思い通り?

人は焦りが不安を持つと信じる力が弱まってくるものです。信じるというのは、無条件ですが実際は知らず知らずに条件をつけては不信を増やしてしまうものです。それでは不信の元は何かということです。

そもそも人間は自分の思い通りにしたいと願っているものです。自分の思い通りであれば順調と思い、思い通りでなければ逆境だとも思ってしまいます。しかしこの思い通りにしたいという欲は、自分の中から出てくる我欲であるとも言えます。思い通りにいっていればいるほどに、上手くいっていると思うのは言い換えれば自分にとって良いことなのだからきっと信じていいのだと勘違いするのです。

しかし実際の出来事をよくよく観察すると、思い通りにいかないときの方が思った以上の出来事が起きていることが多々あるのが人生です。一見、その人にとっては都合が悪いことであっても周りや全体にとってはとても善いことが起きていたりします。自分の都合が悪くても、その分周りは倖せであったりもします。自分の思い通りであるほうが安心するのかもしれませんが、すぐに思い通りでなくなったらまた不安戻るではそれは信じているにはならないように思うのです。

では信じるとは何かということです。

それは思い通りではなくてもきっと善いことになると信じているという境地の体得ではないかと思います。つまりはきっと何かそこに大事な意味があると深めることができたり、本当は何かと本質を突き詰めたりすることで自分の思い通りという我欲を超えて思い通りでなくても自然にお任せするという謙虚な気持ちによって無条件の信にしていくことのように思います。

人生は自分の思った通りにはなりませんが、同時に思った以上の素晴らしいことが起きているものです。思い通りではないことは不足を感じますから時にはつらく苦しく長く何度も煩悶するときもあります。しかしその時こそその苦悩や辛抱こそその人を育て、我欲に打ち克つ強さを与えてもくれています。

これでいいのだと思える心境や、足るを知る境地に達するというのはみんなその自分自身との正対に向き合い乗り越えた人たちが得ているものです。自分自身との正対は常に自分を我欲を超越したところで素直に改善していく中で磨かれていくものだと思います。

思い通りではなくてもそこに偉大な御蔭様があることを忘れず、いつも目に見えないけれど確かにあるご縁を信じることは本当の意味で思い通りであるはずです。自らの感謝の心を育てて信を高め、有難い日々を清々しく歩むためにも心を澄ませて自分に挑戦していきたいと思います。

苦労の意味

人間は苦労することではじめて修身することができるように思います。

昔から「若いころの苦労は買ってでもせよ」という格言があります。よく今の時代で勘違いがあるのが、嫌なことをさせることを苦労だと思っている人がいます。しかし本来、嫌なことをすることと苦労することは同じではありません。

例えば、ある人が自分が若いころに嫌な思いをしたからと同じことをさせようとしたとします。それは苦労をしたのではなく、同じ嫌な体験をさせたということです。実際の苦労とは何か、それは自分と向き合って自分を変える、そしてそれが如何に苦しくても自分から逃げずに辛抱することを学ぶことです。

人間にそれがなぜ必要かといえば、その苦労によってはじめて耐え忍ぶことを体験できるからです。忍耐というのは、耐え忍びて克つというように自分に打ち克つ力を学ぶことであり、それができてはじめて信じるということの本質に近づけるように私には思います。

思い返してみても、自分の信は苦労をすることで育ってきたように思います。いくら頭でわかった気になったとしても、実際はわからないことだらけです。その都度、反省と内省を繰り返し、自分の分からないところを周囲の先生に指摘してもらう。そして自らを改善するという具合に分からない自分を自分で直していくのです。

人間はこのわからない自分がいるから苦労するわけであり、苦労はわかるようになるための大切なプロセスとも言えます。何が分かっていないのかが分かるというのは、素直になっているからです。素直という基本姿勢ができるまではいつまでも同じことを繰り返すばかりで改善もしようとはしないのかもしれません。「時間は有限、改善は無限」というのもそれだけ一生涯の中で素直になることは難しいということなのかもしれません。

