クニの真玉~光と初心~

かつてクニ造りのはじめに、「大国主」と「少彦名」の二人が私たちの繁栄の礎を築いたと古事記や日本書紀にはあります。大国主がクニをどのように治めていけばいいかを天に問い、海から光の玉と共に顕れたのが少彦名です。

この二人はまずこの国の理念を定めます。それは大国主の様々な物語がその生き方を示しています。因幡の白兎の話、その後の黄泉の国での素戔嗚との話、クニ造り、クニ譲りとどんな人物であったのかはその神話から想像で近づけます。

そして参謀でパートナーでもあった少彦名と共に、その徳の統治の手段を「医」と「農」によって行います。これは今の言葉に直せば、「医」は養生の在り方、そして「農」は暮らしの在り方を示します。

少彦名については、農業技術、のみならずあらゆる産業の祖とされその方法を伝授し国を富させました。この親祖はカミムスビの子であり「天津神」といって天照大神と同じく、天界の神様の一族です。その少彦名との出会いがなければ、大国主は国を繁栄させることはできませんでした。

古事記と日本書記にはこうあります。

「百姓(おおみたから)今に至るまですべて恩沢を蒙る」(古事記)

「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う。又、顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又、鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち、呪(まじな)いの法を定む。これを以て、生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」(日本書紀)

つまりは、全ての人々がこの少彦名と大国主の御蔭様で元気に幸せに暮らしていくことができていると示します。この二人がいなければ、私たちのクニははじまらず存在すらしなかったということです。それくらい重要な人物こそがこの少彦名です。そしてその少彦名は国の発展と共にいなくなります。少彦名がお役目を終えこの世を去ると、大国主が一人でどうしたらいいのかと途方にくれます。すると三輪山の大神山にて光の玉に再び出会い、少彦名に出会った時の「初心」を思い出し、下記のような天津神の太祝詞を唱えます。

「幸魂(さちみたま)、奇魂(くしみたま)、守りたまえ、幸(さきわ)いたまえ」

ここに、何を祈っていけばいいのかをはっきりさせ、少彦名のいなくなった後もクニを治めていく覚悟を決めるのです。

出雲は今でも根のクニ(島根)と呼ばれます。私たちの暮らす島の根があり、その根とは心の故郷のことです。心の故郷に真心はいつまでも伝承され、いつまでも遺る神話や遺跡から先祖たちが私たちに譲ってくださったものが何かを感じるとることが出来ます。

時代が混迷期に入るとき、人は初心に帰る必要があります。今のクニにもっとも何が必要か、これからの未来の子ども達に私たちは何を譲り遺していくのか・・・。

もう一度、少彦名と大国主の実践したことを省み、私たちの故郷にある真心を学び直していく必要を感じます。光の玉によって気づくとありますが、この光の玉は真玉と言い、これは真心のことです。

光る真心とは徳のことであり、民を思いやり、その声を聴き、衆智を集めることによって全ての発展の理念としたということです。孔子が仁の政治を説きましたが、この神話を聴いたらなんといっただろうかとおもいを馳せます。

今の私たちの先祖には脈々とはぐぐまれた徳の血脈が遺っています。

根の心に触れて、また新たな心で御縁を深めていきたいと思います。

見方の転換~福の実践~

私たちは今自分が立っているところを中心に物事を観ようとするものです。

かつてニコラウス・コペルニクスという天文学者が地球を中心に宇宙はまわっているという説を覆し、太陽を中心にまわっていることを発表しました。これを哲学者のカントがコペルニクス的転回と呼び、物事の観方がまったく別のものになったことを言いました。

実際に、私たちの価値観もまた似たようなものがあります。人は自分を中心に物事を考えて自分を中心にまわっていると思い込むものです。しかし本来は、科学ではサムシンググレートと言ってもいいし、東洋では「天」と呼んでもいいのでしょうが自分以外の偉大な存在によって活かされていると感じれば物の見方は変わってきます。最近では、望遠鏡も発達しその太陽もまた銀河を中心にまわり、その銀河もまた大宇宙を中心にまわっていることが分かっています。

そこから自分を中心に物事は動ているものは実際にはこの世には一つもないということが分かります。これを循環とも言いますし、御縁とも言います。

生きていると自分の思っていたことは起きなくても自分の思っている以上のことに出会っていることに気づくことがあります。そして自分があたりまえに生きていると思っていたら実は本当に多くの御蔭様で活かされていることに気づくというものもあります。

