居心地

人間はこの世に出てきて自分の居場所というものを持とうとします。これは自然の生き物と同じく、自分がこの世で何をするのかを求めて自分の居場所を見つけるのです。居場所を持つことで自分の世界での役割を知り、居場所ができることで自分の心が安住するところを知るのです。

そして居場所に対して居心地というものがあります。

この居心地の定義は、人それぞれに定義するものが異なりますが私は人の生き方であろうと思います。同じ生き方する人たちが集まればそこに場が生まれ、その場はとても居心地がいいと感じるからです。

例えば、ホスピタリティが高いホテルや、おもてなしが美しい旅館、その他、サービスの行き届いたショップや、よく気配りができていて丁寧な会社など、人は居心地がいいと感じることが多いと思います。

それはそこで働く人々の生き方が同じ理念、同じ方向を向いて皆で内省し精進を続けることで発生していく居場所があるからのように私は思うのです。居場所というのは、人々が集まる場のことであり、その居場所にいる人たち一人ひとりの生き方がその居場所の居心地を決めるとも言えます。

もしも理念を省みず、それぞれにバラバラな方向を向いて自分の好き勝手にやっていたらそこに居場所は産まれません。そして生き方が異なる人たちがもしも集まっているのならそこが居心地がいいとは思わないはずです。

人は、一人で生きているのではないのだから誰かと一緒に生きていくのです。一人で生きていると思っているのは錯覚で、その時代の人たちと一緒に生きているはずですし、自分の周りの環境の中で買い物や食べ物、その他を購入したり働いたりするのだからやはり自分の周りの環境と一緒に生きているとも言えます。

一緒に生きていく人たちがチカラを合わせて自分たちの生き方をその場その場で盡していくことが居場所を持つことであり、その居場所を居心地が善くするかどうかはそこで生きる人たちの徳の生き方に由るように思います。

一人ひとりが徳を高めようと人格を磨き続けるのなら、その場は徳によって思いやりのある場が自然発生していきます。もしも徳を蔑ろにして我ばかりを押し通してしまえば場もそれ相応に変化していきます。

場は人が創るものですから、その場にいる自分自身がその場を創っているのだという自覚がなければ居場所も守れず居心地を維持することもできません。人はあの人がいるから居心地がいいやあの人がいるから居場所があるというのは、そこに必ず徳の存在があるということです。

徳を高め、居心地が善い場所ができるならその場にいて心休まり心癒され心が繋がる人々が次第に集まっていくように思います。徳を積む人が増えれば人が集まるのは、その居心地が善い場所に徳を慕う人たちが集まるからです。結局、徳業というものの上に事業がありますから本来の道徳が優先で利殖が着いてくるのでしょう。

桃李成蹊もきっと居場所居心地があってできるのでしょう。

こどもたちのためにも、徳の道を譲れるように精進していきたいと思います。

自然の心

昨日、かねてより理念を共にするお客様と改めて初心についての確認を行いました。本来の開園の目的やその意味、また理由や内容を一つ一つ解いて結び直していると私自身がなぜここに御縁があり、永く一緒に取り組んできたのかも自明しました。

ここは仏教を信じる保育園で、その理念の根幹には仏陀の教えに沿っています。また具体的な実践として、自灯明法灯明によって仏性を内省により発明し、その仏性の思いやりによって平和な心を育てていこうという願いがあります。

もう私たちの実践する生き方の一つである「一円対話」をはじめ、他の仕組みも導入し、一緒に同じ方向で取り組んで9年目になります。9年間、何をやってきたのかに思いを馳せるとき、そこに仏陀の偉大な見守りや恩恵を感じました。

私たちの一円対話では、隣の人の善いところを観てそれを賞讃するというものがあります。その一円対話を進行する「聴福人」たるもの、常に善いところを観てその人の善いところを信じる生き方を実践していることが肝要になります。それは常に人の中には真心があり、その真心の気づきを聴いてその真心の声から御互いに学び、御互いを思いやり大切に敬っていくという心得があります。