人間は信じているから辛抱でき、忍耐力があるから希望を諦めないように思います。先に自分が諦めたり、先に自分が自分から逃げればそこにはそれ相応の未来が待っています。しかし自分が先に諦めなければ、石の上にも三年としっかりと辛抱していれば自分の想像しなかったような未来が待ち受けていたりするものです。

この忍耐力というのは自然の力です。

自然界の生き物たちが辛抱強く待つように、四季のめぐりの中で忍耐力を発揮するように、いのちは信の力によって執らわれず抗わずに自然そのものです。

自然の中で強く逞しく育つというのは、苦労し続けるということかもしれません。
逞しく育ってほしいという自然の祈りや思いやりが苦労の中に在る気がします。

時代が変わっても、子ども達には変わらない力をもってこの世の中を逞しく健やかに生き抜いてほしいと親なら皆願うものです。常に自分が分からないことを天が教えてくだいますからその教えを聴けるように真心の一日を過ごしていきたいと思います。

故郷~初心の拠所~

人には故郷があるように、人の心にも故郷があるように思います。

先日、ある学校方々と面談をする中で「子どもたちがまたいつか帰ってこれるような学校にしたい」という言葉を何度も聴きました。そこには、我が子のように思い子どもを見つめる暖かい眼差しも同時に実感しました。

子どもにとっては未来への一つの通過点であったにせよ、そこを起点にして人生が強くなったり人生が豊かになること、生きていく上での大切な節目になることを祈り学校は存在するのかもしれません。

そもそも故郷というのはその人の風土や心の初心であり原点です。

その原点に帰ろうと思えるのは、そこで暮らした善き思い出を頼りに世の中へ羽ばたいていこうとする心境でもあろうと思います。田舎から都会に出て、社會の中で自分らしく自分の役割を全うする。その中においては様々な困難や試練、あるいは倖せや奇跡にめぐり会うのでしょう。

そんな時、ふと今の自分があるのは何があったからだろうと立ち止まるとき原風景が顕れるのです。それを心の原風景といってもいいかもしれません。愉しかった思い出、幸せだった仲間や先生たちとの邂逅、その人を支えるのはその人が信じ合っている家族や仲間と暮らした物語です。

心の強さというのは肉体とは異なり、単に厳しくすれば強くなるものではありません。人からの思いやりや真心、朋との信頼、志を歩む方々の姿、そういうものを一緒に歩んだ経験が心を強くしていきます。

その機会をどれだけ沢山の用意できるか、此処に居ていい、此処が居場所であるという体験をその子どもがどれだけ実感できるかに由るように思うのです。

人生は旅路です。

旅は元々居た場所に戻って来るからこそ楽しいものです。その元々の場所こそが故郷ということでしょう。その人が人間として如何なる初心を持つか、それは周りの大人たちの生き方に習って学ぶように私は思います。

卒業は一つの旅路に出るその人を初心の拠所として見送るということです。

素晴らしい学び合いを通して心の原風景を育てていく志事に改めて感動しました。

最後に子どもたちに希望を与える志事に魯迅の故郷の一節で締めくくります。

「希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

その希望、その初心が忘れられないように真心でお手伝いさせていただきたいと思います。

優しさと強さ~心の在り様~

人は「優しい」というのは、人の気持ちが自分のことのように分かるということでもあります。相手のことを思いやるから優しくなれますし、優しいのはその人の倖せを深く願う真心から来ています。

しかし優しいというのは強さが要ります。ある格言に「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる価値がない」というものもあります。

一見矛盾しているようですが、優しさと強さがあってこそ真心を発揮することができるからです。優しいだけでも強いだけでもそれは本質的な優しさではないように思います。

思い返してみると、学校の思い出にいじめがあります。大なり小なりいじめはありますが、いじめられる子、いじめる子に分かれてはお互いを傷つけあっていきます。しかし、その中でも優しい子どもは自分がいじめる側につくくらいならと学校に行かなくなっていきます。