これらも全てコペルニクス的転回であり、自分を中心にするのではなく偉大な何かを中心に据える謙虚な心があれば物事はまったく別の観え方になるのです。

以前、小林正観さんが「見方道の家元」を目指しているという御話をお聴きしたことがあります。物事の見方を転じて観れば実際は、まったく別のことに気づけるということです。

実際に自分の知っている知識にこだわり、常識と思い込んでいる自分の価値観の中から出ずに偏見ばかりを貯め込んでいくことが齢をとることだと勘違いする人が多いように思います。アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。」と言います。

どれだけ偏見をもってしまっているかも本人は気づかないものでしょうが、実際は偏見を捨ててあるがままに物事を素直に観えたり、他人の話を謙虚に聴いて学び直しをする人は常識を超えた真実を持っていたりするものです。

常識に縛られるということは、偏見を持つということです。如何に常識を壊して本質を捉えるかは自分自身の見方を転換できるかどうかによります。そしてその転換は、「気づき」によって産まれます。

よく「知っている」方が偉いと思い込む人もいますが、実際には知っているというのは膨大な情報の一部を知っているだけのことです。もしも「知らなかった」と素直に言えるのなら膨大な情報があることを知っていることになるように思います。人に素直に「知らなかった、教えてください」と話を聴ける人は無限の見方を持つ人だとも言えます。

学問の本質は、常識に囚われないことのように私は思います。

偏見のコレクターからすれば偏見の塊が変人でしょうが、変人だからこそ常識に囚われない新しいことを産み出せるように思います。それぞれ人には役割がありますから、それぞれが地球や人類のために自分を最大限活かし切ることで新しい時代が切り拓かれ道が続いていくように思います。

日々は自分の偏見を捨てていく学び直しの日々、子ども達のためにも様々な見方をもってすべてを福に転じて味わっていきたいと思います。

表現の自由

昨日は、自由の森学園の音楽祭に参加する機会がありました。子ども達が、自分たちで「有志」という仲間を募り舞台でそれぞれに自由に自分を表現する様子はほのぼのとし、また青春を感じます。

私は子どもたちの表現を観ていると、表現こそが自由ではないかと思います。周りに合わせて無理やり自分を造ってきた不自由さというのは次第に子どもの表現を奪っていくように思います。周りを気にしては自分がどう思われるか、どう見られているか、そういう刷り込みからの脱却が舞台での信じ見守られる環境の中でできるように思います。

人は自分の本心と向き合わず、我慢をして周りに無理に合わせてきた自分をそのうち本当の自分だと思い込んでしまうものです。自分が決めたことを遣りきることよりも、周りの状況に合わせて自分を決めてきた人は本来の自分というものが分からなくなっていきます。そして心を閉ざし自分に嘘をつく日々を送ることで、自分らしくいるということも分からなくなっていくものです。

自分というものの本心は、頭で考えて周りに合わせていくことではなく自分の心の声に耳を傾けてどういう自分でありたいかを優先していくことです。

その最初の本心を優先する自信は、表現を通して行われるように思います。自分の言葉で伝えることや、自分の行動で発信すること、自分の心を素直に周りに開くことで次第に融けていくように思います。自分を丸ごと認め信じることは、他を認め丸ごと信じることにつながっています。

大人はそうした中で刷り込みが取り払われ本当の自分の好きに出会うのでしょうが、ただ好き勝手にしていればいいのではなくそこには社會の大義を学びます。大義を学ぶことで好きな自分を遣りきって周りを同時に仕合せにしていく過程で感謝という基本が身に付いてくるようにも思います。

何のために表現するのかと思う時、人は御互いを思いやり認め合うために必要になるように私は思います。

自由は人を育てるのは、自由の中にある自然の姿から何を基本に生きていけばいいかを自覚することができるからかもしれません。野生の感性や、自然の真心は、自然と同じ環境を通してはじめてカラダに沁み付いてくるように思います。

子ども達が自由に表現することの愉しそうな姿から、子どもの頃のことを思い出します。大人の価値観に縛られず、新しい時代を切り開いてくれる子どもたちに明るい未来を感じました。

私たちも子ども第一義の理念を優先し、学び直しを続けていきたいと思います。

 

思いやりの余韻

昨日、久しぶりに昔一緒に理念に取り組んだ方とお会いする機会をいただきました。お変わりなく好奇心旺盛で真摯に日々に学び直しを続けている姿に、当時の愉しかったことを思い出しました。

