民具の魂

昨日、無事に自然農の御米の脱穀を行いました。今の農業では、機械で刈り取るときに同時に脱穀しますから脱穀している様子を見ることもなくなりましたが昔はずっと手作業で脱穀をしていたように思います。脱穀とは、稲の穂からお米の実をとりのぞくことを言います。

江戸時代に入り、千歯扱きという脱穀の道具が発明されました。それから大正時代に入り足ふみ脱穀機がでるまではそれが活躍していました。今では動力を使っての脱穀ですからあっという間に終えてしまいます。しかし昔の民具を使うととても時間がかかってしまいます。

不思議なのは、これだけ時間がかかっていても昔はそれでも画期的な民具として使用されていたということです。昔の手紙が電話になりメールになっているように、次第に昔のものは使われなくなっていきます。新しい発明品がでると、昔の発明品は色あせてしまいます。

昔は動力は人間のチカラだけで民具も自然に近い道具ばかりでしたが、今では動力といって電気、ガソリン、ガスを使い動かします。原子力発電などもそうですが、特殊な動力を使うことで大きな作業もできるようになりました。

しかし同時に、馬や牛、その他の家畜、また鍛冶職人や木工職人、その他の民芸職人はいなくなり今では機械で全部つくられます。

民具には時代時代の価値観が反映されているように思います。どんな民がどんな道具を創るのか、民具や民芸の中には暮らしが入ってきます。今の時代の道具にはあまり暮らしにつながっているものがなく、使い捨ての文化の中で次々と新しいものが発明されていきますが本来、新しいものだけが価値があるわけではありません。古いもののなかには、とても大切な人と人、人と動物、人と森林、人と自然、といった絆やつながりが切られていないものが残存していることに気づきます。里山もそうですが、民具はそういう暮らしの中で暮らしを壊さないようにつくられてきたとも言えます。

我が家は足踏み脱穀ですが、一家総出で協力して脱穀していると里山の懐かしい原風景が瞬時に顕れます。先祖たちはどんな暮らしをしてきたか、そしてどの暮らしを遺そうとしてきたかは民具の魂に顕れます。

古民具の持つ様々な魂に触れつつ、時代時代の暮らしを見つめてみたいと思います。