不登校になる子どもには優しい子どもが多いというのは、優しさゆえに自分を責めてしまうからです。子どもは最初からみんな優しい心を持っているように思います。いのちを慈しむ”かわいそう”と感じる慈心の事です。

学校では、強くなれ、やさしさだけでは社会では通用しないぞと色々な圧力を各方面からかけられましたが、実社會に出てみたら確かにそんな社会もありました。しかし現実に社會を創る側にまわってみると、実は真逆で真心でなければ本質的には通用しないことを自覚するのです。

表面上周りに合わせて社会に慣れるのと、社會を本気で変えていこうと生きるのではその生き方がまったく異なっていきます。子どもたちのためにと社會を善い方へと変えていこうと思ったら優しさというものは必要不可欠です。そして表面上ではなく本質的な優しさを発揮していくために真の強さを持たなければ子どもを守ることはできません。

つまりは、優しく強いというのは子どもの周りの大人たちに必要なモデルであり、優しいままでいいから強くあるようにと見守り育てていくことが大事なのではないかと思うのです。

弱いから強くしよう、優しいから厳しくしようとするのは真心からではないような気がします。弱く優しいからこそ守ってあげよう、そしてそういう人たちを守る社會を育てていこうとするのが思いやりだと私には思います。

社會はどこでできてくるか、それは子どもたちの創りあげたい社會が今の社會です。私たち今の大人が作った社會を無理やりに子どもに押し付けるのではなく、子どもが望んでいる社會をよく見つめ、どうやったらその社會が実現するかを考え直して見守り育てていくのが私たち大人の使命だと感じます。

人を傷つけるくらいなら自分が傷つけばいいなどという自責の念で潰れそうな子どもたちをひとり孤独にしていては世の中から希望が失われていきます。希望を与えるには、強く優しい真心の実践が必要です。

自分が自分に打ち克つからこそ人を深く思いやれ、そして自分が希望を捨てずに最期まで諦めなかったからこそ目の前の人の心を強くしていくことができるように思います。常に優しさと強さは心の持ち方、心の在り様からはじまりますから、同志の学校教育に一緒に向き合っていく以上さらに奥深い心の本質に入っていきたいと思います。

 

同化の法理

先日、NHKの「ダーウィンが来た」という番組で「ハナカマキリ(ランカマキリ)」の特集が放映されていました。

もともとカマキリは、擬態をして稲の間に生きるものは稲の色になり、草草の中に生きるものは同じような緑色になっています。しかしこのランカマキリは、蘭の花と共生関係を結びますから蘭の花から離れることはありません。そのあまりにも擬態の卓越した姿に弓の名手紀昌の「不射の射」の話を思い出しました。

昔、趙の都・邯鄲に住む紀昌が、天下第一の弓の名人になろうと志を立て、当今弓矢をとっては及ぶ者がないと思われる名手・飛衛、次いで飛衛をしておのが技は児戯に等しいと言わしめる仙人・甘蠅に師事して「不射の射」を体得する。 真の名人となった紀昌の心は弓への執着からも離れ、ついには弓そのものを忘れ去るに至るという話です。

これは道を究め盡して自他一体が極みに至り、弓矢そのものになってしまったがゆえに弓矢そのものの存在を思い出せないほどになるという故事です。

あの映像の中のハナカマキリを観ていたら、まるで蘭の樹そのものになってしまっている姿に進化と発展の本質を学び直した気がします。ハナカマキリは、まるで蘭の花そのものに擬態します。蘭の花が蜜で虫をおびき出すように、ハナカマキリも蜜と同じフェロモンを出します。また紫外線を反射するように花びらと同じように自分の身体も紫外線を反射します。その動き一つ一つも花びらが動くかのように揺れながら歩きます。蘭の花が虫たちを呼び出す仕組みをほぼ完全に真似をすることができているのです。

