実践人~背中で語る~

人はその人の生き方の覚悟が人生の密度を決めているように思います。どんな一日であったにせよ、一日は全ての人々にとって平等な一日です。朝陽を拝み、夕陽を拝めば一日が暮れたことを覚えるものです。その一日をどのように過ごしたか、何を感じて何に気づいたかはその人の学び方、つまりは生き方によって影響をされていきます。大事なことは、その心に何を持っているか、どんな志があるかということになってくるように思います。

生き方を学び、人々にその背中を見せた人物に教育者の森信三先生がいます。教育者というものは、実践人のモデルであるということですが単に生きるのではなく、本気で生きたという姿から私たちは学び直すことばかりです。

「一生を真に充実して生きる道は、結局今日という一日を真に充実して生きる外ないでしょう。実際一日が一生の縮図です。 」

一日一生、言葉は知っていてもどのように真に充実したかはその人にしかわかりません。どのような人生を送ろうかと憧れたなら、気づき学ぶ力を発揮して体験を深めて味わい盡すように攻勢をかけ続ける実践が必要です。

そしてそうやって歩んでいると、出会いがあることを発見します。常に「何かある」と感じる感性は、その物語や出来事に対して主体的に意味を紡ぎ出していきます。それはご縁の奇妙さ、ご縁の有難さ、ご縁の御蔭様に気づくからです。

「縁は求めざるには生ぜず。内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついに縁は生ずるに到らずと知るべし。 」

ご縁とは不思議なもので、何も感じる気がなければ目の前に自分の人生に偉大な影響を与えるかもしれなかった人とも出会う事はありません。ご縁は自分の感性次第、自分の心次第で、いくらでも変化します。

自分自身が、何からも学ぼうと選ばずに来たものを感謝で受け取っているかということは人生全体においてとても大きな影響を与えるように思います。チャンスが来ても気づかない人、チャンスがあっても掴まない人、チャンスかどうかわからなくても自分から掴む人。人は、その人の積極的な姿勢が日々の充実さを決めるのかもしれません。人間は脳で消極的でネガティブなことを考えてしまうものです、危険予測のために体験のイメージを危険を予測するために持とうとします。確かに、それらは自分のいのちを守るために働きますから必要です。しかし、実際の人生ではだからとって消極的でいたらチャンスや気づきにも鈍くなってしまいます。自分の気づきたいものしか気づかない、自分がチャンスと思うことしか掴まないではそのご縁の尊さに気づけなくなるかもしれません。

「人生二度なしという真理ほど、われわれ人間をして人生の深刻さに目覚めさせる真理は、ほかに絶無と申してよいでしょう。 」

人生は一度きり、日々は一期一会、出会いは一日一生、今此処にどれだけ精魂を篭めているかはその人の積極的な学問と学力に懸っています。何のせいにもせずに、唯却下の実践をするということの大切さを感じます。安心する言葉をたくさん残してくださった森信三先生には感謝しかありません。

「キレイごとの好きな人は、とかく実践力に欠けやすい。けだし実践とはキレイごとだけではすまず、どこか野暮ったく、泥くさい処を免れぬものだからです。 」

「人間には進歩か退歩かのいずれかがあって、その中間はない。現状維持と思うのは、実は退歩している証拠だ。 」

先生とは常に実践する存在であることです、いつまでも応援してくださるその愛情深い背中で語る思いやりの言葉を心に抱き、子ども達に背中で感じてもらえるような一人の実践人を志していきたいと思います。

 

自分の道を征く~天分を活かす~

人間は誰もが不平不満というものが出てきます。幸せすぎれば感謝を忘れ、与えられ過ぎれば御蔭様を忘れます。そして自分のことを心配しすぎれば、他人との比較をはじめます。今、あるものがもっとも自分に相応しいとは思わずにないものばかりを求めては努力をしなくなるでは不平不満も悩みも解決することはありません。

この「相応しい」という言葉は、私は実践することではじめて体得できるように思います。実践させていただける有難さ、今の自分のことを深く知り、それを受け容れるからこそ実践を積み重ねていこうと思う気持ちが湧いてきます。

