いのちとは何か~病の根源~

昨日、あうん健康庵の小松健治先生にお会いすることができました。「医者が学んだ祈りの力 自然治癒のパワーを細胞に取り込む生き方」(幻冬舎)が出版された時にすぐに手に取り拝読した際に、私と自然観が同じでしたのでずっとお会いしたいと思っていました。

治療の前に対話を通して教えてくださったのが「自然治癒は楽になる」ということです。この楽になるというのは、自然の生き方になると楽(素直)になるという意味を直感しました。素直ではないことがあれば、病気というものが天から与えられてカラダがそれを見せて気づかせてくださる。

そのことに対して、どれだけ自分が素直になって向き合い執着を手放し、心、魂、肉体、つまりはカラダを直していくかということではないかとお話を通して私は実感しました。かつて、常岡一郎さんが「病は天からの手紙」ということを仰っていました。そしてその人がその手紙を読んで如何に自ら「手放せるか」ということについてのやり取りをお聴きしたことがあります。

そのことと同じように、自らが長い年月でつくってきた執着や固執がカラダに沁み付いたものをどのように素直になって自然治癒していくかということを感じました。自然治癒には勇気が必要で、自然と向き合い、不自然を直す勇気が要ります。その勇気は希望になり、その人のカラダを原点回帰していくことができるように思います。私たちのカラダもまた自然の一部分でつながっていますから信じて手放すことによって元気に戻っていくのでしょう。

人が元気がなくなるのも病気になるのも、不自然なことを続けていくからです。不自然が分かるというのは、それまでの刷り込みが取り払わられるということです。まず自分の刷り込みに気付けるかどうかは、自分のカラダから出てきた兆しを素直に受け止めることができ、その上で素直に手放すことができるかによります。

古語にある「病は気から」というのは「元気ではなくなる」という意味なのでしょう。本来、私たちには元気があるのだから自然から与えられるチカラを存分に与えられるからカラダのままで御気楽極楽に生きていきたいと思います。

小松庵主と奥様にお会いできたことで、本来の人間の根本、そして病の根源とは何かを考え直す新たな機会になりました。いのちといのりによる自然治癒の生き方を体現し伝承しつつ、引き続き子どもたちが安心して暮らしていける世の中を譲っていくためにも、学びを深めて実践を高めていきたいと思います。

一期一会のご縁に深く感謝しております。

 

根とは何か

全ての生き物には「根」があります。その根とは植物の根のところの根を指すのではなく、「先祖」という意味に換えてもいいのかもしれません。

島根に来るとなぜかいつもその根のことを思い出します。ここには日本(八島)の誕生(根)が深く関わっているから島の根なのかもしれません。不思議なことですが、太古の神話にあるいづもにいのちといのりの縁結びがあるのもまたこの根に深く関わるからなのでしょう。

そもそも私たちは今存在しているのは、遠い昔に先祖たちがあったから存在しているとも言えます。当たり前すぎて思い出しもしなくなりましたが、いのちにはすべて根があって今があるのだから根のないいのちなどこの世にには存在しません。自分中心に今に執着し当世ばかりを追いかけては「根」があったことを忘れてしまうのが現代でもありますが、本来の根っ子である私たちもまた連綿とつながるその根の一部であるのは自明の理です。

この根をどう直感するのか、その生き方の根を観れば分かってくるように思います。

昨日も見守るの理念でここの風土で誕生している保育園の実践を拝聴していくと、そこにあるものを活かす、勿体ないと活かす、そして伝承するという智慧を直感することができました。

ここの風土の中にある、先祖代々のものを伝承していく智慧は今の社會に必要なことではないかと思います。昨年より初心伝承をはじめていますが、伝承には常に初心があり、その初心を省みるとき必ず根の心に触れることになります。

そして”いのちのハタラキであるいのり”もまた根の徳です。

今回の御縁で何が結和していくのか、引き続き根を深めてみたいと思います。

 

自分の磨き方~朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり~

昨日、臥竜塾の塾頭に依頼され高杉晋作の生き様についての談義を一緒に行う機会をいただきました。思えば開塾の時に、草莽崛起と記帳した本の言葉の御縁から繋がっていることを感じ有難い気持ちになりました。