ここに自然の不思議を感じます。もちろん、ハナカマキリは蘭を尊敬した結果近づいていったのでしょうが果たしてこれはハナカマキリだけが蘭を真似てこうなるのかということです。蘭の方も近寄り何かしらの関係を結びその中から互いに同じ生き方を選んだのではないかということです。

昔から互いに必要としあうものは互いに似てくるという考え方があります。これはもともと似ているのか、のちのち似てくるのかはどちらでもいいのですが自然には「似たもの同士」という一つに同化する境地があるように思います。

私には、道の中で歩む方々、同じような目標を持って生きる方々、芯や根に同じものを持っている方々はやはり似ているように思うのです。何を尊敬しているか、何と一緒に生きるのかはその人の判断ですが自然界を観ていたら多様化することの意味を深く感ぜずにおれません。そして気が付くと彼我の境目を超えて自他一体になっていきます。

これを私は同化の法理と名付けます。

身近な自然の中に、あらゆることの真理が隠れています。

身近な自然から学び直していきたいと思います。

切磋琢磨

昔から仲間から学ぶ尊さを大事にする諺に「切磋琢磨」がある。

御互いに石が擦れ合うことによって、お互いが自然に磨かれていくということことから来ている言葉です。ここからどんな素晴らしい宝石でもただそれだけでは、磨かれて光を発することはないという意味にもなります。

磨れ擦れ合うこと、つまりは摩擦です。よく考えてみると全てのものは摩擦によって磨かれていきます。

小さなものでは水の流れでも、砂砂も擦れ合うし、風が通り抜けても磨れ合います。自然界のものは摩擦によってカタチができているとも言えます。

この摩擦は決して一人では行われず、相手がいて初めてできるものです。それに相手がツルツルであってもこちらは磨かれず、相手がザラザラであるからこそこちらもそれに磨かれるのです。

しかしもしもそれを摩耗や摩擦したくないとすべて避けようとするならば、一向に磨かれることはありません。これは人間関係にも言えることで、相手によって自分を磨こうとする人と磨きたくないから関わらないという人がいます。人が磨かれるというのは、自分を磨ける砥石に出会うということかもしれません。

ちょうどよいお相手こそご縁によってめぐりあいます。

そう考えてみると、人は皆我が師とあるのも人は皆我が砥石ともいえるように思います。磨いてくださる方々がいて今の自分があるのですから、その時々に磨き合える仲間とめぐり会えることは本当に仕合せなことだと思います。

禅語に「石中に火有り、打たざれば発せず」があります。

どんな石も何もしなければそのままの石ですが、ひとたびその石が打ち合えば火が出てくるということです。ここから、人は打たれることで発して光り出すということに例えられます。

これは私の自然観ですが、地球の子どもが石だとして考えると石は地球の中で歩んでいく中で悠久の時間を耐えつつ様々なところでありとあらゆる摩擦に出会い、自らの石を形成していきます。

石を観ていると、その石にその石の生き方があった、生き様があるように感じるのです。

私が石を大切にするのは、その石がどのような行程でその石になったのかを味わいたいからです。その石はあるときは、熔けるような温度の中で揉まれてきたものであったり、ある時は地中深く巨大な圧力を受け続けてきたり、もしくは強風の中で風に吹かれ削り取られてきたり、あるいは宇宙を旅してここまでたどり着いたものもあります。

その一つ一つに物語を含有し、その一つ一つに磨き方を与えてくれます。それがどのように光るのか、あるいはまだ光り出す前の状態なのか、もしくは光る前に形がなくなってしまうのか、想うところがあるのです。

仲間に出会えるというのは、お互いの生き方を学び合うことです。

一生涯の中で、それぞれに自らの道を歩んでいきますが仲間が自分自身をどのように磨いていくのかをずっとみてみたいものです。子ども達にも楽しく磨く仲間が増えるように、石の一つになって切磋琢磨していきたいと思います。

