心の実践~誤魔化さない~

自分自身であるというのは、自分を誤魔化さないということでもあります。周りに合わせて自分をつくり自分の評価が下がらないようにいつも誤魔化していたらそのうち本当の自分のことも分からなくなってしまうものです。

例えば、最初から今の自分のようになったわけではありません。今の自分のようになったのは何かの体験や経験から今のようになっています。本来、幼児期の子ども達は自然の姿に近いものでそれぞれが自分のままあるがままが出ています。しかしそのうちに何らかの教育を施され、気が付いたら何かに合わせている自分になっているものです。

何に合わせているのかはその人の先入観と思い込みですから、合わせているものが取り払わられない限りいつまでも刷り込まれたものは残るように思います。もしもそれに気づいたならば如何に自分を自分で誤魔化さないかということが大事であろうと思います。

誤魔化すという字の語源は、二通りの説があると言います。ひとつは、祈祷の際に焚く「護摩(ごま)」に、「紛らかす(まぎらかす)」などと同じ、接尾語「かす」が付き、ごまかすになったとする説。これは弘法大師空海の護摩の灰と偽り、ただの灰を売る詐欺がいたため、その詐欺を「護摩の灰」、その行為を「ごまかす」と言ったことからであり、もうひとつは、「胡麻菓子(ごまかし)」を語源とする説で「胡麻菓子」とは、江戸時代の「胡麻胴乱(ごまどうらん)」という菓子のことで、中が空洞になっているため、見掛け倒しのたとえに用いられたことによるそうです。

どちらにしても、正直ではないという意味です。自分の都合やとはいえを持ち出しては、心のままであることを我慢する。心が思ったことに正直であるよりも、世間の評価や周りの目を気にしては自分を出さないということです。

こうやっていつまでも誤魔化していると、そのうち誤魔化した方が自分になり、本来の自分が何だったのかすら忘れてしまうことになります。だからこそ、自分が心で思ったことを自らが実践していくということ。誤魔化さず、正直に自分の信じたように信じて行じていくということが本来の自分を取り戻す方法のようにも思います。

自分が心で思ったことを如何に行動に移したか。それはやってみたいと思ったことを周りに伝えて、思い切ってやってみた質量に比例するのかもしれません。周りに合わせて我慢してきた分だけ、自分自身を出せなくて苦しそうな人たちをたくさん見かけます。

刷り込みや先入観、常識に囚われて希望を持てなくなってしまう人もいます。子ども達、あの幼児期にはそんな子どもはほとんどいませんから後天的に沁みついていくのでしょう。その心の沁みつきに負けないように、自分の心の赴くままに行動してもいいと見守る安心できる環境があることでその人もまた救われるかもしれません。最初からあった自由をどう取り戻すのか、周囲の大人たちの目覚めに懸っているようにも思います。

心で思うことをカタチにしていくことは自分の心を解放していくことなのかもしれません。子どもたちのように心を解放し自分を開放していくことが、思いやりにつながり、絆を深め、みんなを安心させ、みんなのお手本になっていくのかもしれません。

日々の心の実践を優先していきたいと思います。