何年もかけて人が成長していく様子や、塾生たちが実力を備えていく姿を拝見することは御互いの学んだ期間を確認することにもなり改めて初心に帰る貴重な時間になりました。

高杉晋作についての印象は風雲児というイメージがほとんどです。しかしその日記を紐解き読み込んでいくと、親を思う親孝行の心境や吉田松陰先生を慕い一所懸命に先生の遺訓を守ろうという誠実な姿が観えてきます。また大義を優先し自分のことなど度外視してでも純粋に道を探究し学を深め実践を愉しんでいる子どものような姿もまた観えてきます。

その時代時代に、死生観を持ち必死に生きた人は学問が成熟しています。高杉晋作は『少年の頃、読んだ本に「学問を成すなら世間から利口と思われる人になるな。世間から愚者と思われる人になれ。」とあったので世間から愚者と思われる人になろうと僕は願った。』とあります。論語にある「古之学者為己、今之学者為人」にあるように、死生観を持つ志士の学問は世間から有名になり評価されるためにするものではなく唯一人自分自身の人格を練り上げるためにあるのでしょう。

本来の学問は道ですから、最初から高杉晋作は道を求め続けていたのでしょう。それが吉田松陰との同行した約1年の薫風により花開いていくのです。本気の師弟関係というものは、その真心に決した覚悟があってのものです。今のように知識をただ教えるための偽りの師弟関係ではなく、その道と志が同じくしてこそ本物の師弟ではないかと私は思います。

吉田松陰は「師道(しどう)を興(おこ)さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。」と言います。

直言直行、必ず実行せよと弟子たちに語りかけるのは即ち本物の師弟の道、つまりは本物の学問を指導しようとしたからに他なりません。このような本気の情熱で語り掛けるなら、その弟子たちの志は養分を得て大きく開花していくように思います。人と人の一期一会の御縁というものは、まるで道中にある大義という糸を通して紡ぎ合っていく一反の織物のようです。

最後に、私が高杉晋作の日記の中で深く共感する一文があります。それは野山獄「先生を慕うてようやく野山獄」と書いた獄中日記の中にあります。

自叙(甲子四月、西海一狂生東行、野山獄北局第二舎南窓の下に題)

「予、下獄の初め既往を悔い、将来を思い、茫然として黙坐し、身を省み心を責む。すでにしておもえらく我れすでに獄に下る。死測るべからず、何ぞ身を省み、心を責むるを用いん。ただ、槁木死灰死を待つのみ。一日、自ら悟りて日く、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりと。これ、聖賢の道、何ぞ區々たる禪僧の所為を傚わん。よって書を獄吏に借り、かつ読み、かつ感ず。或いは涕涙衣を沾し、或いは慷慨腕を扼す。感じ去り、感じ来り、窮極あるなし。乃槁木死灰に向くは人道に非ざるを知る。しこうして朝に聞き夕べに死すは眞楽量るなしとす。心すでに感ずれば、すなわち、口に発して声となる。これ文、やむをえざる所以を記すなり。」

どんな時であっても人の道は、生死は度外視しても道を学び続けることであるという魂の言葉。つまり朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりという本物の学問を師と一緒に歩んでいたのだろうと感じ、そこには孔子や老子、仏陀もかつては学んだ境地に達しているように感じます。

こういう言葉を実践と内省に由って日々に高め、体験の中で自らを磨き貫いていた高杉晋作の日記の数々には今でも魂が揺さぶられる思いがします。どんなことがあっても龍になると決めた生き方と生き様からもう一度、”自分の磨き方”を見直していきたいと思います。

御縁と機会に深く感謝しています。少し熱が入り過ぎましたが、志士との語り合いはどんなときにも愉しいものです。その場の中に、見守られている有難さを改めて実感しました。

ありがとうございました。

 

自由(信)と責任(信)の絆

人は与えられた責任の中で自由になるのと、元々自分の責任感の中で自由でいるのとでは意味が全く異なります。誰かから自己責任を押し付けられその中で義務で行い権利を主張するのと、自分から自己責任で主体的に取り組み全てを引き受けて実践するのとではその責任の本質も異なるのです。

そもそも本来の学力とは「危機感」を持てる人になることです。自己責任の本当の意味は、誰のせいにもしなくなるということです。他人のせいにして生きている人は次第に危機感が喪失していきます。全ての発生する現象はすべて自分次第であると覚悟を決めている人は主体性を失うことはありません。まさにジョン・F・ケネディの『国家が諸君の為に何をしてくれるかを問うな。諸君が国家の為に何を成し得るかを問いたまえ。』を正しく理解して実行している人になっているということです。

