真我の目覚め

先日から理念を取材する有難い機会をいただいています。いつも感じるのは、人間の持つ尊さです。人が本心の中に理想を持ち、その理想はとても崇高なものです。真心や思いやりをこちらが感じているとき、それはその人の中にあるものと通じ合います。心で人間の真心を感じることができるなら、人間は皆思いやりに満ちていることに気づけるのかもしれません。

しかし実際にはその本心は日頃表層には出てこないものです。なぜなら日頃の生活においては脳が普段の状況を分析し処理し、習慣によって生活に支障がおきないように調整されているからでもあります。また人間は我と真我があります。我で生きていくのは、食べることや寝ること、その他の欲を果たすことで生存を維持するからです。

ただし、何のために生まれて来たのか、何をなすのかという使命は真我が行います。それは人生の目的であり、その人の魂の望む在り方のことです。これは日頃の生活の欲とは異なり、人生の欲でもあります。一生一度、一期一会に生きる今世の自分だからこそそこで成し遂げたい生き方というものがあります。感じたいものがあります、そして味わいたいものがあるのです。

もしも人間に生きていくことの悩みがなくなるのなら、あるものは命が望んでいるものだけです。人間には奥深いところにその目的を秘めています。その秘めたものが表に顕れるとき、人はその人物の信念を見ることが出来るのです。そうやって人は何を成し遂げたいのかということを語ることで、支援者が増えて目的を達成できるのです。

そういうことを語っていないのなら周りもその人の力になれない場合が往々にしてあります。もしくは本来の目的ではない欲ばかりを話しても誤解される一方です。人は本心からの真我の声、私たちは信念の種とも呼びますがそれを呼び覚まし、それを実現したいと日々に語り実践で示すなら人間はみんなそれを助けたいと思います。

なぜならそれが生まれてきた意味になるからです。

私たちは意味というものをあまり大切にしていません。しかし本来の人生とは意味なのです。その意味をどう味わうかはその人一人ひとりの真我の目覚めと実践に由ると私は思っています。

理念を出すというのは、その人の本心を目覚めさせておくという意味でもあります。いつまでもうとうとして迷い惑い眠りこけていたら気がついたら終わっていたではもったないように思います。

こういう魂の目覚めの手助けというものは、見守ることに通じています。

見守るということの見守るが何を見守るかは、その人が見守られていることに気づけるかどうかです。日々の実践を高めて、子ども達の信じる未来を切り拓いていきたいと思います。