老子にこういう言葉があります。

「足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り」

これは足るを知るということと、志を実践するということは同じであるという境地で語られた言葉です。足るを知るという言葉は、皆が知っている通り、ないものねだりをするのではなくあるものの方を観て感謝していこうとすることです。自分が天から与えられた徳やもっとも相応しい能力を使って、如何にそれを世の中に還元していくかを考えていこうとするものです。

自分が何を天から与えられているか、それを知るために私たちは日々に研鑽を積んでいるといっても過言ではありません。あれもほしいやこれもしたいなど、我欲もあるのでしょうが実際は天から与えられたものとはそれは合わないことがほとんどです。誰かの人生をみてはああなりたいやこうなりたいと憧れもしますが、実際は自分にしかない天命があります。孔子も、五十にして天命を知るというように、実践し研鑽を積み重ねてようやく50歳になった時に天命を知りました。そう簡単に、自分が天から何の命を受けているのかは自分自身も分からないように思います。

だからこそ志が必要です。志を持ち、精進を続けるという境地は自分の天命を信じて自分が何に向いているのか、どこに向かうのかを日々に怠らずに実践を続けることで自分の天命に近づいていくように思います。そこにはないものねだりはなく、あることが有難いと実践させていただけることに感謝の心があります。

以前、教育者の森信三先生が遺したある言葉に出会ったことがあります。そこにはこの老子の境地が書かれているように思い、如何に実践人であり続けるかの大切さ、豊かに富むことと、志を高めることの両輪の価値を再認識したのを覚えています。

人間の偉さは才能の多少よりも、己に授かった天分を生涯かけて出し尽くすか否かにあるといってよい。』

天分を活かすというのは、まずその自分に不足がないと思うことからです。自分に与えられているものはすべて備わっている。だからこそ精進して引き出していこう、それをなんでもお役に立てるのなら立てていこうという心です。古今より、その天分は他人様のお引き立てにより引き出され活かされることが多いと聴きます。独り自ら粛々と実践を続けていると、それを憐れんで助けてくださる方々がいるように私は思います。それはまるで天が、陰ながら一生懸命に真摯に腐らずに素直に純粋に努力する自分のことを可愛そうだと憐れんでくれるかのようです。今の自分が最も相応しいと思えるのも、そういう境地を大切にしたいと思っているからかもしれません。また同時に生き方の先輩の凄まじい覚悟に、志がますます強くなるからかもしれません。森信三先生はこうも言います。

『教育とは流れる水の上に文字を書くような儚いものだ。だが、それを岩壁に刻み込むような真剣さで取り組まなくてはいけない。』

決して報われたかどうか実感できなくても、それでも信じて念じて祈り、そして本気で遣りきっていかなければ何事もはじまらないのだと仰います。これはまた有難い言葉で、大きな勇気と今の自分で相応しいと実践を心より楽しもうといった境地にも入れます。二度とない人生、どんな生き方をしたかどうかが天分を全うすることにつながっています。

この先の時代を生き抜いていく子どもたちの天命のためにも迷わずに自分の道を歩んでいく心の強さ、そして心の豊かさを真心で体現できる自分でありたいと思います。

人為の本質~真心~

無肥料無農薬、自然農を実践しているとそもそもの自然には全て備わっていることに気づくことばかりです。何かを足した方がいいという刷り込みがありますが、何もしない方がいいという価値観になっていくのに気づきます。そもそも何もしないといっても、自然は偉大なことをしてくださっています。

例えば、太陽の光の恵み、地球の水の循環の恵み、風が吹き抜ける恵み、土が発酵する恵み、生物たちの活動の恵みなど、数え切ればきりがないほどに様々な恩恵を受けています。それに比べて人為的なものは、助長することばかりで自然の恵みにはとても敵いません。

そう考えてみると、人間ができることは余計なことをせずに少しだけ手伝うことだけです。幼い頃にどうしても負けそうな時にだけ手を貸してあげたり、弱った時に助けてあげること、後は信じて見守るだけです。

この「信じて見守るだけ」しかないという現実の中に身を置いてみたら、如何にいのちに寄り添うということが何よりも大切なことなのだということに気づきます。

それぞれは自分の主体性で生きています。何もしなくても生きているのは自明の理で、それは心臓が脈打つように、血液の流れが止むことがないように、意識しなくても生きています。自然も同じく、何も意識していなくても生きているのです。