しかし実際は、考えなくなり受け身になり視野狭窄になり刷り込みに呑まれると一家よりも自分を守ろうとし社会が守ってくれることを期待し社會を自分で創ろうとはせず、国家が守ることは当然だと権利ばかりを主張しては、国家を自分が創り守るために自分独りからでも決心して実践していこうとはしなくなるものです。

他人のせいにできるという状態での「責任」というものは、自分が”負わされている”責任のことです。それは自分が責められるから、何かのせいにしておきたいから受け身に委ねるのです。本来の責任とは負わされるものではなく”自分から持つ”ものです。なぜ自分から責任を持てるのか、それはまず自分を度外視して理念や目的の方を優先しているからでしょう。

自分か相手かというのは対立ですから自分の都合を出せば相手は必ず苦しくなります。そうではなく御互いに同じ目的に対して同じ方向を観て一緒に考えていくのなら最善の方法もまた観えてくるように思うのです。

こちらか相手かという個人主義の対立概念では、御互いを本当の意味で尊重して助け合っていることにはなりません。どちらかが我慢する関係というのは、苦しく長くは続かないのです。これは会社に関わらず、夫婦や仲間に対してまで全てに言えることです。

自分の主義主張ばかりを要求したり相手に期待する前に、自分が一家に対して何を実践できるかを考えることが主体性なのです。信じてもらって自由になっているのだから、その信に応えて自立するのは責任を果たすことです。人は自由(信)な環境があるからこそ責任(信)を持てる人になるのです。自由の環境下にあっても管理されたがっている意識が外れなければ、その無責任は必ず誰かの負担になってしまいます。自由を与えてもらっているというのは自分を信じてもらっているということです、その自分を信じてもらっていることに対して人は信で応える恩返しするのが人の道、信への責任感(信忠義)ではないかと思います。

これは今の社会問題の根幹にあり、一人ひとりが自由に伴う責任感ということの意味をもう一度、今こそ考え直す必要があるように私は思います。世間のニュースをみていても、身近な組織の問題の相談を受けていても、無責任の悪循環の構図はどこにも蔓延っています。

子ども達のためにも自分の人生を自分で生き切らず誰かのせいにするようなことがないように、自分の脚で歩き、全人格に責任を持ち、自分で道を切り開くことの大切さを自由(信)と責任(信)の実践を通して好循環を創り、譲り遺していきたいと思います。

虫の目~いのちの原点~

ファーブル昆虫記というものがあります。これはフランスのジャン・アンリ・ファーブル<1823-1915>の代表作であり、世界各国で翻訳されているものです。

虫の観察をするだけではなく、その虫の心に入り込んで虫の気持ちになって豊かな文章で紹介する昆虫記は私たちにいのちの価値について深く考えさせられるものがあります。

「全ての生き物は平等であり、それぞれの役割がある」という信念のもと、世間では見向きもしないような虫の生態を30年以上観察して新たな発見を次々に記した実践には感動するものばかりです。

よく考えてみると、どんな小さな虫であっても親兄弟や家族がいます。産まれてきているということはそこに親がいて子がいて他の生き物を食べて土に帰ります。人間とまったく同じようにそこにはいのちのめぐりと暮らしが存在します。

そしてそのいのちは、厳しい自然の中で深く慈しみ、必死でいのちを育んでいきます。ファーブル昆虫記の中にも、フンコロガシが大切に子育てをしている様子や、他の虫たちがそれぞれにいのちをかけて子孫を残し家族を守る様子などが書かれています。

人間だけが偉そうにして見えなくなったものをファーブルは同じ生き物(いのち)の目線で謙虚に暖かく観ているのです。それに気づけないのは自分都合を優先し虫を虫けらと思い、人間が最上で虫は下等であるという考え方の中に人間の傲慢さが潜んでいるように思います。

ファーブルの虫から学ぶ姿勢の中に、同じ地球の生き物として尊重があります。

同じ生き物としての自分を再認識しつつ、そのいのちが自然に活かされていることを虫の目をとおして思い出し、虫たちの生き方を通していのちの原点に気づき、本来の謙虚さを学び直していきたいと思います。

 

 

信なくば立たず

藩政改革の手本として今でもひときわ異彩を放っているものに『日暮硯』があります。これは真田幸弘が藩主の時代、松代藩の藩政改革を担った恩田木工民親(おんだもくたみちか)の事績を説話風に記したものです。