そのための心がけとして自戒すべきは何よりも「人を見下さない」ということです。自分を特別視する人は他人を見下してしまいます。何でも分かったとなって自分が真理を知ったかと勘違いしているうちに自分の特別視が強くなるものです。そういう自他を分けて考えたところに思いやりや真心はなく、自他一体のところに有り難さも感謝も存在するように思います。

本来、どんな人でもその人の中には必ず魂や心があります。そしてその人間の本性に善悪はなく、そこにあるのは自然そのものです。自然に善悪はなく、自然はそのままで美しく素晴らしいものです。その美点、その美化したものを人が観るとき、それは全て善いことになり福になるものです。一円観は、その人の善いところを観ることで持ち味を発見し、その持ち味こそが自然の価値であると賞讃しているのです。

人が常に人の善いところを観ることができるということは、常に持ち味をみてその持ち味の素晴らしさを実感しそれをみんなで愛してみんなで活かしていこうといった自然慈愛の心であろうと私は思います。その慈愛の心はすでに仏陀が語り尽くしているように思います。

その一つに、不軽菩薩という話を聴きました。

「不軽菩薩 其の所に往き到って 而も之に語って言わく 我汝を軽しめず 汝等道を行じて 皆当に作仏すべしと」

これは私の意訳ですが、「不軽菩薩はいつもどんな時も語り聞かせていた。私は誰一人見下さない。みんな一緒にこの世に往生して日々修行している仲間であるから、みんな仏そのものにかわりはない」と。

この世に産まれてくるというのは、どんな人でどんな体験をするかも人それぞれ異なります。それにその人の姿容、また性格、持ち味も異なります。これは自然界と同じように、万物はそれぞれに自然の一部として存在しているということです。

あの植物は上で、あの植物は下、あの虫は善であの虫は悪などとの道理は自然界に一切なく、すべてのいのちはいのちそのもののありのままの姿です。そのありのままの姿こそが仏性であり、そのありのままを禮讃美することは自分の中の刷り込みを取り払い、本来の自然の姿を思い出すことになります。

人の善いところを観て、人の善いところを賞讃し、その人の気づきから学ぶことは自然界が共生し合う真心に近づいていくことのように思います。平和というのは、自然の中にこそ存在するものですからその平和を人々の間に築こうとするならば一円観の理念が私にとっては何よりも重要なことになっています。

私の自然の心はどんな生き物であっても偏見を持たず、まるで家族や古い友人のように接し、さらにそのものが持つ持ち味そのものを深く尊敬し、そのものの価値をそのままに活かせるような自然の心に近づきたいと願っています。

子ども達の為にも、人としての生き方をもっと形にして譲り遺していきたいと思います。こういう時代だからこそ、道徳や福徳といった人間の中にある善いもの、その徳を明らかにしその徳に気づかせその徳に報いる生き方を精進していきたいと思います。

 

必死

全ての生き物には感覚というものがあります。人間では五感や六感ともいい、味覚、聴覚、嗅覚、視覚、触覚、また直感なども感覚の一つだと言われます。今は時代的に視覚ばかりを使っていることが多いとも言われますが、古来からこの五感はフル動員してバランスよく活かすことでここまで生き残ってきたとも言えます。

視覚ばかりを使うと目が疲れ肩が凝ります。これは脳ばかりを優先し使っているからそこに筋肉が緊張することで疲れが溜まります。脳は視覚と直結しており、頭でっかちになっていくのも視覚を頼りすぎるから偏るのかもしれません。

この五感というものは、感覚の世界であり頭ではわからないことも察知したり洞察したりコツを掴んだりというように全体活動によって行われます。そしてこの五感というのは必死になることで最大限のチカラを発揮します。