当時は、自分も大変ことが続き自分のことを心配してしまいそうになることばかりが発生していたものです。しかしそんな時、自分のことよりも心配できる誰かがあること、自分が大変よりも目の前の人が大変でそれを何とかしようと取り組むことで自分自身が救われていたことに気づくのです。

誰かのためにと自分を忘れるほどに相手の立場を思いやり取り組むとき、同時に自分が救われているということは真実です。人は自分の心配をするとき不幸せを感じ、誰かの心配のために利他に生きるとき仕合わせを感じるものです。

そういうめぐり合わせという御縁があったことが何よりも御恩であり、その恩に報いようと精進を続けていくことでいつまでも同志で居続けることができるように思います。

自分の人生を思い返してみると、自分が最も大変と思う時こそ他の誰かの大変のために使ってきたように思います。自分の心配は他の誰かがいつもしてくださっていると信じているのは、自分自身がいつも誰かの心配に生きているからかもしれません。自分の心配をする前に、同じように苦しんでいる人がいるということを自覚できることでその人のために何とかしてあげたいと無私になっているときが気が付けば自分のためになっているという状態に入るのです。

これを仏教では自利利他とも言い、また道元禅師は「同事というは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。」と言います。つまりは、自他一体に相手との垣根を取り払う時、それはあなたでありわたしであるということです。

人間は、自他が分かれずに垣根を超えて相手を自分だとし、自分は相手であるとするとき、相手は自分だからこそ助けてあげたいと思うのであり、同時に自分は相手だからこそ助けたいと思うのです。

自分が実践することで相手が救われ、相手が実践することで自分が救われる。この自他一体の境地は、相手のためにと真心を盡していくことで得られる境地のように思います。そして御縁の尊さも、めぐり会いの感謝の心もまた高まっていくように思います。

苦しいときに御縁があり、支え合えた人との無二の邂逅はいつまでも心に遺っています。そしてそれを与えてくださった天があり、その御蔭様で今の自分があることを思うと感謝の心に満ちてきます。

畢竟、人はどれだけ思いやり行動したかが全てです。

昨日の久しぶりの再会、思いやりの余韻の御蔭様でまた元気が滾々と湧き上がってきました。子ども達のためにも共に目指す生き方を実践し、引き続き次回の再会まで道を味わい愉しんで歩んでいきたいと思います。

信じる時間

太陽暦、太陰歴というものがあります。

昔の人たちは人間は太陽と地球の位置を基準に一年を感じたり、または闇夜の月の満ち欠けの状態で一月を感じていました。他にも身近な昆虫や植物、鳥たちの鳴き声を頼りに時間を確認していたのは自然のことのように思います。

自然と共に暮らし自然のリズムに合わせて生活していた頃は、人間都合、自分都合はあまり優先されていなかったように思います。「時間」というものの感覚もまた昔の時と今の時とでは異なっているように思います。

人間社会の時間というものは人間の都合で期限があり、誰かの期限やスケジュールに合わせていくものではなかったように思います。時間の奪い合いや取り合いになっているのはとても残念なことのように思います。本来は「時が満ちる」「機が熟す」というように、自然に来るものを信じて待つかのような時間間隔をそれぞれで持っていたように思います。これは自然農で野菜や稲を育ててみればすぐにわかることですが、こちらが意図的に無理やり動かすのではなく、見守り信じて待つのです。

しかしただ何もしないことを待つというのではなく、時が満ち、機が熟し、善い頃合いになるまで人事を盡して待つのです。そこには、自然を信じる心があり、自然に精通している生き方があります。

今は、何かとすぐに自分の思い通りにいくことを自然だと勘違いしていることが多く、すぐに自分の予定通りにいくことをベストだとし、時間というものの認識も私物化されているように思います。

時間は誰にしろ共通のものですが、人それぞれによって持ち時間というものは異なります。短い寿命で終わる人もいれば、長い寿命も持つ人もいます。出会い別れがあるように、時間は常にだれにしろ一期一会ですから大切にすることは勿論です。しかし、そういう期限がある時間もあれば、自然には悠久といった無限の時間もまた存在します。

御縁も結びも繋がりも絆も、それは記憶と言っていいかもしれませんが期限のない時間というものも存在します。そしてそれもまた永遠の一時といった一期一会であろうとも思うのです。

時間というものは、本来は自然の中に存在するものです。

だからこそ、時が満ち、機が熟すことを待つ中で感じるものではないかと思います。信じている人に不安がないのは、それを自覚しているからかもしれません。時が来ればかならず人は気づき、そして原点回帰すると信じているのでしょう。

