思いやりの余韻

昨日、久しぶりに昔一緒に理念に取り組んだ方とお会いする機会をいただきました。お変わりなく好奇心旺盛で真摯に日々に学び直しを続けている姿に、当時の愉しかったことを思い出しました。

当時は、自分も大変ことが続き自分のことを心配してしまいそうになることばかりが発生していたものです。しかしそんな時、自分のことよりも心配できる誰かがあること、自分が大変よりも目の前の人が大変でそれを何とかしようと取り組むことで自分自身が救われていたことに気づくのです。

誰かのためにと自分を忘れるほどに相手の立場を思いやり取り組むとき、同時に自分が救われているということは真実です。人は自分の心配をするとき不幸せを感じ、誰かの心配のために利他に生きるとき仕合わせを感じるものです。

そういうめぐり合わせという御縁があったことが何よりも御恩であり、その恩に報いようと精進を続けていくことでいつまでも同志で居続けることができるように思います。

自分の人生を思い返してみると、自分が最も大変と思う時こそ他の誰かの大変のために使ってきたように思います。自分の心配は他の誰かがいつもしてくださっていると信じているのは、自分自身がいつも誰かの心配に生きているからかもしれません。自分の心配をする前に、同じように苦しんでいる人がいるということを自覚できることでその人のために何とかしてあげたいと無私になっているときが気が付けば自分のためになっているという状態に入るのです。

これを仏教では自利利他とも言い、また道元禅師は「同事というは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。」と言います。つまりは、自他一体に相手との垣根を取り払う時、それはあなたでありわたしであるということです。

人間は、自他が分かれずに垣根を超えて相手を自分だとし、自分は相手であるとするとき、相手は自分だからこそ助けてあげたいと思うのであり、同時に自分は相手だからこそ助けたいと思うのです。

自分が実践することで相手が救われ、相手が実践することで自分が救われる。この自他一体の境地は、相手のためにと真心を盡していくことで得られる境地のように思います。そして御縁の尊さも、めぐり会いの感謝の心もまた高まっていくように思います。

苦しいときに御縁があり、支え合えた人との無二の邂逅はいつまでも心に遺っています。そしてそれを与えてくださった天があり、その御蔭様で今の自分があることを思うと感謝の心に満ちてきます。

畢竟、人はどれだけ思いやり行動したかが全てです。

昨日の久しぶりの再会、思いやりの余韻の御蔭様でまた元気が滾々と湧き上がってきました。子ども達のためにも共に目指す生き方を実践し、引き続き次回の再会まで道を味わい愉しんで歩んでいきたいと思います。