ご縁結び~恵比寿の貝逅~

昨年から貝の御蔭様で館山で人と人とのつながりを感じる機会に恵まれています。人と人の出会いはいつも不思議で、出会いの中に物語があるのを感じるとその出会いが如何に必然であったかを思います。

人生というのは一瞬一瞬の邂逅の中で御縁が交わり結び合います。

人と人とのつながりをどのように大切に生きているか、御互いのご縁を如何に結い縫っていくのかが人生の醍醐味かもしれません。そこには意図もなく、無償の愛があるだけです。互いのご縁を結んでいくことが、互いの人生を結い合っていくことです。本来はつながるはずがなかったものが、ある時を境につながっていくことでお互いの世界が邂逅して混ざり合っていく。

その様子はまるで銀河が他の銀河と混ざり合い一つの渦を形成し、新しい星が誕生するかのように光がさらに眩さをまして宇宙に融和してくかのようです。

宇宙の星々はそれぞれに光を放ちますが、その光と光はご縁によってさらなる光になるように、人と人との御縁もまた人になります。人類の発展とは何か、それは出会うことです。どんな出会いを生きたかが人生ですから、面白い人たちとの思い出は人生の輝きを増していくかのようです。

そして人が出会いによって自分の全く知らない新たな価値観に触れることは本当に愉しいものです。今まで気づきもしなかったことに出会うことは新しい自分自身との出会いです。そういう一つ一つの出会いをどれだけ自分が出会っていくか、その面白さがあるから信じたいのかもしれません。信じる仕合せとはどこまでいっても人と人との御縁結びであることを実感します。

恵比寿は日本の神様であり、イザナギ、イザナミの神の間にできた第三子と言われます。有名なご縁結びの神様です、宝船に乗って海から豊かさを持ってくる七福神の一人でもあります。

何でも楽しんでいくことやなんでも面白がっていくこと、そして心を寛くもち、笑い合うこと。和らう門には福来るとはまさに日本人の生き方、海の民の歩み方の智慧なのではないかと直感しました。

「あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、おけ」

神話の中にこそ最大のヒントがあり、福こそが暗闇を抜ける妙法であることを私たちに伝えてくるかのようです。子どもたちのためにも諦めず、魂を磨く実践を怠らず精進していきたいと思います。

真心の在り処

論語や君子というものを考えるとき、それは一般には政治やリーダーの学問であると言われます。しかし一度、そういう世間の評価を外して本当は何だろうとじっとそのものをそのままに見つめていると別の視点が顕れます。そもそも論語とは、そして君子とは一体何かということです。

それを少し深めてみたいと思います。

まず孟子の中に「君子三楽」という話が出てきます。そこにはこうあります。

孟子曰、「君子有三楽、而王天下、不与存焉。父母俱存、兄弟無故、一楽也。仰不愧於天、俯不怍於人、二楽也。得天下英才、而教育之、三楽也。君子有三楽、而王天下、不與存焉。」

意訳ですが、「君子には三つの楽しみがある。それは別に天下の王になることではない。まず一つ目の楽しみは父母が健在で兄弟も健やかであること。そして二つ目の楽しみは、天に恥じることのない真心で生きることができること。最後の三つ目の楽しみは天下に役立つ人たちを見出しその持ち味を活かせるようにすることだ。これは別に天下の王になることと関係がない。」と言います。

父母兄弟が和合し共に慈しみ、正直に素直な日々を謙虚に送れ、周囲を見守り活かせる安心基地の存在になること。孟子の描く君子像とはこのようなものです。

そして孔子はどう考えるのか、私には孔子の「志」について語る同志との問答の中に君子本来の姿が顕れているように思います。そこにはこうあります。

「顔淵季路侍、子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣輕裘、與朋友共、敝之而無憾、顔淵曰、願無伐善、無施勞、子路曰、願聞子之志、子曰、老者安之、朋友信之、少者懐之。」

意訳になりますが、「孔子は顔淵と子路と一緒に歩んでいる中であるとき彼らに質問をしました。”あなたたちの志を聴かせてくれないか”と。子路はそれに対してこう言いました。”馬でも馬車でも衣装でもなんでも朋たちと全て分かち合い、たとえそれをなくしたり壊されたりしても怒ることがない人になりたいです”これを私は志しますと。そして顔淵は言います。”他人には善いことをしそれを思うこともなく、他人の苦労をそっと取り払いまた思うこともない自分になりたいです”これが私の志ですと。そして孔子は最後に自分の志を言います。”年寄たちからは安心され、友人たちからは信頼され、若者からは慕われるような人になりたいものだ”と」

