経営ではなく理念

人はその時々の決断で何を優先するのかをはっきりさせていきます。人生は選択の連続ですが、その時々の選択に何をもってくるかでその後の方向性が決まっていくものです。

つまり優先順位があるということです。

世の中には無数の答えが存在します。それはその時々の優先順位があるという意味と同じです。そして優先順位とはその目的に対して行われるものですから、優先順位を決めた時はその目的を自分はもとより周りも確認するということです。

その人が何をもっとも大切にしたいかという方向性、何を大事に生きるかという初心を自他へ表明することになります。これが組織においては多大な影響が出てくるのです。

よく経営か理念かと組織論では語られることがあります。理念経営をしていますとかいう声も聞きますが実際は経営理念になっているだけで経営の中に理念を付け足しただけにすぎません。経営するための方法論として理念を置いているだけになっているところが多い様に思います。

理念とは目的です、経営は目標です。目的がなくなれば目標しかありませんから、目標を達することが正解になります。しかし目標だけをやっていて正解になってしまえば、目的は忘れてしまうものです。本来、目的があれば目標はなくても問題がない様に思います。目的意識がある人は自ずから必ずその目的に近づいていきます。目的に合わせて自分の方を変え続けていく人は、理念を実践する人とも言えます。経営は実践とは言いません。

本来、目的(理念)をはっきりさせておかなければ人は何のためにやっているのかがわからなくなります。そうなると目標に囚われ、目標ばかりを優先するようになります。目標は達成すれば充実感が得られますが、目的は心の充足感が得られるように思います。人間は心があるから人間ですから、充足感というものは心の状態ですから人間が心を失わないためにも必要だと思います。

シンプルに言えば「目的を忘れずに実践することが理念を優先する」ということです。その目的がもしもズレているのなら、すぐに自分の方を修正しなければなりません。この「何のために」を明確にすることが本来のリーダーの役割であり、一人ひとりがリーダーシップを発揮するにはこの目的を理解し合わせなければできません。

目指す目的を一緒に観て、それぞれが自分に打ち克って実践していくからこそ御互いのことを尊重し楽しく豊かに働くことが出来るようになります。何のためにというのは、初心の自分を取り戻すための大切な鏡です。

その鏡に映るものがもしも目的や理念でないのなら、鏡には初心とは別のものがいつも映り込むことになるでしょう。目的を忘れて日々の些事や雑事ばかりを優先していたらそのうち些事や雑事の方が大事なことのように勘違いしていくのが人間です。そうならないようにしていくための環境づくりこそがリーダーの真の役割かもしれません。そして目的があるからこそ、理念と経営が一致していき本物になっていくように思います。本物であるということの定義は、そこに嘘偽りのない本質そのもの、”理念が経営になっている”ということ、つまりは古語に言う「中庸であり至誠の存在になった」ということです。

日々に関わる人たちと皆で一緒に優先している目的を忘れない克己の工夫を用意していきたいものです。理念を実践するということの本来の意味を、自分たちの姿によって伝承していきたいと思います。

真我の目覚め

先日から理念を取材する有難い機会をいただいています。いつも感じるのは、人間の持つ尊さです。人が本心の中に理想を持ち、その理想はとても崇高なものです。真心や思いやりをこちらが感じているとき、それはその人の中にあるものと通じ合います。心で人間の真心を感じることができるなら、人間は皆思いやりに満ちていることに気づけるのかもしれません。

しかし実際にはその本心は日頃表層には出てこないものです。なぜなら日頃の生活においては脳が普段の状況を分析し処理し、習慣によって生活に支障がおきないように調整されているからでもあります。また人間は我と真我があります。我で生きていくのは、食べることや寝ること、その他の欲を果たすことで生存を維持するからです。

ただし、何のために生まれて来たのか、何をなすのかという使命は真我が行います。それは人生の目的であり、その人の魂の望む在り方のことです。これは日頃の生活の欲とは異なり、人生の欲でもあります。一生一度、一期一会に生きる今世の自分だからこそそこで成し遂げたい生き方というものがあります。感じたいものがあります、そして味わいたいものがあるのです。

