禍福の道理

人間万事塞翁が馬の故事「福いは禍いの門なり。是は非の尊なり。治は乱の先なり。」にあるように、一見、禍だと思ったことが実は福であったということが人生では沢山あるものです。

まるで「禍福は糾える縄の如し」のように、縄をあざなえば上下が交代で発生するように禍福もそのようなものであるということです。この禍とは何か、それは福のことです。そして福とは何か、それは禍のことです。

自分を中心に物事を考えていけば、自分にとって禍だとするときそれは周りにとって福になることもあり、自分にとって福であるのは周りにとっては禍であることもあるのです。そしてそれは自分の人生においても同じく、禍福は常に入れ代わり立ち代わり交換しながら訪れてきます。

例えば、一人の人生においては苦難や失敗があったおかげで気づかなかったことに気づき、それを努力し乗り越えて転じるとき、善いことになるものです。または逆に、楽をして上手くいったからと福を満喫しているうちに見落としたことが増えて気が付くとそれで転落することになるものです。そもそも禍も福も同一のものであり、それを如何に過ぎないようにするかが禍福合一の境地のようにも思います。

二宮尊徳は夜話の中で禍福一円をこう語ります。

「禍福二つあるにあらず、元来一つなり。」と。

その上で例えとして、包丁で野菜を切るときは福だが指をきれば禍になる。柄をもって切るか、指を切るかの違いだけだといい、次に水を使った田んぼの畦の例えから、畦があれば田んぼは肥え、畦がなければ田んぼは痩せる、その違いは水は同じでも畦があるかないかのみとしました。さらには富も、自分のために使えばそれは禍になり、他人のために使えば福になるとし、同じく財宝も貯めて使えば福になり、貯めて使わなければ禍になるとしました。

これが禍福の道理であると言います。

結局は、禍福とは同一のものでありそれはその人の転じ方次第でどちらにも観得ということです。禍福が問題ではなく、如何に「活かすか」にかかっているのが運であるように思います。どんな運もその運を伸ばしていくかいかないかはその人の覚悟した生き方や実践が決めるようにも思います。

禍転じで福にする、禍福一円観の心境というものは如何にめぐってきた運を選ばずに受け入れて前進するかということに似ています。

この禍福の道理に従って、あるがままにありのままに運と一緒に歩んでいきたいと思います。

対話の意味

これからの時代は人の心と心を如何に結び人間らしさを磨いていくかが求められるように思います。ロボットや機械の発明も進み、ますます人間とは何かとうことがはっきりと浮き出てくると思います。人間力を高めていくことで、将来、人間にしかできないことが分かり、人間はその時、本来の人間としての生活や暮らしの本質にもう一度原点回帰する日が来るように思います。

その日が来るまでに如何に自分の心を高めていくかは、人々との対話やつながりをどう結び一緒に暮らしていくかにかかっているように思います。対話というものを人々がやめるとき、そこには孤立が待っています。孤立とは不幸な姿です。如何に孤立せずに仲間をつくっていくか、古代から今に至るまで私たちは仕合せな暮らしを地球上で行ってきました。そこには常に対話があったように思います。対話の重要性とは、人と人との間で生きる私たちの智慧そのものです。

対話といえば、先日社内のクルーから「聴き合うこと」という言葉がありました。傾聴共感受容が感謝の高みまで昇華されると、聴き合いたいと心が感じるように思います。結論を急ぎ結果を焦るよりも、仲間がどのように考えているのかを聴きたくなるからです。聴きたいと思う人は、自分を変えたいと思っている人です。自分で変えたいと思わない人は、対話をしたくはありません。むしろ自分の考えや自分の能力を頼りにして、対話を避けたいと思うようになるからです。対話は心を開かなければできませんし、対話は心を伝えないとできません。対話しようとする心構えというものは、いつも心から信じているという証になるのです。

そして対話について江戸時代の肥前国平戸藩の第9代藩主の松浦清が戦国時代の武将のやり方を「ホトトギス」を使って比喩している言葉が遺っています。有名なのは織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康ですが私がもっとも好きなのは加藤清正の在り方です。

「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長)
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉)
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康)

これらは有名でホトトギスが鳴かなかったならこの3人ならどうするかということを比喩します。それぞれのやり方があって天下統一しましたが、自分ならどうするかと考えるものです。

