後の先~正直に向き合う~

先日、ある食事会で向き合い方についての議論がありました。それは向き合う姿勢そのものについて向き合うという話です。人は向き合うことで自分を知りますが、同時にどのように向き合うかでそれまでの自分ではなくはじめて本当の自分に出会うとも言えます。

人生は自分の身に起きる出来事に対して、自分自身が都合で歪めずどれだけ素直に選ばずに現実を受け止めていくかというのが人生の修業のように思えます。自分の実力を知り、自分を育てていくのも、素直さがなければ難しいように思います。

例えば人生に起きる出来事は全て必然だと受け止めることができるなら、その後に「選ばない」という覚悟が生じるからです。そして選ばないと決めるなら、自分には合っているとか合っていないとか迷うのではなくそのままそれはもっとも今の自分に相応しいと正直に受け容れられるのです。そうしたとき、はじめて今の自分の本当の役割や天から与えられている使命に気づくことができるようにも私は思います。

横綱白鵬の話に「後の先」という話があります。これは相撲では相手より一瞬あとに立ちながらあたり合ったあとには先をとっている相撲の立ち合い方です。これは言い換えれば全て受け止めて打ち克つという戦法のことです。

その横綱の白鵬の日経新聞のインタビュー「基本はぶつかり稽古」と題する中でこう書かれていました。『全身砂にまみれ、土俵に倒れ込んで動けなくなる。兄弟子の竹刀が飛んできても、反応する力さえ残っていない。口に塩を突っ込まれる。最後にバケツの水がザブン。これを荒稽古というのだろう。「1日3回泣いてた。ほぼ毎日ですね。稽古場で2回、夜寝る前に1回。稽古が苦しい時、泣いて。終わった後先輩にお前のためだからって慰められて泣く。夜は、明日また稽古始まるんだっていうね。自然と涙が出てくるわけ。ふとんでね。でも当時やってたことが、今生きてるわけね」』とあります。

今でも白鵬はこのもっとも苦しい基本のぶつかり稽古を欠かすことはないと言います。

後の先の本質とは、この基本の向き合うという素直な姿勢をどこまで徹底するかが重要なのではないかと私には感じます。現場というのは相撲の土俵のようなもので、常に真剣勝負です。その人生においての現場の場数をどれだけ逃げずに真摯に素直に謙虚に向き合うかというのは、自分の心がけを見つめれば向き合うことができます。

どの状況であっても真心を籠めることも、命懸けでやりきることも、それは常に人生の稽古である信じているからです。年齢は関係ないといくらいってもまだ若干29歳の白鵬の土俵での立ち合い方から私たちは日本人としての大切な心「正直さ」を学び直すことができます。

どんな相手であったとしても、どんな場面であったとしても、どんな機会であったとしても、自分自身が素直に謙虚に向き合って真摯に正直に実践し自らを磨くことが理想を追求するという姿勢と心がけなのかもしれません。

やっていることは異なっていても、目指すその姿から勇気をいただけることが沢山あります。同じ時代でそれぞれの分野で生き方のモデルがいることは、道を歩む仲間がたくさんいる有難さです。未熟さを痛感することばかりですが、修行できる有難さに感謝し、日々の土俵に対して選ばずに基本を崩さずに精進していきたいと思います。

 

一円対和~認め合う社會~

人は物事を対立で考えるときに、様々な問題が出てくるものです。そもそも一つであったものを二つに分け、それを対立させるのはお互いを認め合わないからです。本来、ニワトリが先かタマゴが先かというだけで、同質のものの先をどちらにしようかという話であることがほとんどです。

なぜそうなってしまうのかといえば、そこに対立思想があるからのように思います。自分とあなた、これとあれ、善か悪か、正しいか間違いかなど違いを分けてお互いに要求していけばその先には紛争や戦争が待っているかもしれません。

だからこそお互いに対話によって近づいていこうとするアプローチを世界中の様々な教育現場では試行錯誤されているのです。私たちの会社には一円対和というものがあり、二つ以上の分かれたものを一つに融合するというマネージメントを持っています。

本来、違うと思っているものも皆で持ち味を活かしあえば大和になるという思想と実践です。これは、お互いが違うからこそお互いを活かしあえば偉大な力になるということです。そのためには対立から対和へと舵を切ることと、その中でお互いが認め合うことで和合するという一円観を磨くことです。認めてもらおうとばかり思うのは自分を特別視するからですし、相手に自分を認めさせたいからです。