二宮尊徳の改革の中にも、この恩田木工の実践が参考になっているのではないかと思うところが所々にありました。理念を仁に据え、「信なくば立たず」を何よりも優先した誠実で思いやりのある政治をして松代藩とその人々の心を豊かにした人物です。

最初にこの日暮硯で印象的なのが、恩田木工が「一切の嘘をつかない」と全ての民に約束をすることです。混迷の時代、領地内の人々の心が荒廃している状況において心が荒廃するその元の理由をまずはじめに断ちます。そしてそれは単なる宣言ではなく、対話によって有言実行されていきます。最初から疑心暗鬼であった人々に対して、誠心誠意、本心から伝え、それを一つ一つ対話によって解決していきます。

対話による解決ですから長い時間をかけて、徹底して少しずつ丁寧に進めていきます。その一つ一つの信が立って大きくなっていくにつれ藩政改革は実現していきます。

どんな人にも思いやりを向け、役人たちが過去に賄賂で問題を起こしていてもその人たちを自分が引き受け、善い人間として活かせるように指導していきます。恩田木工はその際こう言います。「人というものはよき人が使えばよくなるものでござります。悪い人が使えば悪くなるものでござります。」と。まるで曲がった板の上に真っ直ぐな板を乗せればそのうち真っ直ぐになるというように、あまり曲がっているかどうかを問題視していません。名前に大工とありますがまさに「立(建)てる」ということに関して心にまで精通している方だったのではないかと私は思います。

心の荒廃は、心を直すところからはじまります。何が人々の心を荒廃するのか、政治に関わる人たちはまずそのことを理解する必要があるように思います。どんな小さな組織であってもそこには政治が発生します。だからこそ組織のリーダーは仁政がどのようなものであるかを自覚し、その実践がどのようなものであったかを歴史から学び直す必要があるように思います。

結局は今の日本の借金体制や、ギリシャをはじめ世界の財政難において、今のように心が次第に荒廃し混迷を深める政治や社会情勢の中で、再び二宮尊徳や恩田木工、上杉鷹山、といった思いやりの政治を実現する改革者が必要になってくると私は思います。歴史を学び、もう一度、これからの時代の在り方を示して発信していきたいと思います。

最後にこの恩田木工が亡くなった時に、ある藩士が日記に綴った文章を紹介して終わりたいと思います。

「恩田木工民親殿急逝。この人君子なり。上を敬い、下を恵む。仁徳ふかかりければ、一人もこの人をいただかざるものなし。刻苦勉励す。元日に倒れ、その報、一日にして全土に渡る。人々、日待などして、本復を祈る。本日ついに際まれり。誰も力を失ないて、誰言うともなく、松飾り取り入れ、歌舞音曲やむ。かつて物語で知るも、眼前かように人の慕うを見るとは・・・」と。

思いやり信を立てた生き方の先人の事績は、後世の私たちにまで余韻が香ります。感謝のままに実践を学び直していきたいと思います。

モチベーション~気力を育てる~

人間には気力というものがあります。やる気、本気、意気、活気、士気、元気など、心の底から湧き上がってくる気を使って物事に取り組みます。

気力というのは、目的に対してどれくらいの気が出ているかということです。この気魄というものがモチベーションであり、気を用いることで物事は成就しますし本気であるから人は真に成長します。モチベーションは義務感では発生せず、自由意思によって発揮されていくものです。

それに対してモチベーションがなくなることを無気力といいます。つまりやる気が出ないという状態です。自分自身を他人から責任を負わされている状態にしていることが義務感であり、自分から責任を持つ状態が責任感です。

結局人は自分の人生ですから、他人から責任を背負わされるのか、自分から責任を背負うかでまったくその根本にある「気」が変わってきます。本気というものは、自分から責任を持つと決心するから出てくるものです。他人のせいにしながら何かをやっているから心が枯れてきて無気力になっていきます。気力は自分に矢印を向けて、何があっても自己責任であると覚悟を決めるから滾々と本気が湧き上がってくるのです。

ではなぜこんな当たり前のことができなくなってしまうのかということです。

それは私は義務教育にあったのではないかと思います。人は教育のことを云々言いますが、その前についている「義務」についてはあまり重要視していません。そもそも義務で教育するということ自体が、やる気のない人間を育成することであり自由にしていくことで人はやる気を育てていくのです。

自由というのは義務に対する自由という意味ではありません。

人間は誰でも自分の人生を自分で決めることができ、その責任感が備われば自分の人生を歩むことができるのです。それを誰かに決めてもらうばかりで義務感で生きていくと自分の人生を歩んでいる実感が持てなくなります。