そして加藤清正の方にはこうあります。

「鳴け聞こう わが領分の ほととぎす」 加藤清正

これは意訳ですが「仲間たちの声を聴いて各々が自分の力の及ぶ範囲で尽力していこう」という意味です。加藤清正という人物が如何に衆知を集めてそれを発展と繁栄に活かしたかが分かります。

自分の姿勢が後々にどのようになるか、歴史はそのままに教訓でもあります。清正の姿勢で学ぶ中に「上一人の気持ちは、下万人に通ずる。」があります。自分の心構えや姿勢が周りに与える影響は大きいからこそ、どんなときも油断大敵と備えることに抜かりがない透徹ぶりが、忠義の誠を育んだのかもしれません。

対話の意味について、これからもう少しまとめてみたいと思います。

 

ちょっとずつ~自然のハタラキ~

自然界というものは、「ちょっとずつ」みんなで分け与えながら存在しているものです。あまり大きくはせず、あまり無理もせず、あまり欲張らず、いつもちょっとずつのハタラキの中に存在しているように思います。

もしもこの世に時間という概念がなく、終わりも始まりもないとしたらそんなに急ぐこともないように思いますし、焦る必要もないように思います。その急ぐ焦るの気持ちはどこからくるのか、それは自分への執着によっておこるようにも思います。

自然の生き物たちは、まるで大樹の根が長い年月を経てゆっくりとじっくりと張り巡らすように、まるで雨だれが長い月日を経てポツリポツリと石を穿つように悠久の年月に「ちょっとずつ」取り組んでいきます。

自分が生きていると思っている存在と、周囲に活かされていると感じている存在。

一見しては同じように観えていても、その心は生長はまったく異なる次元で存在しているようにも思うのです。ちょっとずつ歩んで往く姿というものは、外から見れば平凡で何も変化のない愚鈍にも見えるかもしれません。しかし実際の自然の姿から観ていたらその志や信念足るや非凡そのもの、力強く芯が思いをカタチにしていることを実感します。

如何にちょっとずつ進むかは、その人の信念の強さ、また心がけの正直さによるのかもしれません。自然から学び何よりも感動したのがこの「ちょっとずつ」という真実です。

まだまだ我欲や執着、思い込みや固定概念が抜けずに煩悶とする日々ですがそれもまた自然を学び直す教材の一つと受け容れ、引き続き実践を発明していきたいと思います。

誠の道~自然物の心~

人は自然の中に入ることで、何が自然で何が不自然かということが自明してくるものです。教えられた知識や、どこかで刷り込まれた常識ではなく、そもそも自然がどのように働き、どのように存在するかに合わせればそこには偉大な恩恵の中にあることに気づきます。

昔の人は、それを天とも言い、その天の道である誠は己の中に具わると示しました。それは自分も自然の一部であり、この生きている姿そのものが自然であるからです。呼吸をし、水を巡らせ、体験のあらゆるものを感じ取る、まさに自然物です。

中江藤樹の学問にこのような言葉が遺っています。

「天地の間に、己一人生きてあると思ふべし。天を師とし、神明を友とすれば外人に頼る心なし」

自然物の学び方として、如何に天を師にし周りの自然物から学べばそれこそ真実を得るということでしょう。草を草とみたり虫を虫とみるではなく、そのもののその姿すべてから同じように学べば徳が自らにあることに気づけます。

なぜあのような姿かたちになっているのか、なぜあのように生きているのか、静かに自然を見つめていくと其処に具わった徳に気づけます。その徳をどう活かしていくかが、私たちが天に対して誠を実践していくことのように思います。

「はかなくも悟りいづこと求めけん。誠の道は 我に具はる」 

誠に道は、生きている自分にこそあるという境地です。

「天地の大徳を生といふ、人之を受けて以て孝徳となす」

そしてこの生きている自然物が大徳であり、その中で活かされて徳を盡すことで孝行ともなります。自然物は一切の無駄はなく、ありとあらゆるものが結ばれて存在していますから自分の徳を盡せば盡すほどに周囲に好循環を与えていくものです。

真摯に自分を生きる仕合せというものは、その心の誠に出会うことかもしれません。それを致良知といい、心を清め澄まし、汚れを取り払っていくことで正直になることだと言います。

正直さというのは天地の道ですが、その正直が分からなくなっていくのが心の汚れであろうと思います。それを学問をすることで如何に徳を磨いていくかが本義なのです。そして中江藤樹はこう言います。

