先達の書

先日、慈雲尊者の御縁から、岡山でかつて「今良寛」と慕われた松坂帰庵大僧正の書に出会いました。書の特徴としては、慈雲尊者を研鑽し、竹筆による作風で独特な風格があります。

書としての字も何か見ていると心が感じ入るものがありますが、同時にその選ぶ言葉や文章にも深い感化を受けることが出来ます。人が遺す言葉というものは、その人の生き方が顕現している気がしてその書の持つ美しさには魂が揺さぶられる思いがします。

この松坂帰庵にこういう書があります。

『自分は仕合せだとおもう人はそれだけでしあわせである』

これはとても含蓄がある言葉で、今の時代にはもっとも相応しいものではないかと感じます。人は、不足を思えば不平不満をこぼし、今度は満たしてばかりいたら我儘になります。どちらにしてもいただいているものを味わおうとしない心の持ち方が、今のような時代背景をうけて広がっているのかもしれません。

自分は仕合わせというのは、一体何の御蔭様で今の自分があるのかを見つめる言葉です。そしてその順々に巡ってくる御縁を感じていれば、「仕合わせ」の本質に気づけるかもしれませんが自分の思い通りにしたい欲望や、正しいとか正しくないとか比較を思う刷り込みなどに惑わされ本来の姿を見失ってしまうのでしょう。

自分の運命がどのように巡ってくるのかは、天が与えてくださったものを謙虚にいただき味わい盡しそれを愉しみ、自然に沿いつつ満たし過ぎず足るを知り、自分が何を間違っているのかを教えていただきつつ反省し精進していけば素直に来たものを選ばないで受け容れることができるように思います。

そうやって巡ってきた運命に対して、謙虚に素直にいることが「仕合わせ」ではないかと思います。そしてそういう生き方をしている人は、先ほどの『自分は仕合せだとおもう人はそれだけでしあわせである』の境地を持つ人になっていると思います。

ないものねだりをする前に、今、いただいている御蔭様や御縁にどれだけ感謝で恩に報いているかが「仕合わせ」に気づく感性を磨いていくことなのでしょう。

その人は世界でたった一人のその人ですから、そこには比較はありません。唯、御縁があるだけです。丸ごと信じて、巡り合わせを信じて澄んだ真心と朗らかに歩んでいきたいと思います。

自然体でいるということの意味を、先達の書から深めていきたいと思います。