言葉という技術

人はコミュニケーションをとることで理解し合っていくことができます。対話がなぜ必要なのか、それは御互いを理解し合っていくためです。以前、養老孟子さんが「他人は互いにわかり合えないものです。わかり合えないからこそ、言葉があるのです。」ということを仰っていました。今のように言葉が無数に広がり使われるのはその技術を駆使されているからです。

人間は分かり合えないということを前提にしているからこそ、言葉という道具を使い細かいことを伝え合うのです。道具はすべて使い道ですから、どのように使うかで薬にもなれば武器にもなります。今はそれだけ細かく伝えなければならない理由が発生している情報が氾濫する時代だと言えます。

だからといって最初から伝えることを諦めてしまったら、分かり合うことができません。人は自分の方ばかりを分かってもらおうとしたり、どうせ分かってもらえないと諦めたり、分かるはずがないと決めつけたりしていたら言葉で伝え合うこともやめてしまいます。

想いを伝えるというのは、自分がどういう想いなのかを伝える技術です。心を遣って言葉の技術を磨いていくことは、分かり合うための学力かもしれません。分かり合うために言葉を使う私たちは、その言葉を磨いていくことでより人と想いを共有していくことができるからです。

そしてコミュニケーションや対話において重要なのは信頼関係です。信じているか、それとも疑っているかでは同じ対話でも同じ結果にはなりません。まずどのような「場」があって、その場でどのような心で伝え合い、御互いの立場や状況をどのように理解し合っているかという心の余裕が話の進行に関係してきます。言葉というものは御互いが余裕があるときに聴けば心地よいものも、御互いに余裕がないときに聞けばかえって不具合になることもあるのです。つまりは余裕を持つために自分の状態を常に確認しているかということは言葉を発する上で重要な要素です。

「我々は、行いによって友人をつくるよりも、言葉によって敵をつくることの方が多い。」(チャートン・コリンズ」というものもあります。

だからこそ日頃から小さな言葉がけや関わりを自らが発し、繋がりが観えなくならないように手間暇を惜しまずにコミュニケーションを持つことで、相手がどんな状況であるのかを慮り思いやり小まめに相手の心に寄り添うことで互いの言葉を通して相手を理解していくことができるように思います。

人は発信することで受信しますから、受信するにも発信しなければ還ってくることはないように思います。信というものを頼りに関係を築くのが人間ですから、不信になれば信頼関係を築くことが難しくなります。

それに相手を理解する前に、人間は誰しも自分自身のことが一番分かっていないものです。自分と静かに向き合って内省し、素直な心で自分の本音本心を知ることで言葉は大切に磨かれていきます。自分が一生涯に生きて、どんな言葉をかけていきてきたか、それを想い返せば壮大な生き方が凝縮した一冊のノートのようです。そこに記した言葉を読めば、その人の人生の日記、そして一生の歴史そのものを記すものかもしれません。

このブログも、日々に書く日記も、どんな一日を過ごしたかが書かれていますからそれだけ言葉を大切に磨いていく中で言葉や道具の使い道を間違えず、言葉の砥石で自分も磨いていけるように思います。

人の言葉を素直に受け止めていく人は、御縁を信じて歩んでいける人のように思います。言葉によって傷つくからと、言葉を使うことを避けたら本当に善い言葉に出会えることもなくなってきます。これは人間の出会いと同じで、出会いと別れは常につきものだからこそその両方を福にしていくためにも正対し、丸ごと向き合っていくことが御縁を味わうことになっていくのでしょう。

コミュニケーションは人間関係の要諦ですから、引き続き学び直していきたいと思います。