「人生の目的は利得ではない。正直である、正義である」

「正直である」という言葉、正義であるという言葉。

ここが如何に自然物と一体になっているかということを感じます。自然物はみんな正直であり、そして正義です。その周りの自然物をみてみたら、如何に自分が歪んでいるか斜めに物事をみているかに気づくものです。

ありとあらゆるものが自然そのものになることが誠の道です。如何にそこから離れないように日々に意味を感じ、体験に気づき、そして改善するかは人生道場の修行のようにも思います。

誠の道を確かめつつ、自然物の心のままに歩んでいきたいと思います。

まさかの坂道~御蔭様で歩む~

生きていると様々なことが発生します。以前、人生には三つの坂があるという話を聴いたことがあります。一つ目は登り坂、二つ目は下り坂、そして三つ目がまさかの坂という坂があるそうです。人生は登り下りだけではなく、まさかといった予想していなかった出来事に遭遇するという話です。

よくよく振り返ってみると、計画通りにいくことなどはほとんどなく、いつもまさかこんなことがという出来事に出会います。それは人の出会いでも、学びの出会いでも、仕合せとの出会いなどもそうです。

私たちは気づいていないだけで、人知れず多くの御蔭様の助けによって日々を生き抜いていくことができます。御蔭様御蔭様でと御蔭様を唱えて生きる人には、どんな時も見守ってくださっている存在に気づき自然とそのまさかの有難さに気づけて感謝を忘れません。しかし自分の思い通りに行くことばかりをのぞんで得手勝手にふるまってしまう人にはそのまさかは予想外の出来事に映るのかもしれません。

そもそも当たり前ですが坂道というものを登ることも下ることができるのも自分の”からだ”があってのことです。その”からだ”は、数々の恩恵をもって与えてくださった唯一無二のものです。その自分が恩恵に活かされているからこそ体験もでき、死んでしまってはその体験すらもできません。この生きている、活かされているという存在そのものへの感謝があってこの世で様々な体験をさせていただけることが御蔭様のちからの一つであろうと思います。

そして人はその体験をしたいからこそ坂道を歩みます。いくら大切な人であっても、その人が体験したいものを代わってあげられることもなく、その人が乗り越えようと必死にしているものをやってあげられることもなく、ただ自分にできるのはその人のことを丸ごと信じて見守ることだけです。

この「見守ることだけ」という心境は、御蔭様の存在の心に似ている気がするのです。

私たちはこの世で好きな体験を自由にさせていただけます。その自由にさせていただける私たちは地球にとっては子どもたちのようなものです。その子どもたちはいかに生きて体験していくのかは母なる地球が見守ってくださっています。地球がなくなれば私たちも好きなことができず、父なる宇宙の見守りがなければ私たちは存在すらできません。まさに「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」です。

如何なる坂道であったとしても、天から与えていただいている尊い坂道。御蔭様御蔭様と唱えながら歩んでいきたいと思います。当たり前ではない環境があって、悩むこともできるという有難さ、思い通りではない有難い御蔭様に感謝してもったいない学びを味わっていきたいと思います。

全ての出来事には確かな意味がありますから、その御蔭様と人と人との出会いと別れにある御互い様を忘れずに初心を守っていきたいと思います。

自然の道~御恩に報いる~

天地の間には自然の道というものがあるように思います。

これは地球の中にいて地球の一部として生き活かされる存在だからこそ、そこには確かな法理(ルール)があります。それが自然の道というものです。

例えば、自然はそのままにしていればそれぞれに生き物たちが移動して自由勝手にその場に生息していきます。そこにもし人が入り、全部を排除して好き勝手したらその環境が崩れてしまいます。そこには自然の中で自分を活かそうとすることで周りに貢献するという法理(ルール)が働いていることに気づきます。

全ての生き物という生き物は、一生懸命に自分を生き切っていますが自然の道から外れることはありません。地球の中で天から与えてもらったあるがままの自分の持って産まれた持ち味を最大限活かしつつ生き抜いていくからです。その時点で、不自然なことはなく自然の中で自分を出し切っていますからそれが地球の自然循環に叶うのです。

太古の人は、自らでその自然の中でどこまでが許容されるのかを観察し適切に自然の法理(ルール)から離れないように自分たちのやりたいことを実現していました。周りを壊し過ぎず、分度を保ち、自分たちがどのくらいまでやっていいのかを自覚していました。まるで近江商人の実践していた「三方よし」のように、常に「みんなにとって善いか」ということを最大限優先して生きてきました。