それぞれが違うというのは、それぞれに与えられてる才能や使命があるということです。言い換えれば「協力できる」「助け合える」「一緒にできる」ということです。お互いに一つの目的のためにその力を活かしあえばどの組織でも、衆智を集め、一家団欒の平和な社會が顕れてくるように思います。そしてこれが和合です。

この和合という考え方は、私たち日本を代表する文化の一つです。

対立し比較されまたは個性が認めてもらえずに心が傷ついている人たちはたくさんいます。その人たちが少しでも自分の持ち味に気づき、その個性を共に活かしあい認め合う世の中にしていくために、日々の実践を強く厚くしていきたいと思います。

人生の物語~個性~

人は物事を考えるときに、無理やりに二つに分けて理解しようとするものです。これは善か悪か、正しいか間違いか、できるかできないかなども極端に考えてしまうものもあります。

私が好きな心理学者に河合隼雄さんがいます。発達障がいの勉強をする際に、その著書や対談テープを随分参考にしましたが実際は人生というものとどう向き合っていけばいいかという指南書のようなものがほとんどでした。

その中で分けるということについて書かれている文章があるので紹介します。これは、小川洋子さんとの対談の中からの抜粋です。

「河合:分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。
小川:数学を使うと非常によくわかりますね。
河合:お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂と言うと。善と悪とかもそうです。だから、魂の観点からものを見るというのは、そういう区別を全部、一遍、ご破算にしてみることなんです。障害のある人とない人、男と女、そういう区別を全部消してみる。」『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮社)

人間は、分類の中でしか人間は認識しないものです。私たちの会社も分類分けの中には入っておらず、無理やり分類分けされていますがわからない人には変な会社と呼ばれています。

結局は分類の中で人は物事を自分の都合で分けては認識していますが、実際の世の中は分類分けできない複雑で矛盾なものであるのです。中庸や中心などというものもそうですが、そのままに観得る状態であってはじめてその意味を感得できるように思います。

物事にはわからない部分があるからこそそこに物語があるように思います。わかりきった人生を生きるのではなく、分からない部分を愉しむ心の余裕やゆとりがあるからこそ目には見えない部分が実感できるようにも思います。

頭ばかりよくなり現実を自分の思い通りにしようと我を強くしていけば、次第に思い通りではない愉しいことも感じる力がなくなってくるように思います。分けないというのは、頭でわからないところを直感するということです。

物事を直感するとき、そこに偉大な物語があることに気づきます。二分法ではなく、直感法で理解するには体験による気づきと内省、振り返りを優先する生き方に換えていくことかもしれません。

最後に、河合隼雄さんの言葉です。

『物語の「主人公」は自分。人間は一人ひとり違うのですから、それぞれが自分の物語を作っていかなければなりません。』
・・・

『「せっかく生まれてきたこの世で、自分の人生をどのような物語に仕上げていこうか」という生き方の方が幸せなんです。』
・・・

『僕の言い方だとそれが「個性」です。「その矛盾を私はこう生きました」というところに、個性が光るんじゃないかと思っているんです。』

たった一つのたった一人の自分の物語が人生です。その人生の物語を面白く愉快にしていくのも自分自身です。マジメに考えることも大事ですが、マジメの中に遊びがなければ物語に気づけなくなります。

今のような時代だからこそ、敢えてふざけて生きてみたいと思います。子ども達にも遊びの中でその人らしい物語を生きれるように、自分自身がチャレンジしていきたいと思います。

 

 

 

 

正解探しの愚~コーティング~

人は刷り込まれ正解を教え込まれてコーティングされてしまうと、正解以上のことを考えなくなってしまうものです。世の中には、理というものがありますから知識を学び、その理を知れば、世の中を分かった気になれるものです。

以前、ある人が大学生の時に「自分はもう世の中の理を大体分かってしまった」という話を聞いたことがありますがこれも理論的な理屈を知って教科書を通して正解はもう大方分かったという意味なのでしょう。しかし実際は、理屈が分かって正解を知ったからとそれでうまくいくことはありません。自分の中の正解探しばかりしていても実際の世の中は正解を超えているものばかりですからすぐに通用しない事実に出会うからです。その人もその後は実際の理屈と違う現実とのギャップに大変もがき苦しんだそうです。

