮してくださいました。

そのことで矛盾する様々な感情を全て丸ごと受容でき、御蔭様の実態を見出し、全て感謝に昇華していきました。この考え方は、これからの世界を変える可能性を秘めた私たちが尊ぶ「和の心」と密接につながります。

一円観の境地は、数々の実践現場でのみ磨かれるものですから心を離さず、心を寄り添い、心を分かち合い、心を結び合い、心と心の共感によって得られます。

単なる思想ではなく、如何に現場で技術として活かせるかが何よりも大事です。現実を変えなければ世の中も変わっていかないからです。聴福人を育て、子どもたちの未来を一緒に創造していきたいと思います。

自分の答えに生き切る~自分らしく~

幼いころから、周りのありとあらゆる正解というものを与えられて私たちは育ってきます。大人と呼ばれる人たちから大人になれと様々な正解を教え込まれてきます。そうちに楽を覚えて何かを知ろうとすればすぐに正解を探してはその正解という常識の中で誰かの答えに合わせるのです。知識で自分の人生が変わるはずはないのに、知識でまるで人生が変わったかのように錯覚してしまうほどです。

自分の人生を思うとき、答えは自分の中にしかなく、尊く生きた実体験の中で自分の答えを出していくしかありません。しかし実際は、刷り込みから誰かの答えが先にあるから自分で答えなくてもいいと勘違いしている人も多いように思います。

一度答えを刷り込まれて考えることをやめてしまったら、自分の答えを放棄してしまうことにもなります。誰かが言ったからや前例にないからや、きっとやっても無駄だからと思うのは自分の答えに生きることをやめているのです。

人生はその人その人に個性がありますから、誰かと同じようにはならないものです。その人の姿かたちが微妙に他の人と異なっているように、自分の人生もまた同時に千差万別に異なるのです。だからこそその答えもまた異なります。

如何に自分の答えに生きていくかは、自分のままでいるということです。評価の中でねつ造した自分ではなく、誰かに言われたからそう思い込んでしまった自分ではなく、刷り込まれる前の子どものままに自分で手さぐりで答えを感じ取っていく好奇心全開の自分の中で出た正解に生きるということです。

人がどういおうがもしも人生を最期まで自分らしく生き切ったならその人の人生は偉大な幸福であったと言えるように思います。最期には、「あの人は遣り切ったね」と言われたらきっと「自分の答えを出したんだね」というように憧れられるように思います。

人生は産まれてきたときから、その人にしかない物語、その人にしかない個性、その人にしかないご縁があるように思いますからその人らしくあってほしいと願うのは人類の目指す理想かもしれません。

心の原風景の中に、自分の答えに生き切った人がいることは絶対的な安心感です。子どもたちのためにも、憧れを大事に生きるミスターチルドレン(子どものままの大人)の一人になれるよう足るを知りつつ歩み続けたいと思います。