ヒューマンスケール~手の届く範囲~

先日、ヒューマンスケールについての話を伺う機会がありました。これは辞書によれば「物の持ちやすさ、道具の使いやすさ、住宅の住みやすさなど、その物自体の大きさや人と空間との関係を、人間の身体や体の一部分の大きさを尺度にして考えること。人間の感覚や動きに適合した、適切な空間の規模や物の大きさのこと。身体尺度。」(goo辞書より)とあります。

昔、鞍馬寺に伺ったときに貫主様から「手の届く範囲」という御話をお聴きしたことがありました。人は手間暇や手仕事、手元や身近な手の届く範囲で生きていくことが大切という話です。

つい人は青い鳥症候群のように、遠いところや未来の彼方に宝があるように錯覚しますが実は足元にこそ本来の宝があるという考え方を持つと見方が転じていくものです。

手間暇をかける幸せや、身近な暮らしを味わう倖せ、そして大切な人たちと一緒に生きる歓びや、分相応に謙虚に日々の仕事を丁寧に進めていくことの豊かさ、これらはすべて「手の届く範囲」で行われるものです。

人間は原子力をはじめ、遺伝子組み換え、サイボーグ等々、地球を破壊するような様々な科学技術を便利に我が物顔で使っていますがとても使いこなしているようではありません。目にはみえないところまで手を伸ばし、手が届かない範囲まで手を出そうとしています。もう自分では制御不能の技術の中で、心は着いてこなくなっています。

人は本来、循環の一部ですから「分相応」という生き方を選んできました。よく身に余る光栄だとか、恐れ多いとか、もったいないというように自分に相応しいものがどれだけのものなのかを自覚していました。

しかし今は、身の丈を超えて無理をし、虚飾をして派手な生活を繰り返しているともいえます。大量生産大量消費の中で、経済のみを優先していくと分不相応な暮らしは広がるばかりです。日常よりも非日常を求めては、お金を使うために体を壊してお金のために大事なものを捨てていく始末です。

二宮尊徳は「分度」といって、分相応を定めてその中で生きることを説きました。自然体の生き方というのは、自分の身の丈にあった生活を続けていくことのように思います。人間は欲ばかりを肥大化させていけば、その欲によってヒューマンスケールを簡単に超えていきます。そしてもはや人間の生活ではない暮らしを送り、本来の人間らしい自然な姿が分からなくなっていくものです。

日々に何を食べていたか、どんなリズムで生きていたか、何を大切にしてきたか、その全ての「はじまり」すら思い出せなくなるところにこのヒューマンスケールで生きない問題があるように思います。

手の届く範囲いうのは、欲張らないということです。言い換えれば、自然の御蔭様に気づき感謝で生きていくということかもしれません。それはすべて手が届く範囲で実感できるものだからです。

手間暇、手仕事、手の込んだものはどれも「美しい仕事」になります。

この手の届く範囲にこそ私は「美しさ」を感じます。つまり美しい仕事はすべて手仕事なのです。そして美しい生き方というのは、分相応に生きている人が持てるものなのかもしれません。そしてそれが自然体の本質であり、人間らしさの本質かもしれません。

子ども達のためにも、時代が変わっても日常の初心、その「手の届く範囲」や足元の宝を忘れないように精進していきたいと思います。