もしも人間に生きていくことの悩みがなくなるのなら、あるものは命が望んでいるものだけです。人間には奥深いところにその目的を秘めています。その秘めたものが表に顕れるとき、人はその人物の信念を見ることが出来るのです。そうやって人は何を成し遂げたいのかということを語ることで、支援者が増えて目的を達成できるのです。

そういうことを語っていないのなら周りもその人の力になれない場合が往々にしてあります。もしくは本来の目的ではない欲ばかりを話しても誤解される一方です。人は本心からの真我の声、私たちは信念の種とも呼びますがそれを呼び覚まし、それを実現したいと日々に語り実践で示すなら人間はみんなそれを助けたいと思います。

なぜならそれが生まれてきた意味になるからです。

私たちは意味というものをあまり大切にしていません。しかし本来の人生とは意味なのです。その意味をどう味わうかはその人一人ひとりの真我の目覚めと実践に由ると私は思っています。

理念を出すというのは、その人の本心を目覚めさせておくという意味でもあります。いつまでもうとうとして迷い惑い眠りこけていたら気がついたら終わっていたではもったないように思います。

こういう魂の目覚めの手助けというものは、見守ることに通じています。

見守るということの見守るが何を見守るかは、その人が見守られていることに気づけるかどうかです。日々の実践を高めて、子ども達の信じる未来を切り拓いていきたいと思います。

全心全禮~真心の生き方~

人は自分のことを無意識に飾っているものです。周りからよく見られたい、また見せたいと思っています。それ自体には問題がないのですが、他人の目気にして自分が見せたいものを見られたいとあまりにも思っていると人と人との本物のつながりや結びつきが希薄になってしまうかもしれません。

「素顔」という言葉があります。これを辞書でひくと、「1 化粧をしていない、地のままの顔。2 飾らない ありのままの姿。」とあります。人は御互いが素顔になることで、本当のその人を知ることが出来ます。素顔になるというのは、その人に胸襟を開いているのだから信頼する人に対して自分の顔に鉄の仮面をつけないという意味です。

人は装飾し合っている姿でかかわる人間関係と、本音本心で語り合いたい仲間がいます。仲間や同志というものはいつもはだかの付き合いをしたいものです。これは別に真っ裸にからだを見せ合うことではなく本音を見せ合うことです。はだかの付き合いをするというのは、隠し事もせずお互いに全心全禮でいるということです。つまりは自分の心に衣をきせないということです。

人は友のことを、莫逆の友 ・  無二の友人 ・ 盟大の友人 ・ 刎頸の友 ・ 大の仲良しなどという言い方をします。特に志を同じくし生きている人は同志といい同時に人生を共に歩む戦友でもあります。そういう友に対して、素顔でいることはだかの付き合いをしようと声がけしてくれるというのは「語り合おう」という声がけでもあります。人は出会いによって人生が変わります。どんな人と出会い、どんな仲間を持ち、どんな自分を持てるかは自分の素顔と心をさらけ出せる人を持つということです。

人は本当の自分を好きになってくれる人に心を委ねて安心します。自分自身を自らが偽り飾りそして隠すと寂しい人間関係が出来上がってしまいます。人生というものは、道もありますが朋もあります。同朋を持つというのは、一期一会の志を豊かに飾ってくれる青春を持つことかもしれません。

最後に刎頸の友という言葉があります。

これはその友人のためなら首をはねられても悔いはないと思うほどの、親しい交わりの友のことです。春秋時代、趙の将軍廉頗は、功績により自分より上位になった名臣藺相如を恨んだ。しかし相如は二人が争いにより共倒れになることを懸念し、国のために争いを避けるつもりでいることを聞いた。それを聞いて廉頗は自分の考えを恥じ、深く反省し、相如へわびに出かけて刎頸の交わりを結んだという故事によります。廉頗と藺相如がかたい友情を結ぶまでには紆余曲折があり、素晴らしい友というのは一朝一夕で決して得られないということです。自分自身が首をはねられても守りたいような友に出会える御縁に結ばれることは何よりも魂の仕合せかもしれません。