自然界の生き物は、常に食べ食べられる関係でありいのちの危険に晒されています。もしも五感が研ぎ澄まされていなければ、その次の瞬間にはいのちを失っているかもしれません。常に自分の持ち味や得意を伸ばし、五感を最大限活用して生き残ることをしてきたとも言えます。今遺っている生き物たちはみんな、その五感を練り上げ研ぎ澄ませてきた生き物たちです。

都会に住み、安全安心な中で何でもボタン一つで便利に生きていると頭だけを使えばある程度のことは事足りてしまいます。ご飯をつくるのもガスを使ってキッチンタイマーで測り、ボタン一つで風呂も沸き、携帯をみては天気や電車の時間を調整する。これは頭で計算した世の中で感覚で理解している世の中とは異なります。さらに問題が発生しても自分の感覚を用いようとはせず頭で計算している通りにならない時にも周りに文句を言ってお金を払って解決します。これでは、言い訳ばかりの世の中になるのも分かる気がします。何もしないで文句を言えるのは感覚を使うよりも計算通りかどうかが重要になっているからです。

自分の身体に具わっている感覚は、磨かなければ減退していきます。どんなに才能を持った人でも、どんなに特徴がある肉体を持っていても、その感覚を鍛錬し研ぎ澄まさなければ宝の持ち腐れになってしまうものです。

人が挑戦する面白さは、「必死」になることです。必死になるというのは、五感をフル動員しているということです。この五感を使う面白さと楽しさは、いのちが輝いている感覚です。

よく後進国の子どもたちや、ジャングルの中の少数民族の子ども達が目がキラキラとしているのを見ることがありますがきっとあれも「必死」になっていることで出てくるいのちの輝きなのかもしれません。

今の時代、自分で「必死」を掴まなければ必死になる機会も環境もありません。平和というものは有り難いものではありますが、同時に平和にどっぷり浸かってしまったら本来の本能や生きている感覚までも減退していくように思います。そうなると何が大切だったのか、何を忘れてはならないのかすら消失していくのかもしれません。

人が挑戦している姿に感動するのは、その人の「必死」を見るからです。必死になっている人はいのちが輝いていますから、そのいのちの輝きをみると人は勇気づけられ元気が出るのです。頭でっかちに生きるよりも、必死に生きることの方がいのちは歓び、周りも幸せになります。

全てを与えられ、何もしなくても生きていけるようになることは決してその人を倖せにするわけではないのです。

日々に一期一会に生きるのは、その人のいのちの燃焼に懸っています。子どもたちのお手本になるような必死な生き方をして、五感を使うことで生き残ってきた先人の智慧を伝承していきたいと思います。

正論の刷り込み

先日、正論について考える機会がありました。正論とは、正しい意見、道理に適った言葉といい、確かに正確に物事を言い当てるものです。特に教える仕事をしている人たちは、この正論を吐くことで周りを説得したり納得させようとするものです。

しかし正論をいくら聞いてもその正論通りやってもうまくいかないとなることがほとんどです。正論は実際に現場で実践することができず、正論通りにやったからといってそれが納得されるかというとほとんどそれはありません。

例えば、ある人が問題を抱えていてそれがうまくいかないと相談にのっても共感もしていないのに正しいか間違っているかだけを見て答えてもそれは問題の本質を解決するわけではないからです。

人は時として、問題を解決しなくても共感しているだけで解決していくことがあります。

以前、村でニコニコと笑いながら頷いている御爺さんが村人の悩みを解決していくという御話を聴いたことがあります。村の人から尊敬されている御爺さんが亡くなり、はじめてその御爺さんが聾唖の方だったと知ってみんなが驚くという話です。その御爺さんが隣でじっと話を聴いてくれてニコニコと頷いてくれることで相談者はみんな自分で問題を解決していったという話です。これは江戸時代末期の名僧「良寛さん」にも似た話がたくさん残っています。喋らず黙って、相手の言うことに耳を傾けるだけで相手が自然に気付いて変わっていったと言います。