自然界というものは、自分(小さな自我の価値観)を優先したらどうなるのかをルールによって自覚できるようにできています。そこには生成するものは全て滅する理によって自滅することを自覚するからです。如何に自分だけがよくならないように、全体(みんな)にとってどう自分を使っていくといいのかを優先しているのです。それが嬉しく楽しくありがたく仕合せであることを自然の本能が知っているたからです。

今の人たちは自然と対峙した刷り込みから、自分、自分、自分と自分のことで頭をいっぱいにし、自分自身の存在を勘違いしています。本来は天道は、御蔭様の心でもったいなく謙虚に自分の使命をさせていだたけることに感謝で実践し、人道はお互い様の心でありがたく素直に自分を周りに役立てていく報恩を実践していくことです。そしてこの「謙虚と素直」が自然の道、私の言葉では「かんながらの道」になります。祖親からずっと今までみんなが譲って遺してくださった努力と苦労の上に今の生命が存在させてもらい、今の私たちが人生を謳歌していることを決して忘れてはならないのです。

それが自然の道を思い出させる初心なのです。

四六時中、自分自分と自分のことを考えて孤独に悩む前に、活かされてつながっている存在に気づき、その自分は自然の道に外れていないか、自然の道から遠ざかっていないか、それを省みて自らの生き方を自然に学び、生き方を直していくことのように思います。自分がどうかよりも、みんなの役に立ちたいと願う生き方、周りの御恩に報いていこうとする生き方、子どもたちがこの後、私たちの生死の後に続いていくのだからこそ本来の生き方から見つめていきたいと思います。

子ども第一義の本質は、この自然の道の実践により叶います。

常に自我のやりたいことよりも、無我のさせていただけるの御恩に報いていきたいと思います。

準備の本質~未来との向き合い~

物事を成功させるのに「準備」という実践があります。如何に平素から抜かりなく準備を怠らないかというのは危機感のことで、常に危機感を持って日頃から準備をしているかという心の持ち方のことです。

準備といえば色々な諺があります。

例えば、「転ばぬ先の杖」というものであったり、「備えあれば患いなし」、「遠き慮りなければ必ず近き憂えあり」、「後悔先に立たず」などもそうです。これは準備というものが如何に先々の未来に大きな影響を与えているかということの格言です。

あのイチロー選手も「準備というのは、言い訳の材料となり得るものを排除していく、そのために考え得るすべてのことをこなしていく」といって日頃の準備を一切怠らずに鍛錬していると言います。その証拠に「ハイレベルのスピードでプレイするために、ぼくは絶えず体と心の準備はしています。自分にとっていちばん大切なことは、試合前に完璧な準備をすることです」とも言います。未来に先延ばしたくなる怠惰な怠け癖を自ら断ち切って、この先に起こり得る全てのことを本番同様の危機意識でシュミレーションして日頃の準備に臨むのです。

準備というものは、その人の持ち味を活かすための最大最高の実践です。事前にあらゆる未来を正面から逃げずに向き合い、もしもの最悪の事態の時にどうするかを考え抜く覚悟、または最高のチャンスにどのようにするかを考え切る覚悟、その上で何を用意しておくかを日頃から取り組むのが準備ができている人の実践です。実際の仕事でもほとんどが準備に費やすだけで本番で使うのは1割から2割の配分で準備したほとんどが使わないままになっていると思うと、本番とは常に平素であることを再実感するのです。

準備は実力の発揮と密接につながり、準備をしていればその時々で準備しているものを出せばいいのだから存分に自分の実力の全てを出し切れます。逆に準備が足りていない人は出せないからさらに言い訳はどんどん増えていくばかりで現実に苛立つばかりで停滞してしまうものです。

老子が「無為自然」の境地の中で、何もしないのが無為自然なのではないことを思想で語ります。無為自然の本質は、未来が来る前に全て準備済みで先に予測して未来を先取りしているからこそ現実が来た時に余計なことをしないという境地で実践するから結果的に何もしていないように観得るだけです。

これは自然農などと同じ仕組みで、未来は予測できると自覚しているからこそ予測できない全てに準備しておこうとする日頃から危機感を持つことではじめて全てを先取りし余計なことをせずにその作物が育つことができるのです。来たものを選ばらない生き方というのは、先取りの準備、その心構えと実践ができているということです。