彼らが目指した君子とは一体どういったものか、それを感じるのです。

人は何かを成し遂げないから君子になれないのではなく、その日々の自己の心がけ次第で君子になれるようにも思います。人として当たり前のことができない苦しみを抱え、人は人生航路をそれぞれに歩んでいきますがその修行は日々のあちこちで訪れます。

その道の同行行脚の中で仲間と共に目指す仁人の実践、真心を盡すご縁をいただけることは何よりも有難い志のように思います。志の意味も、何か夢かなにかと勘違いすることがありますが彼らにとっての志とは思いやりのある人になりたいと願う自己の実践です。だからこそ道とはなんと深淵で奥深い美しい世界であるかと私には感じます。

学べば学ぶほどに本当に教えてくださっているのは、知識でもなく智慧でもなく、能力でもなく技術でもない、その真心の在り処だったのかもしれません。先生が居るということ、同志や仲間との御縁があるということはそれだけで何より有難いものです。

ご縁を大切に日々を学び直して急がずに休まずに心を廣く歩んでいきたいと思います。

教えるよりも助けること

競争原理の中の教育の刷り込みには、利己的なものがあるように思います。この利己的な教え方によって刷り込まれると、すぐに自他に厳しく当たってしまい甘やかすことを過度に嫌うようになるものです。

例えば、先生は子どもに何でも自分一人でできることを目的に教え込みます。自分一人でできなければすぐに叱られ、こんなこともできないのかと何度も何度も教え込まれます。先日もある子どもが、周りの子どもができないから手伝っていたら先生から自分のことをやりなさいと叱られたと言います。そしてできない子には自分でやりなさいと叱ったそうです。

自分でできないから助けていたらそれではこの子がダメになると言います。結局、大人になってみて組織を見て観ると同じような現場ばかりに出くわします。できないから助けている人と、できないのはその人のせいだと自分でやれとツケ放す人がいます。

もしもチームで仕事をする場合はツケ放しても効果はあまりありません。それよりも助けてあげた方がお互いの結束が強くなり、信じる力も高まり信頼関係が深まっていきます。できない人をみては教えてあとは厳しくツケ放している人は、結局は一人で仕事を持って誰にも渡せず孤独になっていたりしますがそれはそれまで受けてきた教育の刷り込みではないかと感じるのです。

本来、人は教えるよりも助けてあげた方ができるようになります。最初はみんな誰もができないからこそ助けてもらい、安心した中でいろんなことを試すようになります。最初から頭ごなしにこんなこともできないのかとツケ放し、何回も言っただろうと言葉で教え、さらにはもう自分でするからしなくていいと言ってしまえば元も子もありません。そうなれば全部一人でやらないといけないですがそんなことは所詮無理です。それは「教え込むことに問題がある」と自分の刷り込みに気付くしかないように思うのです。

人は競争原理の中で、なんでも一人でできるようになるように教え込まれるからそのように自他に厳しすぎて孤独になって完璧を目指すようになるのかもしれません。人はみんな不完全ですから、できないところはお互いに助け合いフォローする方が和合し協力し楽しく倖せに人間らしく生きていけるように思います。

自分が受けてきた教育をそれが世間の常識だと他人に押し付ける前に、自分はどうありたいか、本当はどうありたいかと自反慎独し周囲のために思いやりや真心でありたいと願えばその刷り込みも実践を積み重ねることで取り払われるようにも思います。

人はやられてきたことをその時は辛く嫌だと思っていても、それを我慢して仕方ないと肯定してしまえば知らず知らずに自分もまた他人にそのまま同じことをやってしまいますから、自分の中で一つ一つ内省をして振り返り改善に転じていくしかありません。

教える人は助けてもらっていないという人が多いですが、真実は今まで自分の得てきたもののすべては”他人様から助けていただいた御蔭様で得た力”ですから、それをどのように御恩返しをして活かすかはその人の決めた生き方次第です。