これは誰かが敷いたレールのように、筋道というものがいくらあっていると思っていてもそんな正論では人は動きません。人は思いによって動くものですから、正解がどれだけ合っているかよりもその思いがどうであるかを優先するのです。そこには心があるからです、そして心は目には見える正解や理屈以上の真実を捉える力があるように思います。

現実には、「思いやり」や「真心」というものがあります。

例えば、病気の治療や看護であっても正解通りやったから治ったわけではありません。そこに医者や看護婦や周りの思いやりがあってその人の自然治癒が働いて見守りによって回復します。他にも田畑の作物であっても、正しく育てたから育ったかというと、太陽の光や水、その他の風や土の微生物にいたるまで、真心を籠めて見守ったからそれが何かのハタラキを引き出し無事に作物が育ったのかもしれません。

つまりはあらゆる事象は、自分の頭で考えた正解の中にあるのではなく、それ以外の何か偉大な力によって実現している可能性があると思うことがあって正解以上のことを知るのです。先に知識がなかった時代がなぜ続いたかを考えればすぐに自明することです。赤ちゃんが知識がなくても自然に周囲を暖かくするのは、知識が先ではないことを証明しています。

正解ばかりを教え込まれて刷り込まれた人たちは、正解上の答えを探そうとはしなくなります。無関心になり、正解を超えた体験を積み重ねることが次第になくなっていくようにも思います。

本来は、正解通りにいくはずもなく、無理やり頭で正解のように仕立てて真実をねつ造しているだけで実際は正解などはないのです。正解探しの愚をおかしてしまえば、正解以上の真実は遠くなるばかりです。そうならないように一瞬一瞬のすべてを誰かのためにと真心で遣りきっていたり、誠実に思いやりを盡したり、全身全霊で思いを籠めて行動したりしたあとに、はじめて正解を超えるご縁の導き(真理)にも出会うように思います。

人は答えを知っているからすごいのではなく、答えを知らないからすごいという学問があるのです。詰め込まれコーティングされるのではなく、引き出され磨かれていく原石という考え方があることで人は自分自身の中に信や希望を持て努力の価値を再認識できるように思います。

刷り込みを取り払うのは、日々の内省で自分と向き合うことのように思います。一つ向き合えば相手のためになり、一つ受け容れれば相手が一つ変わります。正解をしってその正解を押し付けるよりも、自分の中の思いを高めてその思いを受け止めて思いを遣りきることだと思います。

刷り込みを取り払うには子ども達の姿から学び直すことです。一生は、出会いの連続ですから磨く機会を大切に思いやりを優先していきたいと思います。

運~心をいれかえる心がけ~

先日、幸運について考える機会がありました。人生には運が善いと言われる人たちがいます。なぜ運がいいのかと観察すれば、その人たちが運が善くなるような努力を続けていることに気づきます。

運が産まれながらいいというのは、その人の運が善くなるようなセンスを先祖たちが持たせてくださったとも言えます。無意識下で、本能が何を努力していけば運が善くなるのかを自覚しているということです。しかしその天性の運があったとしても、その後にその努力を怠ってしまえば運のセンスもまた減退してしまうように思います。

他にも運はご縁の中で導かれていくものです、善い人たちと出会い続けることができる人は幸運だとも言えます。それも自らが運が善くなるような生き方をしているから、そういう人と出会うとも言えます。

さらに自分の思ってもみなかった運に廻り合い、その運を伸ばしていくのも努力です。どうにもならないことをくよくよするよりも、自分のさせていただけることに感謝してできることを精進している人はいつも周りの力を借りて物事を成就していきます。

つまりは運とは一体何かということです。

私は思うに運とは「心がけ」のことではないかと思うのです。そして運を左右するのは「心をいれかえる」ことではないかと思うのです。

その人がどのような心がけをしているか、運の善い人は運の善い心がけをしているし、運が善くない人はやはりそういう心がけをしています。運がいい心がけの人に私淑し、その人の心がけを真似び、それを実践していくことで運は開けていく話はあちこちで耳にします。そうであれば、運とは心をいれかえることでいくらでも善くなっていく可能性があるということを示しているのです。

