自律とは何か

先日、ある学校の入学式で自律ということについて校長から挨拶がありました。その際には、自立と自律の話があり、自律という字をよく見て如何に自分を律することが大切かということについて話がありました。

この自律については色々という人がありますが、私には別に思うことがあります。それを少し深めてみようと思います。

この自律を思うとき、まず心に浮かぶのが己に克つという言葉です。そして次にもっともそれを言い表すのは論語にある「己に克ちて礼に復るを仁と為す」ということです。

これは現代に意訳すれば、小我に打ち克ち大我を生きて自分を自分で甘やかさずに律することができるなら思いやりになりますよということです。これを逆さに読めば、思いやりがなくなれば律することがなくなり、ついには怠惰傲慢になっていきますよという訓戒でもあります。

人は思いやりや真心があるからこそ、自分を周りのために我慢し利他をし役立てようと努力します。その際に自分の中から出てくる様々な言い訳を吹き飛ばし、自分が何をすることがもっとも周りの役に立つのかと実践を励み周囲の勇気になっていきます。

人間は安定して満たされ過ぎると、それが当たり前になり感謝を忘れていく生き物です。如何に自分との正対に人知れずに向き合うかはその人次第ですから、人生は誰にも等しく精進していく機会が与えられているということになります。

西郷隆盛に「自己愛」のことが書かれている一文があります。以前、ブログでも紹介しましたが自分を愛しすぎるなということが書かれている後半の文章があります。そこにはこうあります。

能く古今の人物を見よ。事業を創起する人其事大抵十に七八迄は能く成し得れ共、殘り二つを終る迄成し得る人の希れなるは、始は能く己を愼み事をも敬する故、功も立ち名も顯るるなり。功立ち名顯るるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎の意弛み、驕矜の氣漸く長じ、其成したる事業を負み、苟も我が事を仕遂げんとてまずき仕事に陷いり、終に敗るるものにて、皆な自ら招く也。故に己れに克ちて、賭ず聞かざる所に戒愼するもの也。」

要約すると、最初は慎んで己を律していたものが次第に自分の思い通りになっていくと自己を愛しすぎるようになり怠惰が蔓延り結局は駄目になってしまう。それは自らが招くものだから常に己に克ってひとりの時によく慎みて戒め続けなさいとあります。

自律というものは、つまりこういうことです。

しかし自律の本意はどこにあるか、それは初心を忘れてしまうことかもしれません。日常に満足し、自己を鍛錬することを怠ると次第に何のためにやるのかを思い出すことがなくなってきます。何のために何をするのかが人生ですから、それを忘れるということは日常の安逸に精神が弛んでくるということなのでしょう。

自分が自分でぬるま湯から出る勇気があるかどうかが其処を抜け出す鍵かもしれません。「苦しさには強いが、ぬるま湯には弱い。これが人の心。」と千日回峰行の塩沼阿闍梨が言いましたがその通りだと私も思います。

ぬるい自堕落な日々に長く入っていたくなる自分にどう「喝」を自ら与えるか、自然界の厳しい寒暖差の中で生きる野生のいのちのように如何にワイルドに生き抜くか、そこに生きている実感という日常があります。自分で自分を律するというのは自らが決心してはじめの一歩を踏み出し、新たな境地に自分自身の主体性で挑戦するかということです。

子ども達のためにも、自ら主人公になり思いやりに生きる大人のままでいたいと思います。他人から与えられる他律ではなく、まさに自律こそが人生の面白さであり醍醐味です。

実践の意味を深め、実践を高めていきたいと思います。