この生きているのだからという絶対観、当たり前の場所で自然は常に変化を已みません。その変化の中で育つのがそれぞれのいのちですから、余計なことをするとかえっておかしくなってしまうかもしれません。それは病気でも同じことです、自然治癒を邪魔することでかえって重大な危篤を招いてしまうかもしれません。

自分の中で育っていないという勘違いや、自分の中でもっと足さなければならないという思い込み、自分の中でできないことは悪であるという刷り込み、そういうものを一つ一つ取り除いていくことで、余計な邪魔をしないで自分らしく自分の成長を味わっていくことができるように思います、そして同時に同じように他を見守っていけるように思います。

自然界の中で私たちは自然が造形した化け物とも言えます。すべてはこの地球から生まれ、植物たちと同じように分化し続けて湧いて出てきたとも言えます。だからこそ偉大な恩恵の中での人為は限りなく最小で限りなく最大なのです。

そしてここでいう人為とは一体何か、それは「心」です。その心を寄せて、心を寄り添わせていくことこそ、私たちができる唯一の人為=真心かもしれません。自然界は、すべてその人つなぎの「思いやり」によって成り立っています。

自然の中での真心を学び直していきたいと思います。

自然の村~生き物の棲む場所~

自然農の田んぼで今年の田植えを無事に終えることができました。苗作りも順調に進み、ここからが本田での見守りに入ります。水田をよくよく観察してみると、生態系が大変豊富で、沢蟹や蛙、ヤゴや川エビ、他にも小さな虫たちが水中で活動しています。また土の中や上には、沢山の種類のミミズや虫たちが生活しています。

耕さないことで、生態系の棲まいをなるべく壊さないで配慮していることで年々のめぐりの中で暮らしを充実させしっかりと繁殖することができるのかもしれません。土が豊かに発酵していくと、生き物たちの暮らしも発酵しているのを感じ、循環をちょっと手伝うだけで自然はいつも応えてくれます。多様な生き物たちの暮らす場所が増えれば増えるほどに循環もまた豊かです。

そう考えてみると、私たちにも家があり住まいがあるように彼ら生き物にもあちこちに棲む場所があります。それは雑木林であったり、池であったり、窪地であったりと、それぞれに自分の特徴に合わせたところに移動してはそこに私たち人間と同じように住まいを創り暮らしを定着させていくのです。

そして食べて食べられる関係がありますから、必ず天敵が近くにいて次第にまた次の天敵を集めては一つの生態系の群がつくりあげられていくのです。そして絶妙なバランスの中で、食べて食べられる関係が必要な分だけになったときその場所は生き物たちの楽園になっていくのかもしれません。

自然界というものは、そのあちこちに生き物たちの住まいがあり群(村)があります。その村の中で、何世代もずっと長く彼らはそこを故郷にして生活を続けていきます。そう考えると、そこに農薬や新種の外来種などが入ってくることで彼らの生活は脅かされるのかもしれません。

昔の日本人は、なるべく自然の姿を壊さないように、生き物たちがあまり死なないようにと配慮しながら農業を続けてきたと言います。そこは排除するのではなく、私たちもその生態系の群(村)の一員に加えてもらおうとするような感覚だったのでしょう。決して全部は貪らず、思いやりの心をもって必ずその生き物たちが棲む場所を失わないように配慮してきました。その一つが、神域とした神籬、磐座、つまり鎮守の杜であり、川、池、樹、岩、つまりは自然の結界でもあったように思います。

この心構えを省みると全部自分の思い通りに進めることが如何に危険で傲慢なことかをきっと先人たちは自然から学んでいたのでしょう。今の時代は、自然をまるで敵ともみなすような技術が蔓延り、拝金主義の都市化された人間中心の社会の中で人間の都合に合わないことが不自然であるかのような価値観が常識になっています。

しかし実際は、私たち暮らしている地球には多様な生き物たちもまた同時に棲んでいますから棲む場所を全て強奪してしまっていては最期には地球は人間だけしか住めない場所になってしまうかもしれません。