きっと教えようから助けように変われば、もっと可能性は広がり自他を活かせるように思います。

その人の性格や人格だと裁くよりも、刷り込みがありますよとアドバイスし、自分がモデルになる実践をみせていけるようにさらに感謝を土台にして精進していきたいと思います。

急がず休まずじっくりと~発酵の智慧~

人が病を得て治癒をしていくとき、その治し方に生き方も出てくるように思います。

例えば、からだが不調になるとき早く治そうとする人とじっくりと治そうとする人がいます。それはまるで急いでは休もうとする人と、急がずに休まない人との違いのようです。

何でも速く、なんでも急いでとなっているから物事の判断はすべて自分が優先されていきます。もしも逆にじっくりとゆったりととなれば物事の判断に周りを思いやる余裕が生まれるのです。

以前、ダライラマ法王の何かの法話の中で現代人の不思議について話がありました。具体的には、必死で儲けることだけに夢中になり会社を大きくし売り上げもあがり利益もだし自分も大きな貯金を持つようになりますが、今度はそのことで病んだ自分の身体や心を治すためにまた大きな貯金を使っていくという生活が不思議だという話です。

お金を稼ぐために必死に働き大金もちになって、その大金もちにしかできない大金を使った治療をする。経済はそこで発展すると思いますが、その人はどうなっているのだろうかと思うのです。

そうやってなんでも急いで目先の目標ばかりに囚われて突っ走っていたら、無理ばかりしてからだを崩します。しかし焦っているのだからすぐにサプリや薬に頼ります。もしくは手術などの即効性のあるもので解決したくなるのでしょう。しかしその実、速効を求めるほどに物事は停滞して腐敗するように今では感じます。本来の停滞とは焦りや慢心のことなのでしょう。

だからただ寝ているだけや、何もすることがないから何もしないということをやろうとすると人はきっと不安になるのかもしれません。人は本来、心を定めて決心すれば日々に怠らず実践することは沢山あります。焦らず謙虚に無心になって実践を一つ一つ積み重ねていくことは、日々に心を天に通じ合わせることもでき安心の中でいのちが活かされる実感を味わえるものです。

そのために自分の欲望や願望、もしくは周囲の抑圧や押し付けなどに執らわれない自分を創っていくしかないようにも思います。そこにもまた自然の智慧や逞しさ、自分を信じるしなやかさが求められるように思います。

そのためにはまず自分の決めた生き方に専念すると決心することかもしれません。

当たり前と思ってしまう自分の生活習慣は自分の決めた生き方の実践そのものです。

その実践を倦まずに弛まずに積み重ねていけば、自ずから急がず慌てずゆっくりとじっくりと時間をかけようと思うものです。同じ時間をかけるなら、やっぱりじっくりと時間をかけた方が楽しいときも増えていきますし充実して思いやりや感謝に導かれる倖せにも出会えます。

急がず休まずにじっくりとは、発酵から学んだ智慧であり真髄です。

実践を積み重ねていきたいと思います。

 

人間理解~根源治癒~

人は真心から目の前の人の苦しみを抜き取り少しでも楽にしてあげたいと願うとき、相手の心の深い部分に共感しそれを一緒に理解していこうとします。しかしこの一連のプロセスの中で、自分の中に心を容れてもそれを解決するわけでもなく逃げるわけでもなく、ただひたすらに心に向き合い受け止めようとするとき言葉に表現できないほどの大変な苦労が訪れます。

それはまるで今までの自分のモノの考え方や生き方が掻き混ぜられるような感覚です。どうしようもない怒りや苦しみ、もしくは自責や他責の念、そうでしか生きられれないその人の無念さのようなものが心に流入してきます。

不思議なことですが心を寄り添うとき、信じることは心の支えになりますが不信は逆に心を痛めることになります。心を痛めている人を信じるときは、その人の心が自然に治癒するのを待つしかありません。急いでも焦ってもそれはできず、心を少しでも開いてくれるならその人が転じるための方向性を示すくらいしかできません。

臨床心理の河合隼雄さんは、数多くの人間理解を実践してきた方です。その人の心の苦しみにじっと寄り添い、その苦しみを理解されていた方だと言います。その方の実践から出てくる言葉の重さには、「ああ、そうか」といつも救われる思いがします。

