効率の本質

経済を優先し効率を良くするということは、便利さを追求し効果的に行うということです。一見、便利さは効率を上げて経済を発展させているように見えますが実際は短時間で目先のことを解決するために膨大なエネルギーを使っているだけで効率がいいわけではありません。

本来の効率の良さとは、無駄が少ないという意味です。しかし実際は、膨大な無駄なエネルギーを消費しておいて効率がいいという変なことを言う人が増えているように思います。効率を観るときコストとエネルギーがどれくらいかかったかを考えます。

例えば、鶏の卵を販売するには大量の鶏を飼い、餌を大量に輸入し、病気予防のための薬を用意し、消毒や清掃などに沢山の電気やガソリンなどを使います。そのためにはコストがかかりますからそのコストを回収するために、さらに販売や宣伝、より効率を高めるためというように最新の機械や薬、その他の餌や鶏舎の増築などを行います。結果的にコストとエネルギーは増加し続け、無駄がどんどん大きくなっていきます。伝染病が流行れば致命的ですし、もしも停電やガソリンが高騰すると大変なことです。

しかし矛盾があるのですが、人はそれでも今の方が効率がいいと思ってしまいます。卵を増産するためには便利だからです。この目先の便利さというのは効率が本当に良いのかということです。

うちでは庭先で自然養鶏といって、烏骨鶏を平飼いしています。雑草を食べ、玄米や穀物を食べ、虫たちを食べます。発酵した土で泥浴びをし、雨水タンクの水を飲みます。そんなにたくさんの卵を産みませんが一家で食べる分は十分です。子どもを数年に一度羽化して、ちゃんと次世代も継承されます。たまに畑に連れていけば、楽しそうに遊び畑の虫たちをついばみます。薬もなにも投与しなくても免疫が高く病気にもならず、電機やガソリンがとまっても死んでしまうこともありません。毎朝、今日を知らせてくれて一緒に暮らしを楽しんでいます。

確かに目先をみるとたくさん卵を産まないから不便であり非効率と思うのかもしれません。しかし本来のエネルギーやコストの概念から見れば、効率が良いのはどちらの方かというのは一目瞭然です。

つまり経済優先の効率の良さとうのは、お金を作り出すのに効率が良いという意味であって、自然循環の中にある本来の効率という本質とは別物だということです。

本来の効率という概念をもっと見直した方がいいのではないかと私は感じます。

福祉の業界は介護などもそうですがもうコストもエネルギーも飽和状態です。この先はさらに介護や福祉にお金がかかり、次世代の子どもたちの負担が増え続けていきます。効率をあげるために施設を増やしたつもりが、逆の効果を発生させているように思います。

目先の国家経済を優先し続けていると、自然から離れるばかりです。もうすぐ世界は臨界点を超えてしまいその矛盾に向き合うことになると思います。古代人のように賢い人たちは、無駄がないことを効率の善さと自覚していました。自然から離れることもなく、自然の中で如何に効率が善くなるかを工夫していました。結果的にそれが一番長い時間人類をこの地球に存在させたように思います。

自分の代に全てのエネルギーを使い切るか、それとも次世代のために勿体なく譲っていくかはその人の生き方です。不自然を自然であるように誤魔化してみても、その麹り合わせは必ず明るみになります。自然のままに世の中が善くなるようにするには循環を見つめ本当の意味での効率の上げ方を見直すことだと思います。

常に本質に立ち返り一つの心に一つの手仕事手作業で好循環になるように実践を一つ一つ確かに取り組んでいきたいと思います。