切磋琢磨

昔から仲間から学ぶ尊さを大事にする諺に「切磋琢磨」がある。

御互いに石が擦れ合うことによって、お互いが自然に磨かれていくということことから来ている言葉です。ここからどんな素晴らしい宝石でもただそれだけでは、磨かれて光を発することはないという意味にもなります。

磨れ擦れ合うこと、つまりは摩擦です。よく考えてみると全てのものは摩擦によって磨かれていきます。

小さなものでは水の流れでも、砂砂も擦れ合うし、風が通り抜けても磨れ合います。自然界のものは摩擦によってカタチができているとも言えます。

この摩擦は決して一人では行われず、相手がいて初めてできるものです。それに相手がツルツルであってもこちらは磨かれず、相手がザラザラであるからこそこちらもそれに磨かれるのです。

しかしもしもそれを摩耗や摩擦したくないとすべて避けようとするならば、一向に磨かれることはありません。これは人間関係にも言えることで、相手によって自分を磨こうとする人と磨きたくないから関わらないという人がいます。人が磨かれるというのは、自分を磨ける砥石に出会うということかもしれません。

ちょうどよいお相手こそご縁によってめぐりあいます。

そう考えてみると、人は皆我が師とあるのも人は皆我が砥石ともいえるように思います。磨いてくださる方々がいて今の自分があるのですから、その時々に磨き合える仲間とめぐり会えることは本当に仕合せなことだと思います。

禅語に「石中に火有り、打たざれば発せず」があります。

どんな石も何もしなければそのままの石ですが、ひとたびその石が打ち合えば火が出てくるということです。ここから、人は打たれることで発して光り出すということに例えられます。

これは私の自然観ですが、地球の子どもが石だとして考えると石は地球の中で歩んでいく中で悠久の時間を耐えつつ様々なところでありとあらゆる摩擦に出会い、自らの石を形成していきます。

石を観ていると、その石にその石の生き方があった、生き様があるように感じるのです。

私が石を大切にするのは、その石がどのような行程でその石になったのかを味わいたいからです。その石はあるときは、熔けるような温度の中で揉まれてきたものであったり、ある時は地中深く巨大な圧力を受け続けてきたり、もしくは強風の中で風に吹かれ削り取られてきたり、あるいは宇宙を旅してここまでたどり着いたものもあります。

その一つ一つに物語を含有し、その一つ一つに磨き方を与えてくれます。それがどのように光るのか、あるいはまだ光り出す前の状態なのか、もしくは光る前に形がなくなってしまうのか、想うところがあるのです。

仲間に出会えるというのは、お互いの生き方を学び合うことです。

一生涯の中で、それぞれに自らの道を歩んでいきますが仲間が自分自身をどのように磨いていくのかをずっとみてみたいものです。子ども達にも楽しく磨く仲間が増えるように、石の一つになって切磋琢磨していきたいと思います。