人とどんな付き合いを自分がしているかは、自分がどんな生き方をしていきたいかにつながっています。人生は、どんな人が周りにいるかでその質もかわりそして歓びも仕合せも変わります。

無二の人生だからこそ、人間を信じ、志を優先し、本音本心が出せる無二の自分を誇りに思いたいと思います。子ども達の心はいつも素顔のままの清らかで美しい表情をして心を周りに開いています。私たちの本業が子ども心を守る志事だからこそ、自分自身が清く明るく直き心で全心全禮の実践を積み重ねていきたいと思います。

善い失敗~主人~

人は学び方にその人の生き方が出てくるものです。どのような学び方を学ぶかは、本来何よりも大切であるにも関わらず学び方を学ぶことについては気づいていないことが多い様に思います。なぜ学び方が大切なのかは、それが一生の学問の姿勢を左右するからです。付け焼刃の教育ではない、本物の教育とは何か、そこには主人公であり主体性があり、積極性、能動的に学ぶ本人の学問への取り組み方というものがあります。

よく昔の一子相伝の技術の伝承や、先人たちからの智慧の学び方には「好きこそものの上手なれ」があります。好きになること、仕事を愛することが何よりも上達のコツであるということを、師は弟子にあらゆる姿を見せることで伝えたりします。これも一つの学び方を学ぶということです。

しかし、今、学び方の問題があるのは失敗することを恐れ何もしないことが失敗しないことだと勘違いした学び方をした人たちがそのことから学問を愉しめないようになっているのではないかと私は思います。

本来、失敗があることが悪いことではなく失敗したことからなにを学んだかということが学び方を学ぶということです。失敗しないために学ぶというのは、言い換えれば相手に合わせていればいい、問題を起こさなければいいという受け身の姿勢です。こんなことでは学んでいないだけではなく、学問は問題を起こさないために行うものだという消極的な姿勢が身に付いてしまいます。そうなると、自分のやっている仕事に誇りを持つのではなく保身からくるプライドを優先し、学んでも学ばない、つまりは学び直しをすることもできなくなります。

失敗するのは、その人が自分から取り組み学んでいるからです。ことわざにも「失敗は成功の母」「誰よりも早く、多く失敗しなさい」や「1%の成功は99%の失敗の積み重ね」などもあります。失敗するというのは、本気でやっているからです。本気でなければ失敗を恐れて誤魔化そうとしますが、本気の人は失敗を隠すことなくそこから学んで改善し失敗を糧に自分を成長させて成功するのです。それが素直さであろうと思います。

人は正解を教えることによって失敗をしなくなります。しかし、絶対的な正解などこの世の中には存在せず、その場その人によって無数の正解が存在するのです。自分が挑戦して自分自身の答えを探し求めていくのが人生ですからそれぞれに失敗を積み重ねて自分の人生と正対しその時々の答えを深めてもぎとっていくしかないように私は思います。

もっとも残念なことは、教育の刷り込みによって人の目を気にして失敗を恐れて何もやらない方を選択する人になってしまうことです。人生に本気だったかは、どれだけ積極的に取り組んだかということです。そこには数々の失敗、時には周りからの中傷も批判も、また時として軽蔑などもあるかもしれません。しかし最期まで諦めなければ必ずその人は認められることになるように思います。それは歴史が証明しています。

受け身と能動という言い方もあり、世間ではアクティブラーニングなども流行っていますがそれはテクニックではないと私は思います。能動的学びは生き方ですから、失敗は善いもの、善い失敗を進んでやれる考え方や学び方から大人自らが実践していくことで子どもたちもまた学問の真の愉しみに気付くように思います。