「心をいれかえる」というのは、変わる決心をすることからはじまります。

今までの生き方や習慣、考え方や行動、心の姿勢や態度を深く反省し、その心を別の心に変えていこうと決心をし、別の習慣や生き方、考え方や実践、その心がけを見直し練り上げていくのです。

人は先天的に運が善い人ですら努力していますし、後天的に運が善くなった人も努力を欠かしません。いつも自分の心がけを善くしていこうと精進していくことこそ、目には観えない幸運に包まれていることに気づくセンスを磨くことかもしれません。

子ども達が知らず知らずに影響を受けて幸運の中で道を歩めるように、自分もその周囲にいて先人のモデルになる大人なのだから心の倖せを見つめつつ、周りと一緒に心がけを高める実践を増やし弘げていきたいと思います。

魂の傷~社會問題~

人は幼少期をはじめ、無意識のうちに心に傷をおっていることがあります。社會の中で自分がどのような環境の中でどのようなことを感じたかは、その人の心の中にあります。その心の傷は、見た目にはわかりませんがいつまでも痛む人ともう治っている人がいます。

例えば、怪我もそうですが古傷が痛むというように昔怪我したところが何かしらのことで傷んだりします。同じように、心の傷も古傷のように痛むことがあります。人は何かしらの怪我をしてはそれを乗り越えて強くなっていくのです。

傷ついて痛みが分かるということは、同じように傷ついた人の痛みが分かります。苦しみも喜びも楽しみも、人間には共感という与えられた天性がありますからその力によって互いに癒しあうところに人間の社會の根がはっていくようにも思います。

ただ、今の世の中を見渡して観ると心を傷つけるよりも魂が傷つけられているような気がしてなりません。自信を失い、自分の役割を実感できず、自分の居場所をなくしたり、昔でいうところの日本人の大切にしてきた美徳、正直、素直、謙虚、誠実、思いやり、真心、勇気といったことが社會の中で否定されることで魂が傷ついてきているようにも思うのです。

魂が傷つくという言い方は曖昧かもしれませんが私なりの言い方をすれば、それは子ども心が傷ついていくということです。

子どもの権利条約の根幹を提起したヤヌシュコルチャックは、大人は大きくなった子どもであると定義しました。身体が大きくなったから大人になったのではなく、みんな子どものままに大きくなっただけです。

それは産まれてから死ぬまでずっと同じく、子どもは子どもであるのです。

その子どもを、無理やりに大人(今の自分たちの境遇に同じに合わせさせよう)にしようとするところに魂の傷つきがあるように思うのです。その大人とは、社會の乱暴な側面ばかりを強めてそれに慣れさせていくかのようにです。

子どもの心を失うことは、心が傷つくだけではなく魂も傷つきます。どんな時でも子どものままでいいと見守ってくれる周囲があればその人は自信を持ち、魂を育てて健やかに逞しく生長していくように思います。

社會の中で傷つく人たちが増えているからこそ、その社會の一員として自分が何ができるかを考えないといけません。子どもの素直さをいつまでも失わないためにももっと大きな目で社會を見渡し、もっと深い心で社會を癒し、もっと篤い耳で社會の声を拾っていきたいと思います。

決して自分の問題ではなく、その人個人の問題ではない、人間における全ての問題は社會問題です。社業の中でさらなる徳の発明に精進し、社會をより善く直すためにも実践で弘めていきたいと思います。

魂磨き~人類の夢~

昨年に貝磨きの体験をしてから、貝をとても身近に感じるようになりました。貝というのは、古代人の夢であったように今では感じています。古代の人たちが貝を首飾りにし、土器の模様にしたのは、きっと貝が人間社會そのものを顕していたのではないかと私には思えます。

人生はまるで貝磨きのようなもので、人間は一つの社會を集団になって形成し、その社会の中で自らの本性をお互いに磨き合いつつ豊かで平和幸福に暮らしていきます。まるで一人一人がそれぞれにいのちの塊、その魂の原石であり、その魂を出会いによって互いに輝かせては大切な思い出という物語を宇宙の記憶の中に保存していくかのようです。

一人ひとりが自らで魂を磨いてきたからこそ、私たちは発展と繁栄を繰り返してきたように思います。その中で私たちは何度も何度も繰り返し繰り返し、まるで海の押しては引く波と同じように魂を磨き続けてきました。