『うっかり他人のことを真に理解しようとし出すと、自分の人生観が根っこのあたりでぐらついてくる。これはやはり、「命懸け」と表現していいことではなかろうか。実際に、自分の根っこをぐらつかせずに、他人を理解しようとするのなど、甘すぎるのである。』

他人を知るなどということは、実際は命懸けのことだと言います。これは私の中では真心がいるということです。真心なしに相手を分かった気になるなど甘すぎると意味です。相手を知ろうとすればするほどに自分の中の悪感情に苛まれます、これはまさに一緒に深い海に沈んでいくかのような感覚です。しかしそこに「きっと私にもわからない大変なことがあったのだろう」と共感し、その人の試練がきっとその人の魂の臨んでいるものだと信じ、それが善いことであったと祈るのです。

人はご縁があることで自分を変えていくことができます。ある人は、”人生が行き詰まるのは進んでいる証拠だ”とも言います。まさに人は自分を変えようと一歩足を出す時、壁が擡げます。その壁を乗り越えていけますようにと真心で祈るときご縁が導く新しい自分に出会うように思うのです。

人間理解ということ、つまりは共感、受容というものはまさに命懸け、真心があってはじめてできるのでしょう。力及ばずにと嘆く気持ちもありますが、謙虚に素直に人事を盡して天にお任せしその人の一生涯を祈ることこそ、真心の道であり、かんながらに通じます。

ふり返ってみると、真摯に全身全霊でご縁を大切にその人のことを祈ったことが結果として偶然に運善く開けるのはまさに何かしらの不思議な御蔭様の力をかりて奇跡の境界線を超えるかのようです。その人の生き方がチェンジするのを見守るとき、”ああ、何者かまた救けてくださって有難うございました”という御蔭様の感謝と真心に出会うだけです。

根源治癒していくというのは、その根をぐらつかせるからこそ根から直します。常に先人の素直な実践を尊び、自らも最期まで丸ごと信じ諦めずにご縁と奇跡に感謝してお任せしていきたいと思います。

苦楽の学び

日々に新しいことを挑戦していると難題ばかりに向き合います。そこから逃げないと決めたなら新たな学びが自分のものになっていきます。自分の中にモノサシが入っていく瞬間は学びの歓びです。

世間では学校で教えられた学びを学びにしていると、本当の学びというものが分からなくなるものです。外側から目標とモノサシを与えられ、ここまでやったらできると教え込まれる中ではどのように要領よくやろうかや、どのように楽をしようかなど全うに真摯に努力して何かをやろうとは考えにくくなるように思います。

実社會の中で、一つ一つの物事を獲得して自分の中で消化吸収していくには心身一如に体得体感していく必要があります。簡単に頭で教え込まれた今までの刷り込みの学び方をいくら強引に無理してもそれでは学べず、どれだけ全身全霊で実践し本質を深耕していくかという自然の学び方を習得しなければなりません。

臨床心理の河合隼雄さんに下記の言葉があり、共感できます。

「学んでいて楽しくないものは、本当の意味で身につかない、というのは私の実感でもありますが、一方で、苦しさを伴わない学びもまた、ニセモノだと思うのです。」

この『ニセモノ』だと思うのですと言うフレーズが好きです。偽物とは何か、それは仮物であるということ。本当の自分自身の苦労と努力、そして成長の歓びや感謝を感じられない学びなど本来の学びではないということ。学校の教科書をなぞるような勉強ではなく、実体験をさらに積み重ねて本物へとたどり着きたいという情熱と熱意、諦めない闘志、そしてその機会にめぐり会えたことへの感動や感謝といったものなしに学んだはずはないのです。

学んで楽しいのはなぜか、それは新しい自分に出会い新しい自分を創る喜びです。そして苦しさは何か、それは旧い自分を毀し、殻が毀れていく苦労です。この両輪は、常に自己を刷新することこそ学びの本質であることを伝えています。

また河合隼雄さんはこうもいいます。

「思い通りにならないことこそ、ほんとうにおもしろいことだと思っているんです。」

外側の評価でばかり生きていたらほんとうの面白いことに出会えません。思い通りにならないというのは未知との出会いです。そして思っていた以上のことに出会う奇跡との出会いです。

毎日をどれだけ新鮮に味わっているかは、その人の挑戦の数に比例します。

日々に自分が毀れていく仕合せに感謝しつつ、苦楽を味わって歩んでいきたいと思います。

 

