自然の村~生き物の棲む場所~

自然農の田んぼで今年の田植えを無事に終えることができました。苗作りも順調に進み、ここからが本田での見守りに入ります。水田をよくよく観察してみると、生態系が大変豊富で、沢蟹や蛙、ヤゴや川エビ、他にも小さな虫たちが水中で活動しています。また土の中や上には、沢山の種類のミミズや虫たちが生活しています。

耕さないことで、生態系の棲まいをなるべく壊さないで配慮していることで年々のめぐりの中で暮らしを充実させしっかりと繁殖することができるのかもしれません。土が豊かに発酵していくと、生き物たちの暮らしも発酵しているのを感じ、循環をちょっと手伝うだけで自然はいつも応えてくれます。多様な生き物たちの暮らす場所が増えれば増えるほどに循環もまた豊かです。

そう考えてみると、私たちにも家があり住まいがあるように彼ら生き物にもあちこちに棲む場所があります。それは雑木林であったり、池であったり、窪地であったりと、それぞれに自分の特徴に合わせたところに移動してはそこに私たち人間と同じように住まいを創り暮らしを定着させていくのです。

そして食べて食べられる関係がありますから、必ず天敵が近くにいて次第にまた次の天敵を集めては一つの生態系の群がつくりあげられていくのです。そして絶妙なバランスの中で、食べて食べられる関係が必要な分だけになったときその場所は生き物たちの楽園になっていくのかもしれません。

自然界というものは、そのあちこちに生き物たちの住まいがあり群(村)があります。その村の中で、何世代もずっと長く彼らはそこを故郷にして生活を続けていきます。そう考えると、そこに農薬や新種の外来種などが入ってくることで彼らの生活は脅かされるのかもしれません。

昔の日本人は、なるべく自然の姿を壊さないように、生き物たちがあまり死なないようにと配慮しながら農業を続けてきたと言います。そこは排除するのではなく、私たちもその生態系の群(村)の一員に加えてもらおうとするような感覚だったのでしょう。決して全部は貪らず、思いやりの心をもって必ずその生き物たちが棲む場所を失わないように配慮してきました。その一つが、神域とした神籬、磐座、つまり鎮守の杜であり、川、池、樹、岩、つまりは自然の結界でもあったように思います。

この心構えを省みると全部自分の思い通りに進めることが如何に危険で傲慢なことかをきっと先人たちは自然から学んでいたのでしょう。今の時代は、自然をまるで敵ともみなすような技術が蔓延り、拝金主義の都市化された人間中心の社会の中で人間の都合に合わないことが不自然であるかのような価値観が常識になっています。

しかし実際は、私たち暮らしている地球には多様な生き物たちもまた同時に棲んでいますから棲む場所を全て強奪してしまっていては最期には地球は人間だけしか住めない場所になってしまうかもしれません。

あの宇宙空間のどこかの星に人間だけが人工コロニーをつくってみても一時しのぎはできてもそこで悠久に生きていくことはできません。人間のみという生活はできず、地球から野菜から果物、動物や虫、菌類などを持ち込むことではじめて数年は暮らしていけるくらいです。私たちは本来、地球と一緒に暮らしているのだから、そこからいくらミツバチや蝶だけを都合よく連れていったとしても、今の地球のような環境をつくることは不可能ですし愚かなことです。

それに気づいたならば、豊かすぎる今の地球の環境に不満をこぼさず御蔭様と感謝の心で謙虚に大切に他と共生していく道を選んでいきたいものです。子ども達の未来には、どんな世界が遺っているか、人間だけしかいない世界よりも少しでも多くの自然を遺してあげたいと思います。

自然の実践を通して、自分の生き方から引き続き見直していきたいと思います。