貝の中に観る神性とは、「めぐりとひかり、いのち」の3つではないかと感じます。

磨き方は人ぞれぞれですが、みんなで一緒に磨こうとしたことは時を超越して今でも変わらず受け継がれています。

機会をいただけること、ご縁をいただけることが何よりも有難く、人生で一緒に出会えることに感謝の心に包まれました。

最期に、「人類の夢」という詩を紹介します。

「人は誰しもが何かしらの魂の原石です。
  だからこそ磨けばだれでもその人らしく光っていく。
 一人で磨くのではなくみんなで磨いていけば
必ずの世の中は澄んできて美しい世界になる。
 だからこそ一緒に磨こう、魂を磨いていくことは、
    子どもから私たちが学び直していくこと。
 子どもを人類の先生にして、私たちが学んでいくことこそ魂磨き。
     一緒に磨く仕合せ
を感じていこう。」(藍杜静海)

何が人類の初心であるか、それを出会い御縁をいただけた方々の道しるべになれるよう精進していきたいと思います。

 

出会いの哲学~物語~

今の時代、ありとあらゆるモノで溢れかえっています。一見、モノが溢れて豊かなようになっている気がしますが実際はモノが溢れて貧しくなっているようにも感じているものです。

全てのモノにはいのちがあると言います。

昔の日本人は、それを八百万の神々と呼び、この世の全てのモノには神性が宿っているという見方をすることができました。それを別の言霊にしてモッタイナイという言い方もしたのです。

ではその神性とは何かということです。

これはモノにはカタリがあるということです。漢字で書けば「物語」のことです。物が生きているからこそ語ってくるということです。これはモノが単なるいのちのないモノという定義ではなく、いのちが宿るモノだからこそモノが語るのです。

そのカタリとは、今までどのように辿ってきて出会ったかという奇跡の話です。そのモノが出来上がって自分の身の廻りにまでたどり着くまでどれだけの物事が発生してきたか、そしてどのような経過を経て今の目の前にまでやってきたのか、そういう一つ一つのご縁を感じるとき、そこには単なるモノではない神性が宿っていることに気づくのです。

足元に転がる石ころ一つでさえ、その石ころが目の前に現れるまで長い長い偉大な旅をして私たちの前にやってくるのです。あるいは、その辺に生えている草花でさえ悠久の年月のいのちの繰り返しを耐え抜いて進化し自分の目の前で咲くのです。

その辿りついた奇跡はまさに出会いのしあわせです。

出会いのしあわせを感じるとき、人はモノにいのちを観ます。

そのいのちの物語をどれだけしっかりと味わえるか、モノが溢れているから気づけないではなくモノが溢れていようがモノノアワレに気付いているということが大切なのです。

これだけ忙しい時代、そしてお金で物を簡単に売り買いし、大量生産大量消費で急速に工場生産をする昨今であってさえ、そのものがどのようにしてあなたの前にたどり着いたか、そこに確かないのちの物語が存在するように思います。

出会いというものは、廻り合いであり、その辿りついた奇跡を味わうチカラが不思議さの妙を味わう子ども心、「センスオブワンダー」でしょう。

常に物語を感じられるような一期一会のかんながらの道の生き方を、その出会いの哲学を日々に磨いていきたいと思います。

 

一緒に磨く

人間はいつの時代もあらゆる方法を用いてその人間の本性を磨いていくものです。あらゆる環境の中で、それぞれが懸命に生きてはお互いに切磋琢磨し、その精神や魂、心を磨いて往くものです。

磨くということは、人間そのものの本質に近づいていくことのようにも思うのです。

この磨くということにおいて、松下幸之助さんが54歳の時にPHPで語った話が遺っています。私はこの語りがとても気に入っていて、「一緒に磨く」ことの本質が入っているように思っています。

「人間には、自然からかぎりない繁栄、平和、幸福が与えられている。
それをたとえていうならばダイヤモンドみたいなものである。
ただの石をただ磨いてもダイヤモンドにはならない。
しかしそのダイヤモンドの原石でも磨かなければその美しい本質は現れてこない。
それと同じことで人間の優れた本質も磨くことなしには発揮されないわけである。
・・・
人間にはその本質として、繁栄、平和、幸福というものが原則的に与えられている。
その本質がだんだん出てくるだろう。
そうすると、みだりな闘争とか破壊とかそういうことが少なくなってくるだろう。
少なくなってくるだけ、一方で繁栄とか平和とか幸福とかが反比例して生まれてくると思う。

