自由(信)と責任(信)の絆

人は与えられた責任の中で自由になるのと、元々自分の責任感の中で自由でいるのとでは意味が全く異なります。誰かから自己責任を押し付けられその中で義務で行い権利を主張するのと、自分から自己責任で主体的に取り組み全てを引き受けて実践するのとではその責任の本質も異なるのです。

そもそも本来の学力とは「危機感」を持てる人になることです。自己責任の本当の意味は、誰のせいにもしなくなるということです。他人のせいにして生きている人は次第に危機感が喪失していきます。全ての発生する現象はすべて自分次第であると覚悟を決めている人は主体性を失うことはありません。まさにジョン・F・ケネディの『国家が諸君の為に何をしてくれるかを問うな。諸君が国家の為に何を成し得るかを問いたまえ。』を正しく理解して実行している人になっているということです。

しかし実際は、考えなくなり受け身になり視野狭窄になり刷り込みに呑まれると一家よりも自分を守ろうとし社会が守ってくれることを期待し社會を自分で創ろうとはせず、国家が守ることは当然だと権利ばかりを主張しては、国家を自分が創り守るために自分独りからでも決心して実践していこうとはしなくなるものです。

他人のせいにできるという状態での「責任」というものは、自分が”負わされている”責任のことです。それは自分が責められるから、何かのせいにしておきたいから受け身に委ねるのです。本来の責任とは負わされるものではなく”自分から持つ”ものです。なぜ自分から責任を持てるのか、それはまず自分を度外視して理念や目的の方を優先しているからでしょう。

自分か相手かというのは対立ですから自分の都合を出せば相手は必ず苦しくなります。そうではなく御互いに同じ目的に対して同じ方向を観て一緒に考えていくのなら最善の方法もまた観えてくるように思うのです。

こちらか相手かという個人主義の対立概念では、御互いを本当の意味で尊重して助け合っていることにはなりません。どちらかが我慢する関係というのは、苦しく長くは続かないのです。これは会社に関わらず、夫婦や仲間に対してまで全てに言えることです。

自分の主義主張ばかりを要求したり相手に期待する前に、自分が一家に対して何を実践できるかを考えることが主体性なのです。信じてもらって自由になっているのだから、その信に応えて自立するのは責任を果たすことです。人は自由(信)な環境があるからこそ責任(信)を持てる人になるのです。自由の環境下にあっても管理されたがっている意識が外れなければ、その無責任は必ず誰かの負担になってしまいます。自由を与えてもらっているというのは自分を信じてもらっているということです、その自分を信じてもらっていることに対して人は信で応える恩返しするのが人の道、信への責任感(信忠義)ではないかと思います。

これは今の社会問題の根幹にあり、一人ひとりが自由に伴う責任感ということの意味をもう一度、今こそ考え直す必要があるように私は思います。世間のニュースをみていても、身近な組織の問題の相談を受けていても、無責任の悪循環の構図はどこにも蔓延っています。

子ども達のためにも自分の人生を自分で生き切らず誰かのせいにするようなことがないように、自分の脚で歩き、全人格に責任を持ち、自分で道を切り開くことの大切さを自由(信)と責任(信)の実践を通して好循環を創り、譲り遺していきたいと思います。