人間理解~根源治癒~

人は真心から目の前の人の苦しみを抜き取り少しでも楽にしてあげたいと願うとき、相手の心の深い部分に共感しそれを一緒に理解していこうとします。しかしこの一連のプロセスの中で、自分の中に心を容れてもそれを解決するわけでもなく逃げるわけでもなく、ただひたすらに心に向き合い受け止めようとするとき言葉に表現できないほどの大変な苦労が訪れます。

それはまるで今までの自分のモノの考え方や生き方が掻き混ぜられるような感覚です。どうしようもない怒りや苦しみ、もしくは自責や他責の念、そうでしか生きられれないその人の無念さのようなものが心に流入してきます。

不思議なことですが心を寄り添うとき、信じることは心の支えになりますが不信は逆に心を痛めることになります。心を痛めている人を信じるときは、その人の心が自然に治癒するのを待つしかありません。急いでも焦ってもそれはできず、心を少しでも開いてくれるならその人が転じるための方向性を示すくらいしかできません。

臨床心理の河合隼雄さんは、数多くの人間理解を実践してきた方です。その人の心の苦しみにじっと寄り添い、その苦しみを理解されていた方だと言います。その方の実践から出てくる言葉の重さには、「ああ、そうか」といつも救われる思いがします。

『うっかり他人のことを真に理解しようとし出すと、自分の人生観が根っこのあたりでぐらついてくる。これはやはり、「命懸け」と表現していいことではなかろうか。実際に、自分の根っこをぐらつかせずに、他人を理解しようとするのなど、甘すぎるのである。』

他人を知るなどということは、実際は命懸けのことだと言います。これは私の中では真心がいるということです。真心なしに相手を分かった気になるなど甘すぎると意味です。相手を知ろうとすればするほどに自分の中の悪感情に苛まれます、これはまさに一緒に深い海に沈んでいくかのような感覚です。しかしそこに「きっと私にもわからない大変なことがあったのだろう」と共感し、その人の試練がきっとその人の魂の臨んでいるものだと信じ、それが善いことであったと祈るのです。

人はご縁があることで自分を変えていくことができます。ある人は、”人生が行き詰まるのは進んでいる証拠だ”とも言います。まさに人は自分を変えようと一歩足を出す時、壁が擡げます。その壁を乗り越えていけますようにと真心で祈るときご縁が導く新しい自分に出会うように思うのです。

人間理解ということ、つまりは共感、受容というものはまさに命懸け、真心があってはじめてできるのでしょう。力及ばずにと嘆く気持ちもありますが、謙虚に素直に人事を盡して天にお任せしその人の一生涯を祈ることこそ、真心の道であり、かんながらに通じます。

ふり返ってみると、真摯に全身全霊でご縁を大切にその人のことを祈ったことが結果として偶然に運善く開けるのはまさに何かしらの不思議な御蔭様の力をかりて奇跡の境界線を超えるかのようです。その人の生き方がチェンジするのを見守るとき、”ああ、何者かまた救けてくださって有難うございました”という御蔭様の感謝と真心に出会うだけです。

根源治癒していくというのは、その根をぐらつかせるからこそ根から直します。常に先人の素直な実践を尊び、自らも最期まで丸ごと信じ諦めずにご縁と奇跡に感謝してお任せしていきたいと思います。