いただいた時間を子どもたちに譲っていくためにも、信じる実践を積み重ねていきたいと思います。そういう信じた時間こそが、本来の時間感覚を呼び覚ましていきます。信じる時間を大切にしていきたいと思います。

初心のチカラ

人は「初心」という言葉を聴いても、実際は自分の初心に気づかない人がほとんどです。その初心は自分と向き合っていく中で出会うものであり、自分の心から思うことを実践し実行することで次第に自分の中に在る心に出会う機会があって再確認するものだからです。

実際に「初心」に出会うには、昨日書いたように「遣りきる」ことが必要です。遣りきったあとの余韻で心が満足したかどうか、心が充足したかどうかで自分の初心の実感を得ることが出来るからです。しかしその遣りきるというのも、計画通りに自分の思い通りに時間通りに終わることを遣りきることだと勘違いしている人がいます。実際は、自分の都合を排除し、効率を優先せず、不便でも時間と手間暇をかけて自分の信念や決心や覚悟を周りに流されずに実践したことを「遣りきる」というのです。

自分に軸足を置いた遣りきるは、それは遣りきるではないのはまだ外界の判断基準や世間の価値観の中の比較や分別知、相対的な世界において遣りきった気になった遣りきった風なだけで本来の遣り切りではありません。遣り切りとは、絶対的な世界において自分の決めた覚悟を信念をもって実践するということです。

社内には刷り込みカレンダーというものがありそこには「初心は実践の中にあり」と書かれています。これは実践しているときだけは、初心を遣りきっている最中であり、実践しない人は初心の在り処すら見失い忘れてしまっている状態だということです。初心を見失っている人はただ繰り返しているだけで実践にもなりません。心を籠めて実践するその一つ一つに信念の集積があり、それが実践の妙味だからです。

初心を思い出せていない人は、目的を忘れています。目的を忘れる人は、安易な目標に心を奪われていきます。目標ばかりを追いかけては目的を忘れてしまうでは、あまりにも人生がもったいないと思います。

初心は何か事があり向き合うことで思い出すことが出来ます。例えば、死にかけるときや大事なものを失う時、もしくは人生を左右するようなタイミング、あるいは自分価値観を揺さぶられるような体験の時です。その時、感じたものが初心であり、その初心をいつまでも忘れないように実践をすぐに開始し、その実践の最中にこそ自分の中にある本心を持続させていくことで自分の中の生きるチカラ=初心を持てるように思います。

この生きるチカラは、継続力のことです。継続がチカラなのは、そこには初心の持つチカラが働くからでしょう。初心のチカラを育てていくことは、一度しかない自分の人生を一期一会に遣りきる仕合わせ、御縁に活かされ、自他一体に生きる豊かさを自覚することにもなります。

子ども達が自分自身の人生を本質的に謳歌していくためにも、大人が子ども達のモデルになる生き方を遣りきっていくことだと思います。自分が何のために存在するのか、何のために生きるのか、何のために働くのか、常に自問自答を入り口に、かけがえのない実践を味わっていきたいと思います。

遣るきる~克己~

人は自分自身が自分で活かすことができなければ周りを活かすことはできないように思います。これは人間だけに由らず自然界の仕組みでもあります。花は花として精一杯生きるからこそそこに蝶や蜂が飛来してきます。同じようにその虫たちも精一杯生きるからこそ自分も活かせ花も活かせ互いに活かし合いができます。

結局は、自分を遣りきっているということです。

自分を遣りきるというのは主体性であるということは、先日から書いています。自分自身が遣りきることなしに誰かから活かしてもらおうと待っていても自他を活かし合うことはできません。

まずは自分自身が自分の持ち場でどれだけ自分を遣りきるか、そこがお互い活かし合えるかの要になるとおもいます。

この「自分を遣りきる」というのは、言い換えれば「初心を忘れず目的のために精一杯生き切る」ということです。さらに言えば、どんな状況や環境化であったにせよ自分の目的を諦めずに精一杯自分自身が遣りきっているということです。環境のせいにして逃げたり、運命のせいにして言い訳をしたり、誰かのせいにして向き合わないとか、何もののせいにもしないというのが遣りきることです。この遣りきるというのは耐え忍ぶに似ています。自分に矢印を向けては、自分が目的を忘れていないだろうか、初心を忘れず実践しているかどうか、自分自身が自分の人生の優先順位を妥協して下げていないかどうかと常に自問内省して自分に打ち克ち続けるということです。