青春~心の若さ~

サミュエル・ウルマンの「青春」をヒントに松下幸之助さんのが自ら作成した座右の銘があります。

「“青春とは心の若さである 信念と希望にあふれ勇気にみちて日に新たな活動を続けるかぎり 青春は永遠にその人のものである”」

という言葉です。一生青春を掲げその生涯を亡くなるときまで日々新たと青春し続け心を高めた松下幸之助さんの生き様が言葉に凝縮されているように思います。

そもそも青春とは何か、ウィキペディアにはこうあります。

青春とは、元は春を表す言葉である。 古代中国の五行思想では、「春」には「青(緑)」が当てられる。 同様に、「夏」を「朱(赤)」、「秋」を「白」、「冬」を「玄(黒)」に当て、それぞれ「青春せいしゅん)」、「朱夏(しゅか)」、「白秋(はくしゅう)」、「玄冬(げんとう)」という。 これらは季節を表す言葉であり、これが転じて、日本では特に「青春」について人生における若く未熟で、しかしながら元気で力に溢れた時代を指すようになった。」

人生の春、もっとも若く好奇心あふれてこれから伸びていこうとする素直な心。そういうものを持ち続けようとする中に自然の道があるように思うのです。天地自然には鬱蒼と生い茂る新緑のエネルギー、つまりは逞しさを見守る何かがあるように思えてなりません。

いのちがその希望に燃えるとき、何かの偉大な御蔭様や見守りが働くように思えます。自然界では常に厳しい環境の中でいのちが自然の摂理に晒されます。その時、誰かが救けてくれるのを待つのでもなく、何かに依存して甘えるのではなく、自ずからの心の在り方を変えて善いことに転じようとするのです。

この禍を転じる力こそが若さであり、福にしていくことこそ青春だと私は思うのです。

もしも私が青春をヒントに座右をつくるとしたらこうなります。

「青春とは禍転じて福となすことである、日々のご縁を丸ごと善いことにしていくことである、万物不変の本質、永遠の若さとは好奇心を忘れないことである。旅と思い出のための冒険を味わうのが人生の醍醐味である。」

と。

実践するのは大変なことですが、実践させていただける仕合せもまたあります。出会いを大切に学び直しを続けていきたいと思います。

自律とは何か

先日、ある学校の入学式で自律ということについて校長から挨拶がありました。その際には、自立と自律の話があり、自律という字をよく見て如何に自分を律することが大切かということについて話がありました。

この自律については色々という人がありますが、私には別に思うことがあります。それを少し深めてみようと思います。

この自律を思うとき、まず心に浮かぶのが己に克つという言葉です。そして次にもっともそれを言い表すのは論語にある「己に克ちて礼に復るを仁と為す」ということです。

これは現代に意訳すれば、小我に打ち克ち大我を生きて自分を自分で甘やかさずに律することができるなら思いやりになりますよということです。これを逆さに読めば、思いやりがなくなれば律することがなくなり、ついには怠惰傲慢になっていきますよという訓戒でもあります。

人は思いやりや真心があるからこそ、自分を周りのために我慢し利他をし役立てようと努力します。その際に自分の中から出てくる様々な言い訳を吹き飛ばし、自分が何をすることがもっとも周りの役に立つのかと実践を励み周囲の勇気になっていきます。

人間は安定して満たされ過ぎると、それが当たり前になり感謝を忘れていく生き物です。如何に自分との正対に人知れずに向き合うかはその人次第ですから、人生は誰にも等しく精進していく機会が与えられているということになります。

西郷隆盛に「自己愛」のことが書かれている一文があります。以前、ブログでも紹介しましたが自分を愛しすぎるなということが書かれている後半の文章があります。そこにはこうあります。

能く古今の人物を見よ。事業を創起する人其事大抵十に七八迄は能く成し得れ共、殘り二つを終る迄成し得る人の希れなるは、始は能く己を愼み事をも敬する故、功も立ち名も顯るるなり。功立ち名顯るるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎の意弛み、驕矜の氣漸く長じ、其成したる事業を負み、苟も我が事を仕遂げんとてまずき仕事に陷いり、終に敗るるものにて、皆な自ら招く也。故に己れに克ちて、賭ず聞かざる所に戒愼するもの也。」