生まれてきて一生に一度の人生を謳歌できるようにすべてのいのちが天から与えられています。その主人は常に自分ですから日々は挑戦する機会だとし一期一会に自分を盡すこと、遣りきっていくことで得られる学問の醍醐味を実践によって深めていきたいと思います。

人生の王道~自分の根を掘り下げること~

私たちは自分のルーツを知ることで、それまでどのように生きてきたかといった歴史が辿ってきた道のりを学ぶことができます。自分の世代だけを謳歌しようといった風潮の中、本来の教育が失われてきているのではないかと思います。

日本の心や日本人の精神、それらのことを伝承されている文化や道具に触れていると本来、先祖たちがどのような生き方をしてきたかを学び直すことができます。自分の根っこを知ることは、自分がどこに根を据えていけばいいのかを学ぶことです。教育の醍醐味とは、自分が何ものなのかを知ることでもあります。そしてこれからどのように生きていけばいいのかを示す入口でもあります。

技術や能力ばかりを教え、道徳も単なる正しいことばかりを並べては良いことだと大人が子どもに一方的に押し付けてもそれで道徳観を身に付けることはないように思います。大人たちの人生観をはじめ、生き方や働き方の背中を通して子ども達は直感していきますから、自分がまず日本人になっているかということが肝要だと思います。

稲盛和夫さんの著書に「人生の王道」(日経BP社)があります。その中の教育の項目にこのように書かれます。

「一国の宰相だけでなく、私たちにもやらなければならないことがあります。「日本を知る」ということです。この国がどのようにして成り立った国なのか、我々の祖先がどういう生き様で国をつくってきたのか、素晴らしいことも過ちも自分たちの国が歩んできた道のりを知ることです。
今の教育現場は、日本という国について教えることにあまりにも腰が引けています。グローバルに生きる時代だからこそ軸足をしっかりと据えなければ、日本人は世界の中で「根なし草」になってしまいます。日本の成り立ち、特に近代になってからの世界の中における日本の位置づけを教育の現場できちんと子供たちに教えるべきです。そのうえでこれからの日本がどういう道を歩んでいったらよいのか考えるべきではないでしょうか。」

世界が一つになってきているからこそ、自分の根がどうなっているのかを知り、それぞれの民族がその風土の中でどのように生きてきたのかが重要になるのです。地球の中には、それぞれに国土というものがあります。気候や風習、そして全ての生き物がその場所に順応し、自然に沿った生き方をして個性を磨いてきました。

十羽一絡げのように、同じものが世界に溢れてもそれは多様性を発揮しているわけではありません。多様性を発揮するには、それぞれの風土で育まれた伝統と伝承、その生き方をしてきた人物が自然の智慧を存分に発揮して、他の風土と一緒一体になって新しい地球上での住み分けを考えていかなければなりません。

世界が一つになるとき、御互いを思いやり持続可能な社會を維持できるのは軸足がしっかりと日本人として根をはっているものだけが可能です。世界に出て真に活躍できうる本物の国際人物とは、単に経営が上手だから認められるのではなく、その人が日本人の心と魂を存分に発揮することができてはじめて世界から認められます。

人生の王道というものは、自分の根を掘り下げていくことだと私は思います。

掘り下げることがない人生は、まるで浮草のように流れてはどこかに消えていきます。せっかく生まれてきて一期一会の人生をいただいたのならば、自分の根を深めて自分の根からの養分で一生の花を咲かせて実をつけ種を遺していきたいものです。

日々の実践が根を深めることを助けます。

引き続き、日本の心、日本人としての生き方を学び直していきたいと思います。

大和魂と大和心~人であるために~

日本刀は武士の魂と言われます。また世界で唯一、魂が宿る刀であると評する外国の人もいます。それくらい日本刀というものは、特別視されるものです。それはなぜかということです。他にも魂が宿るという道具がこの世の中にはたくさんあります。手間暇と丹精、真心を籠めて造られたものにはすべて魂が宿るといいます。