そのために未来は分からないからどうしようもないではなく、未来は分からないからこそ準備しようと未来を正面から向き合う心の強さを鍛えるために準備の実践を積み重ねる必要があるのです。言い訳がでるときこそ、それは未来に向き合っていなかったということに向き合う必要があります。そしてそれは信じる力を育てるのと怠ったと戒めてまた信を鍛錬していくしかありません。信があれば人は未来と向き合えますが不安や不信は未来から逃げようとする言い訳になります。

自然界にいる彼ら野生の生き物たちのように常日頃からいのちを輝かせて危機感を育て、健全な自然の危機感と一体になり、大切ないのちを守り、自分を全体貢献に発揮できるように準備を怠らない実践を積み重ねていきたいと思います。

自然に学ぶ心

世界では様々な自然災害が広がっています。干ばつ、地震、火山の噴火、竜巻、洪水、火や水を中心に自然の変化をみせています。天の道は変化を已むことなく発生しますから天を畏れ敬い私たちはどのように生きていくかを考えてきました。その上で人の道とは、道徳に沿って慎ましくあることを大切にしてきました。

天に対しては謙虚に、人に対しては素直にと、祖神たちは私たちに常に大切なことを守るようにと言い伝えてきました。それは世界中の神話や歴史の教訓として語り継がれあちこちにその記録は刻まれています。

記録の中には、人心の荒廃というものが環境に及ぼす影響について書かれている箇所があります。人々の暮らしが謙虚で素直でなければ必ず天災が発生するということです。ひょっとしたら、人間の天敵は人間ですから人心の荒廃こそが真の天敵なのかもしれません。地上最強を謳いながらも地球の環境の一部であることは変わりない事実ですから分けて考えることは不可能です。

自然災害は人間だけに発生するわけではなく、あらゆる生き物たちにもその災害は与えられます。地震、洪水、火山の噴火、竜巻、台風、寒波、熱波と発生します。しかし自然界の生き物たちは、天を敬い自然環境と一心同体になっていますからその被害も最小で済んでいます。人間は自然環境に沿っていきることをやめ、人工物の中で思い通りにしてきたからこそその自然災害に多大な影響を受けるようになったのかもしれません。改めて、こういう時代に入ったからこそ自然の中に入り、自然を観察し、自然と一体になって暮らす大切さを感じます。

天災は慈愛に満ちているものですが人災は自分たちの生き方の間違いから発生するものだからです。間違いを改め、自然の中に入り、生き方を改心していかなければいよいよ自然から遠ざかり人災が天災を超越してしまうかもしれません。天災を思うとき、常に自分たちの生き方への警鐘であることを忘れないでいたいと思います。

弘法大師空海の性霊集に下記のような言葉が遺っています。

「境は心に随って変ず。
心垢るる時は即ち境濁る。
心は境を逐って移る。
境閑なるときは心朗かなり。
心境冥会して道徳玄に存す。」

この「心境冥会すれば道徳が磨き貫かれる」という言葉。この心境冥会とは、自然に学び自然の心になることのように思います。善も悪もなく、至善の境地に入るということなのでしょう。

自然を知る心は、私たちの世界の本来のあるべき姿を知る心のように思います。心の原点回帰を人がするとき、はじめて心は道徳に照らされるのかもしれません。本来のあるべき姿に戻っていくことは心との対話を続け、心を高めていくことであろうと思います。そしてその自然に学ぶ心で助け合い共生する自然社會の循環こそが、人災を防ぐ方法のように私は思います。この先も私たちの生き方の中に自然に学ぶ心があれば、天地の王道の間で”いのち”は悠久に守られるように思います。

自然に学ぶ心を忘れずに、精進していきたいと思います。

死生観~心の赴くままに~

人は本当は誰もが心の赴くままに生きていきたいと願うものです。しかし実際は、数々の刷り込みの中で自分の心を見失い自分の心が一体何かが分からずに迷い惑い悩み、そしてまた心から離れてしまい苦みます。その心が何か、その正体を理解するには深く自分の心を静かに見つめてみないと分かりません。

しかし実際の人生では日々の喧騒に追われ、静かに自分と向き合う時間をなかなか持てないものです。それが病を得たり、死を迎えたりするとき、はじめて自分の心と向き合うことができるようにも思います。

死生観というものがあります。

これはどう生きるのか、どう死ぬのかという心の在り方を見つめる観点です。これは自分の人生をどう死のうかと考え抜けば貫くほどにどう生きようかになってくる、つまりはどのように生きてどのように死ぬかという問いの中に自分の心を見つめられるのです。

