自然の異~発達と発展~

身近な植物を眺めていると、その姿かたちの違いに驚きがあります。私たちが植物と一括りにしてみているものは実は全く異なる性質を持ったものです。これは私たちが似ているものを括り、鳥は鳥、魚は魚、動物は動物だと分けて理解しているように異なるものをどこに棲んでいるかで棲み分けをしているということです。

この棲み分けには、鳥は空に棲み、魚は海に棲み、植物は陸に棲みというようにそれぞれが棲んでいるところで分類分けしているとも言えます。この分類は人間が仕分けたものであり自然界は分類分けをしていません。

そもそも言葉というもの自体も思考の分類されたもので、これは人間が人間都合で人間基準で分けたものを一つの標準に当てはめて大よそで理解し合うために用いているからです。

しかし実際は全く異なるものを同じもので一括りするということは本来は不可能であるように思うのです。確かに似た形のものがあるのがこの世の中ですが、本当によくよく観察すると全てに似て非なる存在であることに気づきます。

人間の指紋が一つとして同じものがないように、同じ顔がないように、同じであるとうことはないのがこの世の中です。同じであると思い込むが故に、周りと異なることがよくないことだと思い込まされ、みんな同じにしないといけないと考えること自体が不自然であるように思います。

そのものの持ち味とは、そのものが異なっていることを自覚することではじまるように思います。同じ人間であっても、人には全く異なる性質があります。それは性格に顕れますし、それは生き方にも出てきます。発達と発展を考えるとき、少しずつ異なっていくこと、それは多様性ともいいますが本来異なっていった方が助け合えることが自然界の道理にあります。

金子みすずの「みんな違ってみんないい」と言う言葉がありますが、自然界は「みんないいからこそみんな違う」のでしょう。自然界はちょっとした変化によって大きく変わっていくものです。同じように観えて少し異なる存在、つまり「異」なる存在があるからこそ時代の変化、環境の変化に適応していくのでしょう。

宇宙生成や宇宙発展の進化にあわせて生命というものは、小さな変化を怠らず異なりを進めていくものです。異なっているということは、実はとても素晴らしい自然の叡智そのものです。異なっていることを恐れずに、可能性を発揮し、自分の中にある変差値に気づいたなら、それを周りのために役立てていくことで発達と発展は伸ばしてけるように思います。

自然界の慈愛は、全ての生き物たちが倖せにいのちがあるような環境を用意して見守ってくださっていることです。すべての生き物が倖せになるチャンスがある、それがまさにこの全ては「異」なるということの真意なのでしょう。

変わっているかどうかを気にするよりも、その異なる部分をどう周囲に活かせるか、それこそが自然が与えてくださった天恵であることを自覚し、共異共感を大事に自分らしく新しいことに挑戦していきたいと思います。