この「魂が宿る」ということを少し深めてみたいと思います。

そもそも魂とは何かということになります。ものづくりでいえば、心を籠めることにあります。つまりは、心が入っているということです。この逆を言えば、心がないもの、心が入っていない魂の抜け殻というものになります。心が入っているものは、それを使う人の心をまた同時に使う必要があります。なぜならそれだけ丁寧な使い方をしなければ壊れてしまうからです。しかし今の時代のように簡単便利に、大量生産できるものは壊れても買い換えていいものをつくったり、もしくは壊れないために加工されたものをつくります。ここには心のあるなしは必要はなく、技術があれば成り立ちます。

この技術があればというのは、先ほどの武士であれば殺戮能力さえあれば武士になれるという意味になります。しかし本来の武士は、技術があったから武士だとは言いません。武士は無用な殺生はしないと言います、刀は滅多なことでは抜かないといいます。それは殺生するということが、人を殺めるということを自覚しているからです。つまりは心があるからです。心を亡くしてしまえば、ただの殺戮マシーンになります。武士はそんなことはしませんでした、だからこそその殺戮の道具である日本刀には心がなくならないようにと念じて鍛冶師が打ち、その心がなくならないように武士は日々に手入れをして心を研ぎ澄まし心を失わないように精進をしたように思います。

かつての戦争においてでも、日本刀を帯刀した日本兵は最期まで心を失わないようにと戦いました。機関銃で乱暴に殺戮したり、ミサイルで大量に無札別で殺傷していても、日本人は日本刀を帯刀し単に殺戮マシーンになりさがることを自ら戒めました。そこには「どんな時も心を失わない」という決心と初心があったからです。そこに魂が入っていたのです。

つまり「魂が宿る」というのは、人としての心を失わないということです。

心が籠らない仕事は、魂が宿っていない仕事です。そんなことをしては、「人」ではありません。だからこそ最期の最期まで「心(魂)を持っている人」でいようと「人」でいることにこだわったのです。

人が心を失うということがどれだけ悲劇であるか、日本人の先祖たちはそれを知っていました。どんなに時代に翻弄されても、その心の在り処、つまりは魂の宿る場だけは失わないぞという覚悟を日本刀に託したのではないかと私は思うのです。

今の日本社會は残念なことに、忙しさに追われてそして心を入れることを忘れては「人」ではなくなって傷つけあって苦しんでいる人たちを沢山見ます。それは大量生産大量消費、経済優先、そのような使い捨ての文化の中で本来の「心」を見失ってしまったかもしれません。

本来の心を取り戻すために、先人たちの生き方やその道具から何を日本人がもっとも大切にしてきたかを再度考え直すべきであろうと私は思います。大和魂とは「大和心」のことです。大和魂を持つ人があって、はじめて日本刀に魂が宿りました。同じく、日本刀に魂が宿るのは大和心を失わなかった人があってはじめて両者成り立ちます。

先祖たちに恥じないように、今の時代でもどんなときも「心」を優先し、人格を高めて人格を磨き続け、こどもたちに先人たちの心を伝承できるように精進していきたいと思います。

情熱のチカラ

故事に「鉄は熱いうちに打て」というものがあります。これは鍛冶から発生した言葉で、鉄は熱して軟らかいうちに鍛えろという意味です。そこから精神が柔軟で吸収する力のある若いうちに鍛えること、また物事は関係者の熱意がある間に事を運ばないとあとでは問題にされなくなるというたとえとして使われています。

鉄を鍛錬するときに、何回も何回も打ち形にしていきます。鍛錬とは、厳しい修行により自らを鍛えていくこと、そして練り上げていくことですがここで最も大切なのは「熱」があることであるように思います。