だから磨き上げてしまったら楽土ができる。
もっと磨き上げるまでに数千年、数万年、あるいはそれ以上かかるであろう。
しかしそういうことを信じてやることが大切だと思う。

それではだれが磨くのかというと、それはみんなで磨こう。
これは一人や二人で磨いてもなかなかうまくいかない。
みんなで寄って磨いていこうじゃないかというわけである。
そうすれば磨き方も、ある人はその磨き方よりこの磨き方のほうが早く磨けるという人もでてくるだろう。
つまり万人の智慧というか、いわゆる衆知を集めて磨こうではないかというのが行き方考え方なのである。」(松下幸之助発想の軌跡著者: PHP総合研究所より)

人間はダイヤモンドの原石であるといい、その原石も磨かなければ光らないといいます。その通りで、常に原石を磨き続けなければ悠久の歴史の中での地球上での自分たちの真の役割に気づけなくなるように私は思います。

人間はダイヤモンドの原石だからこそ、磨き続ける必要があるのです。そしてそれを誰かがやればいいのではなく、一緒に磨こうとするのが本来の人間に備わっている徳なのであろうと思うのです。

その徳が備わっているのが人間であるからこそ、その徳を磨いていくことで徳が光ってくるのです。

私たち日本人をはじめ、全ての人間の心の中には和があります。そしてその和の精神は、一緒に何かをする中で衆知を集めて顕現していくものです。左右東西前後の異なりを超越し、円満に一円観にありとあらゆるものを融合してさらに善いものへと転じていくのです。

それをどう耕し織りなし掘り起こすのかは、その人の「磨き」にかかっています。

自分が原石であることを忘れないように、常に磨き続けていきたいと思います。与えられているものに感謝して、素直に謙虚にありたいと思います。

 

死生観~執着と向き合う~

人は自分と向き合うということは何よりも大切なことです。誰といても他人は自分とは向き合ってはくれず、自分と向き合えるのは自分自身だけです。この向き合うというのは、簡単に言うと自分の本質から逃げないということですが向き合えないことでいつまでも現実から逃避してしまうことがあります。

自分と向き合うというのが、言い換えれば自分の道を歩むということですからよくよく内省し自分と対話をしていく中ではじめて一歩一歩前進していくように思います。

人は無意識に自分の願望や理想を持ち、憧れのようなものを抱くものです。ああなりたいやこうなりたいといった、自分の中に理想像を持ちます。しかし現実は甘くはなく、そのギャップを感じては今の自分から目を逸らそうとしてしまうものです。そうやって一度目を逸らしてしまうと、何度もループしいつまでもそこから離れることができなくなります。言い換えれば執らわれてしまうのです。

自分に執らわれるということは、自分と向き合わなくなるということです。そこを抜け出すためには、自分の心と真剣に向き合っていく必要があります。そして自分の中にある心と自問自答し、本質を見極めその都度決心をして本物になっていくしかありません。

人間はこんな自分ではないや、こんな自分はいやだや、こんな自分、自分と自分のことを思ってはその自分に執らわれています。自分が一体どうしたいのかを突き詰めるのではなく、なぜできないのかやどうしてできないのかばかりに執着するのです。

かつて自分と真剣に向き合うとき、死生観について考えたことがありました。かのアップルの創業者スティーブジョブズも、毎朝鏡を観ては、もし今日が人生の最期ならと向き合うことを怠りませんでした。

この死生観とは自分がどのように生きて、どのように死にたいかということです。自分の生き方、死に方と向き合ったとき、今、どうあるべきかも気づくのです。

人生は一度きりですから、本質と向き合わないでいたらあっという間に流されて終わってしまいます。だからこそ、初心を忘れずに自分の本質と向き合い磨き続けていかなければならないように私は思います。

同志というものや仲間というもの、道を共にし一緒に歩む戦友たちはみな自分と正対し自分と向き合っている人たちです。その人たちに恥じないように自分自身が常に向き合っているかは、何よりも志を貫徹するためには必要な実践です。

向き合わない向き合えない自分の執着そのものを直視することは、人生を正直に生き切る実践です。あらゆる自分の執着に気づき、受け容れて乗り越えることで得られる新たな境地は、他の人のお役に立つのですから引き続き自分自身と正対する精進を続けていきたいと思います。