これこそが人間の気力を失わせ、人間の本気を消失させていく理由なのです。

本気の人間になるということがモチベーションを持つということです。モチベーションが上がったり下がったりしていると勘違いしますが、ようは自分から背負うと決めているかということに尽きるように思います。なぜなら自分の人生の責任は自分にしかとれないからです。

何かの物事や何かの仕事をするとき、常に決断が必要です。その決断とは何か、それは自己責任にするということなのです。他人のせいではチカラがでなくても、自分のせいとするなら人はチカラが漲ります。

一度きりの人生なのだから、自分の内面に存在する気を育てていくことで心に栄養を与えてぐんぐんと伸びていくことが野生の植生であり、自然界の中で活き活きと懸命に楽しく生きるいのちの智慧です。

気力を育てるには、自分の人生に積極的に責任を持ってもらうことです。そのためにも自分から選択して自分で決めるということの大切さを、義務教育ではなく見守るを通して子ども達に本気の生き方を譲っていきたいと思います。

リーダー~責任感とは何か~

人は誰しも自分の人生に責任が伴うものです。自分自身であることは自分の人生に責任を持つということです。その自己責任を深めるとき、それは常に覚悟のことを思います。どのような覚悟を決めるか、そしてその覚悟をもってどのように生きるかということを感じます。これは生き方を決めるということに似ています。

人はどんな星の下に生まれてくるのか、それは誰にもわからずその人の持って産まれた天運だとも言えます。その生まれ落ちたところの星に従ってその人の人生が廻りますからその時々の人生の幸不幸をどう受け止めて、今の自分を受け容れていくかは自分の足で立ち、正直に人生を歩んでいくための最初の課題であろうとも思います。

正直に歩むと決めて歩み始めれば、必ず日々様々な困難に出会います。その出会いの一つ一つを大切にしていくことで、本当の自分に出会い、本物の自分の心を知るように思います。「自分になる」ということはまさに「自分である」ということであり、それは嘘偽りない素直な自分で生きていくということです。

しかしそれを邪魔するのは、今の自分に対する不足や不満、何でも他人のせいにしたりすることで次第に素直ではなくなっていきます。そういう時こそ自分に矢印という言い方を私たちはしますが、自分自身が自戒を持つことで一度きりの自分の人生で生きられ、周りのお役に立てる仕合せに出会えるのではないかと私は思います。

自戒といえば、「徳川家康の人生訓」というものがあります。自分自身の責任を自覚し、その上で自分の脚で積極的に歩くということの大切さについて自戒しているように思え大変共感しますのでご紹介します。

「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし
急ぐべからず
不自由を、常と思えば不足なし
心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし
堪忍は、無事のいしずえ
怒りは、敵と思え
勝つことばかりを知って、負くることを知らざれば、
害、其の身に到る
己を責めて、人を責めるな
及ばざるは、過ぎたるに優れり」
(慶長八年正月十五日)

全ての責任は自分が負うという覚悟、言い換えればどんな人生であっても積極的に主体的に生きるのは自分自身だという覚悟、受け身になり逃げようとはせず、常に積極的に主体が減退しないように「全ては自分の責任である」という自分に矢印を向けているのを感じるのです。

もしも全ては自分の責任だとし、他人のせいにする人生をやめてしまえば全ての問題は自分の中にあることに気づけるものです。自分の中にあるのだから、自分の方を変えていこうということに迷いもなくなっていきます。

覚悟というのは結局は自分に矢印を向けているかということに由るのです。

どんなことも決めるのはたった一人の自分次第です。

自分が決めるからこそ、周りもまた決めることができます。自分が決めた人生はどんな結果が待ち受けていても悔いもなく、また清々しいものです。生き方を決めるということや、初心を定めるということは自分の人生を自分で歩むということを決断したということになります。

自分自身が自分自身のリーダーになることで自分自身が自分自身のことを認めますから、周りもまたその人を自分のリーダーと認めるのかもしれません。自分自身のリーダーは自分自身、リードしていくのは自分なのだとし責任感を持ち常に矢印を自分に向けて精進していきたいと思います。

 

いのちのままに

昨日から鞍馬山に来ています。

不思議ですがこの山に来ると、いつも何かに包まれている感覚になります。もう何年になるでしょうか、子ども達の御志事をいただき参拝させていただくたびに山の気の有難さを感じます。