鉄に限らず、全てのモノが変形するには「熱」が必要です。炭を燃やして黒かったものが真っ赤になり透明な炎がそのものに宿るとき、そこに新たないのちが吹き籠ります。

その時、科学では遠赤外線という言い方で表現されていますが独特の熱が発生します。この熱は、「万物をとかす」チカラを放ちます。そしてその熱により、他の物質が影響を受けて熱が通っていきます。その熱が通った状態で、別のモノへと変化させていくというのは自然の叡智です。

これは太陽の熱が地球の生き物たちを変化させていくのと同じです。それを見極めた先祖たちは、それを錬金術をはじめ日頃の料理や、その他の道具作りに活かしました。

人間では、人格形成でこの熱のことを用います。それは「情熱」のことです。人はやる気といったモチベーションというものがあります。何をするにも自分が燃えていなければ変化することはありません。いくらチカラがある鍛冶職人であろうとも、燃えていない鉄は変形させることはできません。燃えているからこそ、それを鍛錬して見事な美しい姿へと換えていくことができるのです。

燃えるというのは如何に不純物を取り払うかというのに似ています。火のチカラをもって、不純なものを燃やしていくことで最期は真っ白な灰になります。灰になるというのは、跡形もなく姿かたちが燃えきってしまった姿です。

情熱を燃やし続けるというのは、灰になるまで燃えきったということです。それは燃やされて燃える灰もありますが、やはり最期まで燃えるものは中からの炎によってのみ燃え切るように思います。

情熱は、「すぐやる」ことと「しつこくあきらめない」ことの矛盾の中で燃え盛ります。実践も同じく、すぐにやることと地道にやることがあって 情熱の炎は自分自身の心に宿り続けるのです。

冷えてしまう、冷めたという言葉はその真っ赤な炎が魂に宿ることがなかったということです。湿気た炭になってしまったら、火がつかないだけはなく湿気た炭自体が爆ぜてしまい周りにも危険で多大な迷惑をかけてしまいます。これは人間でもいえることで、組織を壊していく原因になります。

だからこそ自分自身だけでも情熱を燃やし続け、仲間を増やしどんなに水をさされてもそれを簡単に蒸発するくらい燃えたぎる情熱と熱意をいつまでも持ちたいものです。

そして炭にもまた一生があり、はじめの頃と全盛期と降りる時期があります。だからこそ情熱もまた次世代へとつないでいく必要がります。炭から学び火から学び鐵から学び直す日々ですが、しっかりと情熱の意味を深めつつ子どもたちのために実践していきたいと思います。

 

 

自己肯定感と自己信頼

最近、自己肯定感について考える機会がありました。もともと自己肯定感とは自信のことです。自分に自信がある人は自己肯定感があり、自信が少ない人が自己肯定感が低いと言います。自己肯定感が高い人は、自分自身を信頼することができますから自分自身のことを安心してコントロールしていくことができます。しかし自己肯定感が低い人は、自分自身のことが不安ですからコントロールすることがうまくできなくなります。

つまり自己信頼ができるかできないかというのは、自分自身を活かしていく上で大変重要なことになります。

それではなぜ自己肯定感が低くなるかということです。

これは一概には言えませんが、まず自分自身との信頼を築けないことに理由がある様に思います。自分が決めたことがやり遂げられなかったり、自分の初心を自分が忘れてしまったり、忙しくして自分がこうありたいと思う自分を放り出してしまったりするときに、罪悪感から自分を嫌悪するようになります。自分自身を自分自身が裏切るのですから自己信頼は、自己不信に変わります。これが自己肯定感が低くなる大きな理由ではないかと思います。

人は社會の中で、自分以外の人たちと信頼関係を築いていきます。それはどういうものかといえば、周りにあわせて信頼してもらおうではなく「自分自身が自分との約束を守り、できることはやる!」というように誠実に取り組んでいくことで周りもまた次第に信頼をしてくださるようになります。これは自己信頼でも同じで、自分自身が決めたことを実践し続けることで自分への信頼感は高まっていきます。つまり自分はできることはやると決めたことを遣り続けているのです。