要約すると、最初は慎んで己を律していたものが次第に自分の思い通りになっていくと自己を愛しすぎるようになり怠惰が蔓延り結局は駄目になってしまう。それは自らが招くものだから常に己に克ってひとりの時によく慎みて戒め続けなさいとあります。

自律というものは、つまりこういうことです。

しかし自律の本意はどこにあるか、それは初心を忘れてしまうことかもしれません。日常に満足し、自己を鍛錬することを怠ると次第に何のためにやるのかを思い出すことがなくなってきます。何のために何をするのかが人生ですから、それを忘れるということは日常の安逸に精神が弛んでくるということなのでしょう。

自分が自分でぬるま湯から出る勇気があるかどうかが其処を抜け出す鍵かもしれません。「苦しさには強いが、ぬるま湯には弱い。これが人の心。」と千日回峰行の塩沼阿闍梨が言いましたがその通りだと私も思います。

ぬるい自堕落な日々に長く入っていたくなる自分にどう「喝」を自ら与えるか、自然界の厳しい寒暖差の中で生きる野生のいのちのように如何にワイルドに生き抜くか、そこに生きている実感という日常があります。自分で自分を律するというのは自らが決心してはじめの一歩を踏み出し、新たな境地に自分自身の主体性で挑戦するかということです。

子ども達のためにも、自ら主人公になり思いやりに生きる大人のままでいたいと思います。他人から与えられる他律ではなく、まさに自律こそが人生の面白さであり醍醐味です。

実践の意味を深め、実践を高めていきたいと思います。

 

海との再会~愛を体現~

先日、イルカが沢山の浜辺に打ち上げられ亡くなったニュースが報道されました。他にもクジラが浜辺に打ち上げられたニュースもよく聞きます。イルカやクジラと話せるわけではない人間は、磁場が乱れたとか地震が来るとか、シャチから逃げたからだとか様々な推測ばかりをします。

こんな時、私は故ジャックマイヨールを思い出します。

もしジャックマイヨールならこれをどう読み取るだろうかと。昨年の貝との出会いから私の中のジャックマイヨールはとても大きな存在になりました。海と人とのつながりにおいて忘れていたものを思い出したからです。海という感覚を自らの内なる世界観から捉える感性には心に響くものがあります。

ジャックマイヨールは、こういう話をしていました。

「たしかに人間は何万年にわたって、進化を遂げてきました。しかし、決して変わってはいないものがあります。水の記憶です。生命の源です。私達の体や遺伝子の中には、母の子宮の中や海の中で生きていた時代の記憶がはっきりと残っているのです。」

もともと私たちが本来「水棲生物」であった証は、赤ちゃんであったことを思えば自明します。赤ちゃんのとき、私たちは羊水の中でずっと泳いでいるからです。本来は水の中で暮らしてきたことを証明しています。

「私のささやかな経験から言えば、生と死は同じことの、裏と表のようなものです。 例えば赤ちゃんは生まれるとき、同時に死を通過しているのです。子宮の中にいる赤ちゃんは、ちょうどグランブルーの世界にいるときと同じように、完全な平和の世界に生きています。そして、ひとたび誕生の時が来ると、へその緒を切られ、一度死を通過して新しい次元に生まれ出るのです。これは人生も同じです。呼吸というへその緒が切れたとき、死を迎え、新しい次元に生まれ出るのです。魂の世界で、大宇宙の母の子宮に戻るのです。」

この次元で物事を捉えることができるのは自然を体感していたからなのでしょう。深い内省が深淵に近づくとき、人はこのような宇宙観に気づくのかもしれません。そしてイルカやクジラとの対話についてはこう言います。

「鯨達との交感に言葉はいらない。コミュニケーションではなく、ハーモニーするのだ。」

このハーモニーとは、いのちの響き合いのことを言います。お互いに自然に心を寄せるものはまるで一心同体になるということでしょう。佐賀県唐津でのイルカとの出会い、家族との思い出が響き合い初心になってその神秘なまでの海との記憶を美しい心のままに追い求めていたのかもしれません。

イルカやクジラの痛ましい自死のニュースは、これ以上、母なる海を汚さないでほしいという決死の真心の訴えかもしれません。絶対平和を選んだ彼らができることは相手を責めることもなく、自分を責めることもなく、”愛を体現”することであったのでしょう。

