人間社會

先日、訪問した群言堂本店の洗い場にマハトマ・ガンジーが提言した「七つの社会的大罪というものがありました。そこには今まさに人間が創りあげてしまった道徳的でなくなっている社会的理由が書かれていました。

一、原則なき政治
二、道徳なき商業
三、労働なき富
四、人格なき教育
五、人間性なき科学
六、良心なき快楽
七、犠牲なき信仰

以上の七つですが「原則・道徳・労働・人格・人間性・良心・犠牲」などを見失えばその問題が社會のどこに出てくるかというのを深い洞察によって見抜いています。

例えば、「人格なき教育」でいうと人格を磨こうとしない教育など本来は存在しないということを言っています。論語で、「古の学者は己の為にし、今の学者は 人の為にす」とあるように本来は自己修養のために学問があったものを誰かに知識を教えて収入を得るためのものにすり替わってしまっているということです。偉くなればなるほど、有名になればなるほどに地位や名声、そして富が入ります。そうなってしまうことで人格を磨かない教育が人々に蔓延ってしまうと世の中が混乱しだすであろうということです。

そして「道徳なき商業」なども分かりやすいと思います。自分の稼ぎばかりを考えて人類全体の社會を善くするための商道を商人が行うことをやめたならあっという間に賄賂や詐欺、また中身のない経済が蔓延っていきます。二宮尊徳が「道徳を忘れた経済は、罪悪である。経済を忘れた道徳は、寝言である。」といい、渋沢栄一も論語と算盤とし「道徳経済の一致」をしなければ社會が腐敗してしまうと予測しました。

他にも「人間性なき科学」は、今のクローン技術の話や核兵器、化学加工食品などもそうです。「労働なき富」は、1パーセントの富裕層がマネーゲームで世界の富を蹂躙していることなどでしょうし、「良心なき快楽」は出会い系サイトなどもそうですし、「原則(理念)なき政治」は、今の日本政治の何も決まらないままの混乱した模様のようです。それに最後の「犠牲なき信仰」などは例えたくもないほどです。

マハトマガンジーがかつて洞察したこれらというのは、実際に人間の中に存在するものです。もともと人間には良いも悪いも半分ずつ存在しているとも言えます。何もしなければ動物と同じようであり、それを道徳の育成によって人間らしくなっていくとも言えます。だからこそ社會が人間であるように太古の昔から、私たちは社會を育てて守ってきたとも言えます。

孔子が仁の政治を説いてきたのも、仏陀が慈悲を説いてきたのも、キリストが愛を説いてきたのもまた、人間社會の在り方について深く洞察したなれの果てのように私にも感じます。自分自身が社會の一員としての責任を持ち、如何に人類全体のために自分の徳を磨くために自分を変え続けていくかというのがこの七つの社会的大罪を転じて七つの美徳にしていくことが本来の人間の社會的役割のようにも思います。

時代の終焉が近づくにつれ、これらの人間社會への人類の挑戦はまた繰り返し発生し魂を磨き続ける機会を天から授かります。日々の小さなところから、自分の実践を積み重ねて人類がいつまでも持続できるような社會を一人ひとりの目覚めによって改善していくことが希望のように思います。

子ども達の希望の光になるように、他人のせいにはせず精進していきたいと思います。