あの宇宙空間のどこかの星に人間だけが人工コロニーをつくってみても一時しのぎはできてもそこで悠久に生きていくことはできません。人間のみという生活はできず、地球から野菜から果物、動物や虫、菌類などを持ち込むことではじめて数年は暮らしていけるくらいです。私たちは本来、地球と一緒に暮らしているのだから、そこからいくらミツバチや蝶だけを都合よく連れていったとしても、今の地球のような環境をつくることは不可能ですし愚かなことです。

それに気づいたならば、豊かすぎる今の地球の環境に不満をこぼさず御蔭様と感謝の心で謙虚に大切に他と共生していく道を選んでいきたいものです。子ども達の未来には、どんな世界が遺っているか、人間だけしかいない世界よりも少しでも多くの自然を遺してあげたいと思います。

自然の実践を通して、自分の生き方から引き続き見直していきたいと思います。

犬の記憶~なるようになるさ~

先日、ある本の中でドリス・デイの言葉に出会いました。その本は、「犬が教えてくれたほんとうに大切なこと。」(シンシア・L・コープランド著)という本ですが、私も幼い頃から犬と一緒に暮らして犬から様々なことを教えて貰った記憶があったことを思い出しました。

幼少期から17年、その後は15年、今では6年、人生のほとんどを犬と暮らしています。その犬は単なるペットではなく、自分の人生のありとあらゆるシーンで時には親代わりになり、ある時は親友になり、ある時はメンターになり、またある時は家になるというように自分の心に如何なるときも寄り添ってくれました。悲しい別れもありましたが、それよりも一緒に暮らし散歩したときの当たり前の風景の中にあった倖せの感覚はいつまでも心の中に遺っています。

ドリス・デイの言葉ではこうあります。

「深く思い悩んだときには、ただ黙って献身的にそばにいてくれる犬こそが、他の何からも得ることのできないものを与えてくれる」

何もしてあげられないけれど心全部丸ごと惜しみなく寄せてくれることにどれだけ心は救われるか、犬は愛するもののために惜しみない愛情を与えてくれます。人間が与えているように錯覚していますが、実際に与えられ続けているのは私たちの方でそれに気づかなくなってくるだけとも言えます。感謝を常に受け容れる犬の姿には感動し、学び直すことばかりです。

またこのドリス・デイの歌う有名なものに「ケ・セラセラ」があります。これはスペイン語で「なるようになるさ」という意味です。激動の人生の中で愛を失わず全てを受け容れる、そしてなるようになるさと信じるということの価値を感じます。

歌詞を紹介したいと思います。

「幼い少女だった頃
私は将来何になるのってママに尋ねた
美しくなる? お金持ちになる?
そうしたらママはこう答えたの

ケ・セラ・セラ
何事もなるようになるのよ
未来のことなど予測できないわ
自然の成り行き次第よ

成長して恋に落ちて
恋人に尋ねた
将来は何が待っているの?
日々虹に恵まれた生活を送るの?
そうしたら恋人はこう答えたの

ケ・セラ・セラ
何事もなるようになるのよ
未来のことなど予測できないわ
自然の成り行き次第よ

今は子どもに恵まれて
子どもたちは自分は将来何になるのって私に尋ねるの
美男子になるの?お金持ちになるの?
だから私は優しく答えるの

ケ・セラ・セラ
何事もなるようになるのよ
未来のことなど予測できないわ
自然の成り行き次第よ

ケ・セラ・セラ」

思い悩んでみてもどうにもならないものはどうにもならないもの。人生は丸ごと運任せ、流れる川に浮かべた舟のようなものなのかもしれません。流れ着く先がどこなのか、そしてこの先どうなるのかは何も分からないものです。自分らしくいられずに常識に囚われ不安になれば誰しも未来が心配になったりするものです。

そういうときは、自然の成り行き次第だから「なんとかなるさ」の心で寄り添ってあげたいと思います。自然界は常になんとかなるさで心を寄り添い支え合う仲間たちばかりです。その仲間の一員である人間、自分の存在を間違わないようにしていきたいものです。

今日もなるようになるさと明るく楽しく朗らかに感謝を丸ごと味わう一日を過ごし、心を自然の成り行きに任せていきたいと思います。

徳を尊ぶ

人間に限らず、全ての生き物には何かしらの長所があります。生命というものはそれぞれに自分の得意を伸ばして生き延びてきたとも言えます。自分の得意分野を伸ばしていけばそれが自分が生きていく上での最良の戦略となるのです。