昨日も鬱蒼とした雨の九十九折坂を歩きながら、山全体と共に生きている波長や波動のような振動に触れては自然に包まれる御縁を感じていました。

私たちは出会いに包まれることで御縁に気づきます。その御縁に気づけば、自然に感謝する気持ちになります。それは私たちも同じように目には見えないものに包まれて活かされるいのちの存在だからでしょう。

いのちの存在は空気、水、火、そして宇宙、そういうものにいつも包まれています。

当たり前すぎて分からなくなったいのちの存在を、もう一度思い出すことの大切さは私たちが謙虚に生きてきたことの生命の記憶に触れていくことです。そしてそれを祖親は御縁といい、その御縁を感じる心を勿体ないといい、この世には一つも無駄なものがなく役に立つことという本質を今までカタチにして伝承してきました。

常に変わらず御指導いただける御縁によって、自分の真心を鑑にして徳磨きは高まっていくものです。人生の砥石は日々の初心の内省と、我執の削ぎ落としと実践による研鑽にこそありますが、時折、清水を沁みこませるように真心を洗い清めて静かに包まれていることを見つめ直す時間は人生にとってかけがえのない仕合せの余韻でもあります。

自然の厳しさの中には慈しみがあります。そういう厳慈の愛に包まれている私たちが包まれていることを思い出すことは本当のいのちの豊かさの意味に気づくことに似ています。

いつからか私たちは大自然の暮らしから遠く離れてしまい、同時にいのちを見つめることがなくなってきました。いのちに近づくとは、自然に寄り添ってみるということです。

自然は私たちよりもずっと長く悠久の歳月を暮してきました。

だから自然は私たちの先生です。

先生はだからみんな丸ごとで先生です

本来の先生は人間が偉そうにすることではなく、丸ごとみんな先生であるということを自覚することで全てが先生になっていきます。一視同仁、いのちの先生の言うことを素直に謙虚に聴けるいのちの生徒としての師弟一如の真心をこれからもあるがままのいのちのままに歩んでいきたいと思います。

 

害益の別なし

畑に出れば様々な虫たちや植物たちが必死で生きています。当たり前のことですが、他から食べられる存在であり食べる存在であるものはみんな必死です。それだけいつも危険と隣り合わせで生きているとも言えます。

生き物たちは食べられないために様々な工夫をしています。植物や虫は、食べられないように強い臭いを発したり毒を持ったり、棘を刺したりします。それはただ生き残るために防御しているのであり必死に生きている証拠です。

人間は害虫や益虫という言い方で虫を分別します。

人間にとって都合が悪いものは害であり、都合が良いものは益とします。大きな目でみたら全ての生き物たちは益です。しかし自分の都合で見ればそれは害になります。これは人間関係でもいえることで、自分都合で見ればすべて自分にとっては損害が発生しますが人類全体でいえば益になります。

虫たちや植物たちは別に人間に危害を加えたいから存在しているわけではありません。もちろん畑に出れば、虫刺されに遭い、植物に触れてかぶれたり切れたりします。でもそれは本来それぞれが必死に自らの身を防御しているのであり、危害を与えたいのではなく身を守っていたり必死に生きている証でもあるのです。

今は、害があるからとなんでも薬や道具を使って全て駆除しようとします。虫や植物、動物から見れば害は人間たちであり自分たちは必死に暮らしてきただけです。それを尊重してあげるなら、本来害益の別はなくなるのです。しかし今の世界の趨勢をみても、人間同士に於いてもその関係が見え隠れし自然の摂理とは離れて不自然なやり方で害を抑え込もうとしています。

そういうことを少し考えてみて、何でも害の方ばかりを見るのではなく益の方を見て活かそうとすることが本来の私たちの暮らしの智慧ではないかとも思います。

庭先の雀でさえ、チュンチュンと鳴いて周りの小虫たちを食べ楽しそうに水浴びをしているときは可愛いものですが、一たび自分が田んぼで育てている稲を食べはじめれば可愛くないと駆除するのはあまりにも視野狭窄ということでしょう。相手のことを思いやることで相手の理由も分かってあげる優しさを自然界は持っている気がします。

優しくなるためには自分の都合ばかりを優先するのをやめ害や益のモノサシを外すことからかもしれません。御互いに厳慈自然の中で必死で生きていることを尊重することで、それぞれが距離感の中で見守り合えるように工夫していくことが自然共生の法理ではないかと私は思います。

御互いに気を付けて御互いに活かし合えるような関係を深めていきたいと思います。