人はなぜ負けるのか、それは誰かとの比較ではなく自分自身から逃げるからです。自分自身の初心をやり遂げることは大変困難なことであり、自分の決めた人生を歩むと遣りきることは至難の業だからです。だからこそ、日々は自分と正対であり如何に己に打ち克ち初心を貫き耐え切るかはその人の実践と覚悟の質量に由ります。

自分を遣りきる人は、自分を信じることが出来ます。遣りきることがないから自信がなくなり自分を活かせないだけではなく周りをも活かせなくなるのです。自他を活かすというのは、まず自分が己に打ち克ってはじめてできることです。

自然界から遠ざかり、便利で効率よく、安易で快適な生活の中に埋没し、本来の目的すらも手放してしまったらそれはもう俗世への迎合であり、自分の目的も見失って迷い惑いの中で迷子になってしまいます。

自分の決めた道を、最期まで諦めずに歩むことは「自分を遣りきる」ことで実現します。場所が離れていようと、近くにいられなくても、同じ目的や同じ志を頼りに自分自身を自分の持ち場で最大限精一杯やりきっていくことこそが道に対して真の実直、真の誠実であろうと私は思います。

論語にある「克己復礼」は、自立と主体性の金言です。

道を開くのは自分、道を拓くのも自分、常に克己を主軸に仲間との絆を深めていきたいと思います。

新しい自分~新たな役割~

人は新しい自分を刷新していくことで、自分らしさというものを発見し発掘していくように思います。新しい自分に出会えることは仕合せなことであり、それは自分自身がその時々で役割に気づき役割を生き切るということに出会えているということです。

人はなぜ新しい自分に出会えないのか、それは過去のままでいるからです。かつて自分が自分らしくいた自分のことを自分らしい自分だと思い込み、無意識に自分が役割を持っていた頃の自分に執着してしまうからです。自分が望んでいた自分になることは確かに幸福感を感じられますが、時処位が変われば役割もまた変化していくものです。

それではどうすれば自分らしさをずっと発掘できるかということです。

それは常にお役立ちできる自分に出会い続けることであろうと思います。新しい今の自分を肯定でき、新しい自分でいることに精進していくことだと思います。昔の自分のできることに終始するよりも、自分が周りにお役立ちできることを増やして高めていくことで今の自分が自分らしくいることに気づけます。

畢竟、自分らしさというものは自分の思い通りになることではなく周りの中で自分の役割を発揮できているということです。一つの目的に向かって、自分を遣りきって今を生き切り、必死で精進してくことで新しい自分に出会うこと、それが自分らしさの刷新だからです。

物事は全て必然だと信じられるかどうかがまず受け容れる第一歩であろうと思います。この世に意味のないものは存在せず、今の自分の運命が今起きているようになっているのはそこには確かな必然性が存在します。

こんなはずではないと否定から入る前に、全てを一度丸ごと受け容れて「これでいいのだ」とその中で、最善を盡そう、人事を盡そう、自分のできることで精いっぱいお役に立っていこうと心を定めて覚悟を決めればそこから新しい自分に刷新していけるように思います。

昔の自分よりも今の自分を好きになるには、今の自分が周りの御役に立つ努力や精進を以前の自分に負けないくらい実践していてはじめて好きになれるものです。自分を好きで居続ける努力とは、常に一生懸命の今の自分で役立てる全てを出し切ることです。

主体性も自立も、自分らしさに関係します。自分らしくいられるというのは、遣りきったか、出し切ったか、生き切ったかの確認です。日々は新しいことに満ちていますから、日々新たに日々新たな役割を実践していきたいと思います。

主体性の発揮2

昨日、主体性のことを書きましたがこの主体とは使われる人になるのではなく使う人になるということであり、単に生きている人ではなく活かす人になるということでもあります。

主体的な人が環境を使いこなすというのは、組織でいえば組織に使われる人間ではなく組織を使う人間であること、そして社會でいえば社會に生きている人になるのではなく、社會を活かす人になるということです。

人間というのは、御互いを尊重することで認め合い助け合うことができます。それが人間であることの原理原則であり、人間はお互いの役割を活かし合うことで仕合わせを感じて愉しい人生を送ります。言うことを単に聞けばいいといった受動的な存在でもなく、機械の歯車のような部品になることを望んでいる人間は本来はいないものです。