しかし自己信頼が低い人は、自分のできることをやろうとはせずできないことばかりに文句を言ってはできることもしなくなっていきます。つまりは自己不信の状態を続けてしまいます。

自分自身が自分にできることを精一杯やり遂げていたら、次第にできることは増えていき何でもできると思えるようになります。しかしできないことばかりを考えてはできることまでやらなくなれば、次第にできないことばかりが増えてどんなことでもできないと思えるようになってしまいます。

自己信頼というのは、小さな日々の自分との約束の積み重ねによって築き上がっていきます。そしてこれができる人がはじめて周りとの信頼関係を積み上げて築いていくことができます。

できるできないから入るのではなく、「人事を盡そう」、「やれることはやろう」とやっていくことで次第にできるかできないかではなく、「実践する」という境地に入る様に思います。

実践するのは、自分に打ち克つためでもあります。自分自身の自我欲に負けて怠惰になるのではなく、自分自身の理想や初心に対して正直にいる自分を誇りに思えるようになることで人は自己信頼ができるようになります。

昔ある方から「誰がみているかみていないかではない、一番身近で自分が見ているではないか」ということを教えていただいたことがあります。自分を誤魔化すことが増えていけばそのうち周りの人にまで誤魔化すようになります。自分自身の不信は、次第に周囲への不信になり、自己信頼の欠落は周りからの信頼の欠損にもなっていきます。

社會は、見えない約束事で成り立っていますからそれを自ら先に破壊すれば社會が安心して平和に保つことができなくなります。一番身近な自分を責めては罪を擦り付けるのではなく、できることを背一杯やってできないことは周りに頼るという本来の信頼関係を築くことです。

周りに頼れる人は、自分のできることは精一杯やる人だから周りに安心して頼れるのです。周りに頼れない人は自分にできることもやっていないと思った方がいいでしょう。

結局は、どんなことも未来は今の自分の実践次第なのですから変わらないものを嘆きどうにもならないことにいつも悲嘆にくれては何もしないよりも、自分が変えていけるものは何かを見つめてできることをやっていくしかありません。「人事を盡して天命を待つ」心がけで、実践を積み重ねて自己信頼、周囲の信頼を勝ち得ることが善い組織のみならず善い社會を形成する要です。引き続き「実践」の大切さを伝えていきたいと思います。

真心の薫り~日本人の心~

昨日、「たたら製鉄」のことを書きましたがたたら製鉄とは日本古来の製鉄法で祖先が営々として築き上げた日本独特の製鉄法で千年以上の歴史をもつそうです。

そもそも「たたら」という言葉は「ふいご」を意味する言葉のようです。日本書紀には神武天皇のお后になる雲の姫、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずのひめのみこと)がいます。蹈鞴と書いてたたらと読みますが、蹈鞴は踏みふいごのことです。

この蹈鞴で鉄を吹くことから鉄を製錬する炉もたたらというようになります。そして漢字で鑪と書いてたたらと読ませます。さらに炉全体を収める大きな家屋(高殿)、さらにはこれら全体を含めた製鉄工場もたたらと言うようになりました。

そしてこのたたら製鉄でつくる代表的なものが日本刀です。

日本刀の特徴はよく「折れず、曲がらず、よく切れる」といわれます。これは矛盾を内包している言葉です。つまり「折れない」ためには鉄が柔らかくなければなりません。そして「曲がらない」と言うことは鉄が硬くなければなりません。つまり刀を柔らかくもあり硬くもある鉄で作るということになり矛盾があるのです。そしてその上で、よく切れるという事ですからここに日本人としての鐵をつくる心があります。

そして1000年経っても美しさを放ち続けると言われ、日本刀は日本人の魂を顕すものだとして世界で評価されています。

日本刀には、姿の良さ、刃文、沸、匂、映り、地肌の霊妙さなど、神秘的とも言える荘厳な美をもっています。そこには、玉鋼が姿かたちを換えていまもまだ生きています。

日本人のモノづくりの感性はすべてにおいて「いきもの」に接して、新たな「いのち」を吹き込むものです。あらゆる精霊を組み合わせて、新たなものへととけ合わせていくチカラ、そこに日本人のものづくりの真心があります。