しかし同時に良いだけかといえば、そこには不得意も発生します。その不得意が出ることを気にしていたら何かをするたびに気になって得意を伸ばすことができなくなります。それに自分は得意のそれしかないと覚悟を決めている人であれば諦めもつくのでしょうが他にも得意がいくつもあると思っているから色々と不得意が気になるのでしょう。

老子に「その長ずる所を尊び、その短なる所を忘る。」があります。

この不得意であることを忘れてしまうという言葉はとても意味があるように思います。また、その得意であることを尊ぶということにも重要な観点があるように思います。

自分が天から与えていただいた徳はこれであったとそれをどれだけ自分が尊重しているか、そしてそれが何よりも尊いからこそ他のことを忘れることができるか。そこに本来の強みを活かし自分を役立てる工夫があるように思います。

何でも得意になっているうちに得意がなくなったり、不得意をなくそうと努力しているうちに得意がなくなったでは本末転倒です。得意を見極めるためには、周りの得意を観続ける実践が必要です。そして同時に周りの長所を尊ぶ実力も必要のように思います。

老子の「足るを知る」も同じく、ないものねだりはやめてあるものを如何に活かすかが徳を伸ばし自分を役立てる真髄なのかもしれません。自分の都合が入れば入るほどに短所を視たり、悪いところに見えたりしていきますが本来のあるがままのそれぞれの徳性を重んじていけるような自然体な内観力を磨いていきたいと思います。

 

語る

人は人に「語る」ことで自分の伝えたいことを伝えることができます。この語るというのは、単に説明ができるというものではありません。この語るというのは、自分の「思い」を自分らしく語れるということです。誰かの借り物の言葉で話をするのではなく、それを自分の言葉で自分らしく語るときはじめて語れるように思います。

例えば、自分というものを語るとき、自分がどういう人間で何をしたいのかということを他人に伝えます。自分が今、なぜこれをやっているのか、なぜ今の会社にいるのか、そしてどうしてこれをやり遂げたいのかというのを相手に語ります。その際に、自分の生い立ちや人生体験、気付いたことを自分なりに自分の言葉にできれば「語る」ことになります。

ここでの語るは、「体験し気づいた思いを自分らしく伝える」ということです。

本来、語ることができるというのはその人にしかできなかった体験を誰かに伝えることではじめてその体験が自分以外の誰かと共有できるものになったとなります。人が人に伝える意味というものは、自分がした無二の体験をどれだけ周りと一緒に共有しようとするか、大切な気づきや大事な学びを分かち合おうとすることです。

そしてそこで語られることがもし夢があるものであれば、人々はその夢を信じるようにも思います。その人の夢が語られるとき、そしてその夢を信じるとき、御互いがはじめて本心で語り合うことができるようにも思います。

その人が語れるのはそれだけ人生の体験を意味づけし、その体験に感激し味わって自分の言葉で語れるからです。すごいなぁと感動したことや、これは本物だ!と心が揺さぶられたり、解決はこれだ!と魂が揺さぶられたりした、心の衝動や感動、感情も全て含めて納得した自分の答えがあるからこそそれを語れるのです。

自分の人生体験を体験するのは自分が体験しようと強く体験を求めていかなければ体験できません。誰かの体験を教えてもらってなんとなく疑似体験を空想でコピーしてみても、それはその人らしい体験をしたわけではありません。その人の体験に憧れるからこそ、自分も同じような体験がしてみたくなるのです。またその人にしかできない体験だと感じるからこそ、その人の有難い体験を分かち合える仕合せを感じることができるのです。

相手の気づきの深さが分かるようになり、それを語れるようになるには長い時間がかかります。相手と同じ実践を味わい、相手が気づき悟った内容と同じ次元で物事を理解するというのはご縁がなすことのようにも私は思います。

多くの人に夢を語りながら、その体験を自分もやってみたいと思われるような夢を育てて伝えていきたいと思います。

伸びる人~植物から学ぶ~

先日、「伸びる人」について考える機会がありました。伸びる人の第一条件とは何か、それは「言い訳をしない人」であると言います。言い訳をしないというのは、誰のせいにもしない人ということで自他のせいにしない人のことです。