彼らにとっては今も未来の私たちも”みんな丸ごと自分の子ども達”です。子ども達に訴えかけてくるその真心や愛を心で感じ取り、本来の自然に学ぶ心を取り戻してほしいと私も一緒に深く祈ります。これはきっと”自然からこれ以上、心を離さないで”という海とイルカからの遺言です。

最後にジャックマイヨールの志の言霊からまだまだ子ども心を諦めないぞという勇気が湧いてきます。

『自然と寄り添い、自然と調和したとき、無限の可能性が生まれる』

3つ子の魂は100までを信じ、御蔭様の使命を信じ人類初心の実践あるのみです。
再会に心から感謝します、ありがとうございます。

新しい生き方と働き方

先日、ある子どもに小学校でのこんな話を聞きました。

小学校ではなんでも一人でできることを重んじ、周りの心配をしていたら「他人のことはいいから自分のことをやりなさい」と先生に叱られるそうです。その子は周りをいつも心配して「大丈夫?」と声がけをしているのですがその際にいつも自分のことを先にやるようにと指導されるそうです。

ふと、疑問を感じることがあります。

確かに、自分のことを自分でできることを自立であると定義しているならば他人の心配をするよりも自分のことをやればいいということになります。同じ目標ならそれぞれが自分のことをやっていれば全体では引き上がるのでできると考えますが、それはみんなが同じことを目指し同じことを周りと同じようにするようなことがある場合に限りです。

しかしそんなことは実社会に出てどれくらい頻度があるでしょうか。実社會に出て人と働いてみたら、多様化した今の環境では誰かと同じことをしている仕事などというものはほとんどなくなっています。ひょっとすると昔は大量生産大量消費で工場のような仕事が多かったのかもしれませんが、今では仕事も時間と共に変化し、昔のままでやって温故知新しないものは時間と共に消失していきます。仕事が消失するのは必然ですからその同じ仕事に固執していたら自分もまた失業してしまいます。

人が学ぶということはこの温故知新を繰り返すということです。言い換えれば自分を毀すということです。新しいことに挑戦し、今までの自分を刷新していくこと。新しい価値観に触れては新しい自分に出会い続けて自分を変え続けていくことです。

深めていかなければならない理由もそこに在りますし、楽しくしていく理由もまたそこにあります。変化は創造であり、変化こそ学問の本質です。

もしも人は同じことを皆がするが最良とするなら今なら精密なロボットで構いません。人間にはそれぞれ無二の個性があり一人ひとりに与えられた天分といった得意、特性があるのだからそれを活かしあうことで複雑なことも成し遂げ偉大なこともできるようになるものです。そしてそのプロセスの中に人間社會の幸福もあるのです。

そのためには単に同じことを行う個をつくり上げるのではなく、異なることを協力する中で自分を発揮して周囲のために活躍できる人の方が本来の集団では役に立つように思います。必死に周りができることと同じことができるようになったとしても、それよりももっとできる人が現れたなら自分は役に立てなくなるというのでは、不安はなくなりませんし倖せもまた感じにくくなります。

人が安心するのは自分にしかできないことが、周囲の人たちのお役に立っていることの実感です。それは単に能力だけではなく、その人の”持ち味が活きている”ということです。そしてその持ち味は、周りのために働く倖せを知っている人たち、そしてその人の持ち味を温かく見守り協力を惜しまない仲間たちによって得られるように思えるのです。それは先述した自分のことをやりなさいということではなく、周りのために自分のできることをやりなさいと言う方がいいように思います。それは不安を解消するために頑張りなさいではなく、安心して思い切りやってみなさいという励ましに似ています。

情報化社会が成熟してきて働き方も生き方も、ものすごいスピードで変わり続ける現代において「変化を教える」というのは何よりも重要なことのように私には思います。それは一斉画一に同じことを教えてできる環境で人を創るのではなく、柔軟性を持ち、いつも周りの変化に対して協力し合える個性溢れる豊かな環境で人を創る方が今はいいように思います。

新しい生き方や新しい働き方を子どもたちが創造していくのを今の大人たちが邪魔しないようにしていくことが将来の日本を世界の中で役立てていく方法ではないかと私は思います。子どもたちのモデルになるような新しい生き甲斐と遣り甲斐を自分たちを温故知新していくことで創りあげていきたいと思います。