心の自由~自分自身の発見~

昨日、自由の森学園中学校の卒業式に参加する機会がありました。子どもたちがそれまでの自分に別れを告げて新しい自分に出会っていく様子に改めて自分を育てていくことの本質を考え直す機会にもなりました。

この自由の森学園は、数学者遠山啓の教育論を支柱にして理念を立てられた学校です。この遠山啓氏は競争心を刺激して子どもを育てるという考え方に警鐘を鳴らし下記のように語ります。

「競争心を刺激する教育法は、たしかに手っ取り早く人間をふるい立たせる力を持っている。しかし、その反面、目標を他人におくために自分自身を見失うという欠陥をもっている。」(『競争原理を超えて』遠山啓)

ちょうど競争原理が教育に深く入り込んできて、即戦力や即席栽培ができるような人材を世の中が要請していた時代だったのかもしれません。そういう危機感から「かけがえのない個の人間として、それぞれ異質で多様な可能性を潜ませていながら、いまの画一的な教育の中で萎えてしまっている若者たちの秀でた資質をひきだし、想像力を解放し、心の自由を育てる、そうした教育をつくりだすことを決意した」(設立趣意書)(自由の森学園HPより)ことにより学校を設立しています。

今の時代も経済界の要請により、如何に即戦力即席栽培の人を育てるかばかりが教育現場の議論になっているようですが人間としての基本や基礎が出来上がる時期にテクニックや表面上のマニュアルような哲学を仕込んで上辺だけのコーティングをしても、実社会に出てみたらその現実とのギャップに苦しんでいる若者が沢山いるのをもっと真剣に気づく必要があるのではないかと私は思います。時間をかけて大切なところを見守り育てるからこそ、その人は社會で挑戦しなんども折れずに立ち上がりその体験から学び自ら自分を磨き練り上げる自信を、それが繁栄の社會を育てていけるのです。

話を戻せば、この遠藤啓氏の言葉の中に「心の自由を育てる」という一文が入っています。この心の自由という言葉は、私も好きで学問の楽しみを味わうためにはこの心の自由は必要不可欠ではないかと私は思います。人がたった一人の自分の心と正対し向き合い対話をすることの価値は、その人の人生を豊かにしていくことであり、その人のかけがえのない物語を自分でつくり上げていくことになるからです。

昨日の卒業式では、同じく数学の先生であり校長でもある先生が卒業式で訓辞がありました。その中で「学ぶということは、絶えず自分を毀していくことです。それを自分でやっていくこと。皆さんは新しいステージでも常に自分と向き合って自分を創っていってほしい。」というメッセージを子どもたちに伝えていたのが印象的でした。

この「自分を毀す」ということ、体験を通して自問自答し新しい自分に出会い旧い自分を毀していく。言い換えれば温故知新を続けていくこと、変化を已めない、一生涯変革を続けていくことは他人と競争でするものではなく自分自身とするのだということを伝えていたように感じます。そのために学友があり学舎があり、師弟があり同志がいるのではないかと私も感ています。

競争原理は確かに勉強の意欲を一時的に高めることができるかもしれません。テストも評価も資格取得も、子ども達に勉強させたいから誰かが便利に開発したものなのでしょう。しかし、一生涯その子が学問をしてほしいと願うなら、その子の倖せを祈るならその方法は長期的にみて勉強嫌いになって逆効果になってしまうのではないかと思います。

私の思う本当に楽しい学びは、日々の自分自身の発見と発明です。

道を歩む中で新しい気づきに出会う仕合せに気づく、そして自分の心を磨き育てる豊かさを知る。本当の自由とは自分の心の中で学問できるものだけがはじめて実感できるものかもしれません。