この死生観というものは、時間を何に遣うか、その志を何にするかという自分の心との自問自答です。これを持つ人は、その後の人生の遣い方、時間の遣い方が変わってくるように思うのです。時間とは自分の与えられた人生ですから、それをどれだけ真剣に真摯に生きるかはその死生観が基本になっているかが左右するように思います。

吉田松陰が弟子に与えた有名な詩があります。

「志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない
世俗の意見に惑わされてもいけない
死んだ後の業苦を思い煩うな
目先の安楽は一時しのぎと知れ
百年の時は一瞬にすぎない
君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ」

私はこの詩を讀むとき、どうしても心に繋る言葉があります。それが「君たちはどうかいたずらに時を過ごさないように」という言葉です。

これはきっと吉田松陰が自分自身に常に言い聞かせた言葉だったのではないかと感じます。人生は短い、忙しさを理由にして自分の人生を無駄にはしないでほしいという願いでもあったのでしょう。

吉田松陰の遺書には、「人生には誰にも四季が備わっている」と書かれました。ここにも死生観が観てとれますし、また「生死は度外視してやりたいことをやりなさい」とも言いました。

純粋さというものは、如何に自らの心を静かに向き合い、その心を透明にし心の赴くままに透徹に生きることではないかとも思います。素直さや謙虚さというものは、自分の心に近づくための大切な人生修行実践目録の要諦のようです。

忙しさを理由にせず、言い訳を当然にせず、自分の決心した「志」に生きることが人生の仕合せ、出会いやご縁、そして「思い」に死ぬことかもしれません。志を持ちなさいといった吉田松陰の言葉を胸に、真心のままにかんながらの道を精進していきたいと思います。

自然の誕生~地球のはじまり~

最近は、大きな地震が立て続けに発生しています。また世界ではあらゆる火山が噴火活動に入り、あらゆる場所で地震の頻度が増え、気候もまた大変な様相を見せています。

そもそも私たちは頭では理解しえないものが自然であり、その自然を理解するのに知識や意識で理解しようとすることに限界があります。あまりにも広大、あまりにも遠大、あまりにも無限であるものを理解することは限定された相対観ではたどり着けるものもなく、如何にあるがままの存在を理解するかということに似ています。それは自然に融解して自然と一心同体になる感覚に近いのかもしれません。

地震や天変地異はなぜ発生するか、そこには地球の成り立ちから考え直すことが大切であるように私は思います。そのことについて、弘法大師空海はこのように詩にまとめています。

『生物の住みかとなる自然世界の全体詩』

「自然(地球)はどのようにして誕生したのだろうか

気体(ガス)が初めに空間に充満し

(そのガスが凝縮して)

水と金属がつぎつぎと出て

(水蒸気は大気に満ち、重い鉄は中心部に集まり)

地表は金属を溶かした火のスープでおおわれた

(やがて、地球全体が冷め始めると、水蒸気は雨となって地表に降りそそぎ)

深く広大な海となり

(冷めて固形化した巨大な岩石プレートはぶつかりあい)

地表は持ち上がり、山々は天空にそびえ立った

(そうして、出来上がった空と海と)四つの大陸と多くの島に

あらゆる生物が棲息するようになった」

『十住心論』巻第一、「自然世界」の章 (密教21フォーラムより)

自然(地球)というものは、ガスから産まれそして今の現実のように変化してきました。岩盤と呼んでいるこの地面は、その熱で溶けた液体が冷えて固まったようなものです。言い換えれば、鍋料理の湯葉のように表面上を覆いかぶさっているだけでありそれが時折、海流や磁場の変化、宇宙のダークマターの影響を受けては変動しているようなものです。

その岩盤の隙間から、その熔けた高熱の液体が飛び出してくるのが熔岩です。地球の最深部はまだまだ高温で熱し続けて液体を沸騰させるのだから温まれば温まるほどに沸騰の回数も頻度も増えるということなのでしょう。

ここまで理解できるように書いたとしても、実際は理解できないものの中にあるのが自然(地球)です。それをそのままにどう在るものを受け取るか、それは空を観ては空と観ず、土を観ては土と観ずという、あるがままに一心同体になってみてはじめて達する境地なのかもしれません。

空海が言わんとしたこと、自然の中にあって学んできたこと、今の時代だからこそそれを明らかにしつつ、心はどうあるべきかを観なおして子どもたちに伝えていきたいと思います。