確かに周りのせいにしたり何かのせいにしたり誰かのせいにしてたら、自分が変わろうとはしなくなっていきます。自分が正しいのに周りが合わせないのが悪いんだとどこかで思っていたら自分が伸びることをやめてしまいます。健やかな成長というものは、自分を直し続けることに余念がないということなのでしょう。

そしてこの伸びるということについて考えてみると、私たちの身近にもっとも参考になる先生がいることに気づきます。それは植物たちです。

植物たちは自然界の中で思い通りにはいかない日々を送っています。強烈な日差し、梅雨の長雨、強風や霜、豪雪から病害虫の到来、動物や人間からの奪取まで、数えきれない困難の中で自分の一生を遂げなければなりません。種から芽を出し、花を咲かせ実をつけてまた種になるまでに数々の困難が待ち受けています。

もしもその植物たちが「言い訳」を覚えるならばどうなっているでしょうか。少し考えただけでどうなるのかは明白です。

植物たちというのは、自然の恩恵の中で自分の方を変化させていきます。どんな天候であれどんな環境であれ一生懸命にその中で自分を変化させては伸びようとします。この伸びようとするというのはまるで自然界への不平不満で自然界の方が悪いんだと文句を言うのではなく、むしろ全て丸ごと恩恵感謝であることを忘れずに自然界に合わせて自分の方を正しく変化させていこうという素直な姿です。

その素直な姿があるからこそ、正しく直し続けようと伸びる態度が泉のように滾々と出ているのでしょう。植物たちのように一生涯、産まれ落ちた場所からほとんど動かないからこそ、自分を変化させることで自然循環の輪の中にピタリと入っています。

人間は言い訳をする生き物ですから、言い訳をしないように準備を怠らないようにしたいものです。心が着いてきているのと、心を亡くし追われているのではその伸びる機会をも見失っているのかもしれません。常に何が来ても順応するという柔軟性は、常に何がきても自分の方を変えるという準備を怠らないということでしょう。準備を怠らない人は言い訳することがありません。来たものを選ばずに、自分を変えるというのは真摯に伸びようとする自然の心、正直の実践です。

正直ものというのは、目先では損をしているようでもあの植物たちのように長い目でみたらみんな大変なことに適応し、徳を積み、長い期間この地球で生命たちの循環のお役に立っています。

植物の生き方を見習い、伸びていく尊さを大切に伸びる人の徳を積み重ねて成長を磨いていきたいと思います。

自分に正直~自他信頼の境地~

先日、自分との信頼関係の築き方が他人との信頼関係の築き方であるという話をお聴きする機会がありました。つまりは自己信頼=他己信頼といことなのでしょう。これを少し深めてみたいと思います。

たとえば、「他人のせいにする」という生き方があります。これは何かの事物があったとき、すぐに環境のせいとか、誰かのせいとか、忙しさのせいにします。これは幼少期から沁み付いてしまうもので、叱られて嘘をついたり上手くいかないときに言い訳をしたりしているうちに次第に甘えが入り自己形成に沁み付いてしまうのかもしれません。そしてこの「他人のせいにする」に落とし穴があるのは、他人のせいにはしないと自分で思っている人でも「自分のせいにする」ということも「自他のせい」は変わりませんから結局は同じ甘えに陥ってしまうことです。

自分への甘えが入ってくると斜めに物事をみてしまい、何を直せばいいかが分からなくなります。素直になれないと物事の実相は正しく顕れず、そのことから迷い惑い自分を見失ってしまいます。そういう時は一度立ち止まって、自分は今、正直かどうか、誰のせいにもしていないかと自分を見つめ直す必要があるように思います。

この「自分に正直」というのは、誰のせいにもしないということでありそれはお互い様なのだからお互いに素直に実践を積み重ねましょうという境地です。そして自分に正直であるというのは自己信頼にとって何よりも影響を与えます。自分というものをどれだけ丸ごと認め、自分を信じて実践を続けるか、そこには心が決めた覚悟に対してその自分の努力を肯定しています。誰のせいにもしないというのは、自分が甘えなければいいということであり、直すのは自分自身であると常に自己発奮し自助努力する心の態度を優先するということです。