これは決して鍛冶だけではなく、杜氏、宮大工、そして先日拝見した塩田職人などもすべては自然のものを大切に尊重して扱い、それを自然のカタチを壊さないように丁寧に別の御姿へと変えていく神技の極みです。

このプロセスの中にこそ、自然を崇拝して自然と共生してきた智慧があります。

私たちが忘れてはならないのは製鉄法ではなく、その中に籠められている日本人の心であろうと思います。どのような生き方をしてきたか、それをものづくりによって子子孫孫へと伝承されています。

先祖たちがどのように生きてきたか、そしてどのように生きてほしいかをものづくりの中に心を籠めて遺してくださった先祖たちに感謝の心が湧いてきます。子ども達にどうあってほしいか、永続して繁栄し心穏やかに仲睦まじく和を尊びいきてほしいと遺してくださった真心が薫ります。

真心の薫りがなくならないように、平成の時代でもそういう生き方をした人たちがいたと子どもたちに慕われるように自らの生き方で伝承し、それを遺し、子どもたちに真心を譲れるようにしっかりと日々の志事を通じて日本人の道具と暮らしを大切に守り精進していきたいと思います。

鐵は金の王哉り~たたらの魂~

先日、御縁があり刀工上田祐定さんの文化包丁を譲っていただきました。かねてから「たたら製鉄」に興味があり、古来からの砂鉄を使い「鐵」を用いたものがいのちが吹き込まれているのを実感し、日本刀の持つ美しさにその鐵の魅力を感じたからです。

現代の鉄は、洋鉄といい鉄鉱石から鉄を取り出した鋼を使っています。しかし古来の日本は砂鉄を用いた玉鋼というものを使っていました。玉鋼は日本刀製作において最も刀の出来に関わるため日本刀は玉鋼を用います。たたら製鉄により砂鉄から精製する鉄を玉鋼と呼びます。洋鉄は鍛錬すると段々脆くなりますが、玉鋼は飴のように粘りが出て折れ難い柔軟な鉄になる性質があるそうです。古来から「玉」という響きは、「魂」を顕しています。魂が宿る鐵だからこそ「玉鋼」と呼んだのでしょう。

また同じ鉄でも鍛錬すればするほどに脆くなるものと、鍛錬すればするほどに柔軟になるのとでは意味が異なります。以前、映像で海外の刀と日本刀との違いを実験していた番組がありました。その中で唯一、鉄を切れるものは日本刀だけだということを話していました。その時、本物の強さや切れ味とは柔軟性であるということを実感した覚えがあります。

私も今の時代の鉄は鉄といい、古来の砂鉄からの鉄のことは「鐵」であると区別しています。この「鐵」という字は、その字を分解すると「金の王哉り」と書きます。つまりは金の王であるということです。

この鐵は生き物ですから、刀工はその鐵の生き物を扱い、火と水と土と木と光と闇を使い錬金術を用い新たないのちになるように熔け合せていきます。刀鍛冶の魂を感じるこの「たたら製鉄」での日本刀は何よりも私たちの祖親たちの魂の伝承のように思います。

「鐵」は、それ自体がとてもいい音がします。その響きを聴いていると、その音から意志をも感じるものです。無生物であろうとも、私たち日本人はそこにいのちを感じて、そのいのちを活かそうとしました。

時代が変わっても、私たちがどんな生き方をしてきたか、何を大切にしてきたかは子どもたちに伝承していきたいと思います。これから包丁として日々に実践していきますが、いつの日か自分の手でたたら製鉄を実践してみたいと思います。

新たなインスピレーションをいただき、有難うございました。鍛冶の言葉には人格形成するための様々な格言や言葉に溢れています。鐵を打ち鍛錬することの本質を、鐵から学び直してみたいと思います。