自然の実践~積小為大~

自然農の実践に取り組む中で、年数を積み重ねていくと年々変わっていく姿を愉しむことができます。

例えば、雑草の種類なども最初は根強い雑草で大変だった場所も一年間作物をその場所で育てたならばその作物と共生関係がある草たちが周りに定着していきます。最初は水田でもなかった場所を開墾し、一年間自然農で水田を維持しているとそこに豊かな生態系も発生してきます。

そして翌年にはその卵や子孫たち、またはその生き物につられてともに循環する食べ食べられる関係のものたちが次第に増えていきます。今まであった生き物たちは減り、新しい生き物たちの新しい住まいになります。そして1年、また1年とめぐりを共に積み重ねていくことでその場所は安定し、そこは人間と作物を中心にした他の生き物たちを邪魔しない倖せの楽園になります。

つまりは中庸、「バランスの維持」をはじめるのです。

自然に任せるというのは、くり返し手間暇をかけて実践を積み重ねていくことです。いくら速く急いでと頭で焦ってみても、自分勝手な変な技術が身に着くだけです。そうやって無理に除草や防虫に苦心していたら、そのうち作物がうまく育たないからと除草剤や農薬、科学肥料を使いたい執着に囚われて便利か不便かと頑なになるだけです。もしも一度でも使ってしまうと、そこには共生の生き物たちではないものばかりが集まってきますからまた別のモノを使って追い出さなければならなくなります。

これは人間の我欲にも似ているように感じます。

人間の我欲も、自分がその我を丸ごと認めず速く急いでと焦ってしまえばそのうちできることの実践を積み重ねて人格を磨くよりも、もっと簡単便利に実践せずに上手くいく方法ばかりを探してはどこかすぐに実現できるような方法論には挑戦しても自らの実践は怠り減らすようになります。そのうち我に呑まれて決心したことも忘れてしまいます。

同じように一度そうやって怠ると自然農のように手間暇の除草や手塩にかけて見守り作物そのものの育成をカバーすることよりも、その作物が弱いからだとか周りの環境が悪いせいだとか自分を変えること以外のことに終始するばかりです。

自然を相手にするとき、「自然を無理に征服するのか」、もしくは「自然に従い応じて任せつつ自分の方を変えるのか」はその人の生き方次第です。しかし前者は我との戦いのように常に自分を責めては他人を責め、速く結果を出して成功するためにこれでもかこれでもかとあらゆる方法論を考えては頭が痛くなり困ってしまうばかりで停滞します。後者は我があることも自然であると丸ごと認め、その我に応じて従い無理をせずに融通無碍に素直に自分が変わることを愉しむことで誰のせいにもしなくなり、弱くても丸ごと認めることができるように思うのです。

自然農の実践をしていていつも有難く感じることはまったく自分の思い通りにはならないことです。しかし同時にそれでも信じて続けて自分を変える方を実践していたら、自分の思った以上のことをいつもしてくださっていることに気づき深い感謝の心がしみじみと湧いてきます。自分が傲慢にならないように教えてくださり、自分が中心にならないように助けてくださり、自分ばかりを優先しないようにと諭してくださっている。

本来、何が自然だったのかを感じられることは「変わる倖せ」を謙虚に感じられる自分の時に味わえます。真の教えに出会うときもそういうときですし、ご縁のつながりに気づけるのもそういうとき、一期一会の今を得られるときもまたそういうときです。

常に自分を下座におけるのは、自然に沿った生き方がしたいと憧れ決心した日があったからだと思います。まさに自然の実践とは「おれがおれがの我を捨てて、おかげおかげの下で生きる」働き方そのものです。

今年もまた少しだけ昨年よりも拡張し様々な稲と、様々な苗、そして数々の自問自答に挑戦ますが、ちょっとずつ増えていくことや少しずつ積み上げていくことの醍醐味、その妙味をたのしみながら確実に自然の技術を体得し実力を磨き高めていきたいと思います。この「ちょっとずつ」もまた自然の智慧の一つであり、ちょっとずつだからこそ変化が確かに観得るからです。

常に真心は芭蕉の「古人の跡を求めず 古人の求めたるところを求めよ」の中です。人類の刷り込みを取り払うのは何が自然かに自分自身の布置を正しく定めてからです。

子どもたちに譲る世の中のためにも、二宮尊徳の積小為大を実践をより深めて学びをものにしていきたいと思います。ありがとうございます。