人は誰もが目標に挑む際には、みんなそれぞれに足りない中でも必死に努力しているものです。そういう仲間や師友にめぐり会えることは稀ですがもしも得ているのならみんな自他一体の克己の勝負をそれぞれに続けているものです。誰かのどうこうではなく、自分はどうありたいかということを何よりも重んじ、自分がそうなっていくことに余念なく精進します。これが道であり、道は自分の足で歩むからこそ前進している実感があるのです。

自分の思い通りにいかないことを他人のせいにしたくはなりますが、しかし思い通りにいかないからこそ思った以上のご縁に出会える。そしてそこにはやはり自分を甘やかさない自己信頼があって同じように他人に対しても甘やかさない他己信頼があるように思います。ご縁に気づく感性というものも、この自分に正直である人でなければなかなか磨かれないように私は思います。

つまりは「自分に正直」であることこそが、何よりも「自他信頼の境地」でありそれは天に対しても誠であるという真心の実践者のことです。まさに孟子にある「仰いで天に愧じず、俯して人にはじざるは二の楽しみなり。」の嘘のない楽しい人生道場です。

自分の決めた自分の在り方に対して嘘をついたり誤魔化したり言い訳したりしないでいいように、初心で決めた実践を感謝で愉しみつつ、日々を精進していきたいと思います。

独りと仲間の合一

人間は一人ではできないことを仲間と協力してできるようになります。自分一人でできることなどは実際にはほとんどなく、多くの人たちの力をお借りしてはじめて事は為されていきます。人は傲慢や慢心になるとき、焦りが生まれそして役に立つということの本質を忘れてしまいます。感謝の心があるからこそ人は自分が何の役に立っているかを自覚し、御蔭様の心を知るからこそ素直に自分が役に立てていることの倖せを実感できるようにも思います。

人は自分と向き合い自分に打ち克つ孤独な精進を積み重ねていかなければ、結局は矛盾を受け容れられず刷り込みに負けてしまいます。本来の焦りや慢心とは、自己との対話や自己への内省といった本質からブレナイ実践を猛特訓して本来の自己や自信を確立していくしかありません。本当は何かと自ら深めているからこそ、ものの本質を見抜き見通し心が強くなり自分を強くしていくことができるのです。そこには自己への甘えを断つ必要があり、自分を自分で甘やかさないとった自律と自立の精神が必要です。根性もここが必要で根気をもって日々に実践をしていき、不満なら実践を高めて厚くし増やしていけばそのうちその人格が磨かれていくように思います。

しかし今度は仲間との信頼関係は、敢えて甘え合える関係を築けなければなりません。自分からどれだけ胸襟を開き、心をオープンにして、共感し、気遣い、他人ごとにせずに、絆やつながりを切らさないように助け合い、信じて、預けて、任されて、頼まれて、認められ、愛されて、感謝されるような関係を創造し築き続けなければなりません。それは仲間を心から信頼し、心から仲間に信頼されるといった絆を結ぶ心が必要になります。本来の思いやりもここで必要で、思いをもった人たちと一緒だからこそ、仲間の「思い」を大切に思いやり続けて真心で自分のもっとも得意なところや持ち味を最大限活用して貢献していくことに集中することでその人格が周りに認められていきます。

そもそも感謝の心というのは、猛特訓できる仕合せ、仲間がいる仕合せを感じているものです。自分が道に入り、道を歩けるのは果たしてだれの御蔭なのか、そして道を独立自尊して歩み続けつつも、そこに学問を朋にする同志が一緒に歩んでくださることも、それは本当に有難いことであると思います。

何を見失うから当たり前のことが観得なくなるのか、それは足るを知らず、ないものねだりをしては完璧を目指し評価ばかりを気にするから自信がなくなるのです。本来は足るを知り、自分に与えられた天分をどれだけ周囲に役立てているかは自分が自他をどれだけ自ら尊敬しているかに由るのです。

子どもに譲ろうとしている生き方と働き方があるからこそここに一切の妥協があってはならないと思います。譲っていく真心は、己を忘れ周りのために真心を盡すことで子々孫々へとその「思い」が継承されていくように思います。

日々に何を優先しているかはその人の生き方や働き方に出てきます。自分の生き方や働き方を日々に内省してチェックし、改善を続けてもっとも至善な生き方、もっとも自然な働き方にチャレンジしていきたいと思います。