あの子ども達の節目が新たに倖せになるように寄り添い見守りつつも、子ども達にとって自分たちが一体どんな先輩になっているか、恥ずかしくない姿を見せるために徳を高め自らを磨き仲間と研鑽を積み、自分自身の心の自由をいつも自己開発自己開拓への学びを内省しメンテナンスしていきたいと思います。

 

執らわれない心

人生は不思議で思い通りではない時の方が思った以上のことが起きているものです。

有名な故事に「人間万事塞翁が馬」という言葉があります。これは中国の淮南子という古い書物に書かれている物語ですが私はこの言葉が大好きで、実際には世間には悪いように見えている禍の出来事であってもその実は、天の計らいによって福に転じていくこともあるという仕合せの原点回帰の話のように捉えています。

通常人は一般的に周りや世間からみると同情されるような出来事が発生すると落ち込んでしまうものです。自分の中で落ち込んでしまえば、それは不幸だとか禍だとか勝手に信じ込んでしまいます。しかしこの中国の塞翁は、「本当は善いことかもしれないよ」とその時々に周りに言っては、時間が経つとすべてそれが福に転じて戻って来るので周りは驚くのです。

これは悪いことの側面に善いことがあり、幸せの側面には不幸がある・・・しかしその両方が何かの御蔭様に由っていると思うとき、その仕合せは禍福が一円満になっていることに気づいているのです。

物事とは片方だけで見るのではなく、両方で見ることは大切です。そして同時にそれは一部分だけをみるのではなく全体で観ることが大事です。しかしつい人間は自分の感情に呑まれてしまうと、視野が狭まり目の前のことだけで見える世界がいっぱいになってしまいます。

そんな時、信じることができているならそれは実は天から与えてもらった贈り物かもしれませんし、願っていることが次第に叶っている最中なのかもしれないと思えるのです。

これは謙虚に虚心坦懐に日々に信を積み重ねていく精進があって仕合せのめぐりあわせに気づく感性を高めていくから実感できるようになるのかもしれません。不思議なことですが人は一般的に誰かと同じような出来事が起きていたにせよ、その仕合せに気付く感性次第では物事は全く異なった真実をみせてくれます。

信じるということの奥深さはこの人間万事塞翁が馬の故事の中に秘められています。

畢竟、どうにもならない運命に対して、どのようにそれを味わっていくかはその人の人生次第です。一度しかない人生をどのように味わったかを、後で振り返るとしたならばあの時、信じて本当に善かったと思えるような歩み方をしたいものです。

ご縁を大切に、御蔭様を感じながら、執らわれない心を磨いていきたいと思います。

 

 

からだ

「からだ」というのは、もっとも身近にある自然そのものです。昔から「からだの言うことを聴く」という言葉があります。自然に回帰するためには、別に外側の自然に近づけばいいわけでもなく、この自分のからだこそ地球の一部ですから「からだ」そのものの声を聴けば何が原点なのかが自明するものです。

今回は「からだ」の言うこととは何かと気づいたことを書いてみます。

「からだ」というのは、体調が乱れてバランスが崩れると様々なことを言ってきます。それは感覚で伝えてくるものですが、寒気や頭痛、または冷えや肌の色、口の中の渇きや熱、痺れや疲れ、だるさなど、ありとあらゆることを症状という言い方で伝えてきます。

その言ってきたことに対して、どう聴くのはその人の生き方ですがちゃんと聴けば何が起きているのかが分かります。例えば、寒気や熱はこれから免疫が作動するから休みなさいという声ですし、疲れやだるさというのはからだが無理したのだから少し回復までじっとしてなさいという声でもあります。

反対に今の社會のように、自分のからだよりも周りを優先して仕事をするような時代だとからだの声をどう打ち消すかという薬の使い方をしたりします。回復を手伝うというよりは、頭が痛いのは頭痛薬でしずめ、疲れやだるさは栄養ドリンクでごまかし、熱は解熱剤で無理に下げたりします。