しかし実際は、業務や職務をこなすことを優先し仕事はしても本来何のためにやるのかという目的を忘れては日々に使われる人になって疲れている人がいるものです。目的を忘れない工夫ができる人はどんなことがあっても主体性を失いません。そしてその目的があるから自分の役割を果たそうと誰が見ていようがいまいが精進するものであるし、どんな時も心が着いてきますから遣り甲斐や生きがい、そして働きがいを持つことが出来るように思います。

人は初心を忘れることで使われる人になり、初心を忘れないで使う人になります。目的意識というものは、他人から管理されるものでは身に付きません。如何に自分を自分自身で管理するか、つまりは自分に打ち克ち自分の目先の欲望よりも理想を優先するチカラを持てるかということが肝要です。それは言い換えれば常に理念を優先する持続力、忍耐力、信念、志、克己心を腹に据えるということができるということです。

人は目先の目標ばかりを追っているうちに、本来の目的よりも目標が達成することがやる気になっていたりします。もちろんそれも大事ですが、その目標は本来は大切な目的が合ってそれを細分化することで観えてきた部分の一部でしかありません。大きな目的があることを忘れない人は、どんな些細なことであれそれが全体の目的に繋がっていることを自覚しますから心を籠めないことはありません。

目標は手を抜きサボり怠けることもできますが、目的はそうはいきません。もしくは目標をマジメにさえすればと無理をし続けることも目的に対して不真面目かもしれません。働き方と生き方の一致というのは、どこまで自分が目的に対して忠義を盡しているかということでもあります。

大義を持てる人というのは必ず遣り切りますからどんなことをしていてもその人生は意味を持ち楽しく充実したものになります。

この世界をどのようにしていきたいかは、自分の観えている世界観の変革に由るものです。ガンジーの遺訓に「自分が見たいと思う変革に、自分自身がなりなさい」「私たちの偉大さは、世界を作り替える力にあるのではなく、私たち自身を作り替える力にある」とあります。

自分を目的に合わせて変えていくことこそが主体性であり、主体性を発揮するというのは世界を変えている実感を持っているということです。自分の日々の実践が、どんなに小さなものであっても、大河の一滴であったとしても、それが必ずいつかは人間尊重の仕合わせに一役買うのだと信じて自らが様々なことを引き受けさせていただく気持ちで取り組む人には受身という言葉がなくなるものです。

引き受けること、させていただけるのは組織に忠実だからやるのではなく目的に忠実だからこそできることです。如何に目的そのものを見て、目的そのものになるのかが中心だということでしょう。

自分らしさとは人間らしさですから、子ども達の未来に常に人間らしくいられるように主体性を発揮する生き方を示していきたいと思います。

主体性の発揮

昨日、ある保育園の公開保育に参加して藤森先生の講評を拝聴する機会がありました。そこでは「主体的」の話があり、幼児教育の原理原則として当然のことであり、それをどのようなアプローチで実践するかに見守る保育があると仰っていました。

また気づいたことの中で「環境が主体的な子どもをつくるのではなく、実際は主体的な子どもが環境を使いこなす」とも仰っていました。発達を保障していくとは何か、学び直す機会になりました。

そもそも主体的であるというのは、人間は本来、主体的な生き物です。これは自然物はすべて主体的と言ってもいいかもしれません。それが刷り込みによって主体が失われていくことで発達が歪まれていくように私は思います。

人は誰しも遣りきっている人は主体的であるものです。中途半端に遣りきることをやめてしまえばそこには主体が失われていることに気づくものです。やりたいことを自由にやる環境があるといっても、実際に自由になったからやりたいことをやるわけではありません。

本来、どんなことであっても自分のやりたいと決めた選択を自らが遣り切りやり通すというのが主体のことです。主体が遣りきっていないのに本来の自分の好奇心が目覚めることもなく、自分自身が環境を創造して自分らしく生きていくことはなかなかできません。

人は自分の決めたことを遣りきっていく中で、本来の魂の天命というか自分らしく自分を生きていくことができます。同時にその生き方が他を活かし、自他を活かし合うことができるように思います。

そしていつから刷り込まれ主体性が消失していくのかをみれば、産まれた時からの環境が大きな影響を与えていることに気づくのです。その環境の刷り込みをどのように取り払っていくか、それに気づけるかがその人のその後の人生を大きく左右するように思います。

私たちが見守る保育の道を弘げたいと願うのもまた、この主体性の発揮こそが要であり、発達を見守ることがそのものの主体を信じることにつながるからです。子ども達の目がいつまでもキラキラと輝き時代時代を生き切ることができるように見守っていきたいと思います。