現代人はひょっとして本当は病気にしたいのだろうかと思うほどに、「からだ」の声を無視してはその声が出ないようにと抑え込みます。痛いのを抑えたい衝動に脳が負けてしまうのでしょうが、そもそも痛い理由がなぜかとは考えないのかもしれません。対処療法と根源治癒と言い方をしますが、実際は素直さや正直さが根底にないと「根から」にはならないように思います。

話を戻せば、「からだ」の声というのは日々に声をかけてくれています。どんな小さな声でもそれが聴けるのならばその人は自然の声も聴ける人です。

自然の声が聴ける人は謙虚な人ですから、その自然の声を聴く人はバランス感覚もまた優れている人たちです。世の中は、一歩外に出ると様々なストレスの中で歩むことになります。それは不自然極まりない状況の中で、様々な執着が蔓延っています。その中で如何に泰然自若に過ごすのかは内省の質に由るように思います。

自分の心の声を聴き、肉体の声を聴き、魂の声を聴き、からだに従う。

黎明の時間に一人慎むことができてはじめて、「からだ」になるのかもしれません。

「健全なる精神は健全なる”からだ”に宿る」(A sound mind in a sound body.)があります。これはローマの詩人ユベナリスの詩、「大欲を抱かず、健康な身体に健全な精神が宿るようように祈らなければならない」の訳です。

やっぱり自分を知ることが何よりも大事で、その自分の代表者でもある「からだ」の声を聴けるようになってはじめて、人は素直さや謙虚さが分かるのかもしれません。

学びを忘れないように知るし、事あるごとに振り返っていきたいと思います。

信頼の絆を結ぶ~ミマモリング~

人が人と仕事をするとき、何よりも大切にするのは信頼関係です。信頼し合っているからこそ、その絆の信を結んでお互いに目的をやり遂げることができるのです。

先日、ある人が私たちの新商品を導入する際に周りに質問された時に「カグヤさんに騙されたと思ってやっています」と説明しているという話を聴いて、如何に自分たちがその方に信頼されているのかを改めて実感しました。これは言い換えれば、頭ではわからないし、やってみたことがない、それに自分たちには見えていないかもしれない、しかしこの人たちは信頼できるからやってみようと思うという意味です。

騙されたと思っての言葉の背景には、裏切られてもいいほどに信じている人たちだからという意味でもあります。自分たちの実践を観てくれて、本質や真実、志を確かめてくれて、一緒に取り組む決心に至る。

これは本当に有難いことだと思います。

人は何をしているかどうかよりも、結果が出るかどうかよりも、何を最も優先しているかということが大切なことのように思います。

論語に「信なくば立たず」があります。

これはもともと論語の中で軍備と食料と信頼と捨てるとすればどれを捨てますかと弟子の子貢が孔子に尋ねるところで使われている言葉です。それに対して孔子は「食料がなければ人は死ぬが、昔から誰にも死はある。人民は信頼がなければ安定しない(民無信不立)」というような返答をします。

つまりはここで何よりも人間同士に必要なのは信頼なのだということを語ります。

信頼を重んじ、信頼を裏切らないというのは常に自分に嘘をつかず誤魔化さず、正直に真心の実践を積み重ねていくことです。それは結果云々次第ではなく、そのプロセスにどれだけその人物が誠実であったか、どれだけ真摯に一緒に考えたか、自分を忘れるほどに自他一体にその人のために自分を使い切り思いやりを行動に移したかということになります。

単に頭で考えただけでは信頼は持てず、人は心で行動して言葉が一致したときのみ信頼は持てます。そう考えれば、ミマモリングというものも同じくどれだけ行動したかを省みることによってはじめて実感できるものかもしれません。

お客様からの言葉に自分たちが今、取り組んでいることの価値を再確認できます。その激励に応えるためにも、信を強く持ち、信のままに絆を結ぶ実践を高めていきたいと思います。