学識の比較競争刷り込みの中で、刷り込まれていると勝ち負けや正否に囚われ肝心な共感するということを怠ってしまう人が多いように思います。それはきっと机上では人の心までは共感できないからです。本来、正論よりも優先するものは常に思いやりであり、思いやりがあるから人間はその思いやりによって助け合い認め合うことができるように私は思います。

正論を述べては相手を打ち負かし、自分の正しいことを証明してもそれで現場が何か変わるわけではありません。かえって相手の自信と自己肯定感を奪っているだけで、その教える人は有名になって優越感を持てても実際困っている人たちはそれで解決しましたとはならないことがほとんどです。知識の持つ刷り込みに気付くためにも、あまり自分を特別視せず知識を用いて人を上下で見ないことが何よりも正論の刷り込みを打破する方法ではないかと思います。

二宮尊徳に「至誠と実行」がありますが、思いやりを行動することが何よりも現場の問題を解決するといいます。そしてそれはまず「傾聴」することや「共感」することが何よりも優先されると私は感じています。

自分を後回しにしてでも相手の話を聴いている人や、自分のことは気にせずに相手のためにと行動する人は「至誠と実行」している実践者の風格を感じます。世の中の刷り込みに巻き込まれて頭でっかちに頭ばかりを働かせようとせず、心で動いて頭で考えるように思いやりと行動を大切に日々を精進していきたいと思います。

変化の美

経年変化の美について書きましたが、経年劣化という言葉もあります。年月が経つということは、ある意味自然消滅していくものですから自然劣化していくものです。同時に、劣化せずに味わいが出てくるものもあります。それは道具に関わらず、人物においても同じように劣化と味わいというものは付き纏います。

例えば、齢を経ても美しさが変わらないとか、齢を経れば経るほどにその価値に磨きがかかりより一層美しくなるものもあります。いつまでも変わらないものを維持しているというのは、いつまでも大切にしているものが変わらないということです。

そもそも経年というのは、単に年月が経つことですが変化というのは自らが変わり続けることです。時代が変わっても、その時代の価値にあわせて変化を已まないでいることは常に温故知新を続けているということです。そしてそこには主軸になる理念があるように思います。

人は時代に左右されずに自分の信念を貫く人や、いつまでも理想や夢への情熱を失わない人も「変わらない人」と言うことがあります。そういうものを失ってしまった人のことを「あの人は変わった」とも言うこともあります。これは生き方のことを言っているのであり、見た目の変化のことではなく内面のことを言っているようにも思います。

人は理念があり、その道を歩み、研鑽を続けて精進をするのなら経年は変化の連続ということになります。変化の連続をするものは経年劣化とは言わず、経年変化というように思うのです。

道具も同じく、使われ続けたものは経年劣化とはいわず大切にその道具を用いる人がいるのなら経年変化になると思うのです。経年変化の美とは、変化の美のことであり、この世にいていのちが活きている証とも言えます。

いのちを輝かせ、いのちを活かし、いのちを盡していく日々が経年の持つ味わいを深いものにし、美しさを高めていくように思います。

古の道具に再び呼吸を取り戻すのも、こちらの姿勢如何です。かつての思いやかつての願い、そして理念と共に歩める仲間たちが増えていくことで場が生まれ、物語がはじまります。

変化を共にする仕合わせを大切に、子ども達に変化の大切さを生き方で譲っていきたいと思います。

経年変化の美

経年変化という言葉があります。これは時間が経ち、次第に変化していくという意味で使われます。この変化には、劣化していくという意味や、味が出てくるという意味もあります。古来から、日本では侘びや寂びという表現で骨董をはじめ古き善きものを愛でる感性というものがあります。

これらは鑑賞という言葉で、芸術や美術のもつ妙味を感覚で味わうように進化してきました。特に暮らしで使われてきた古民具や、その時代時代の価値観が反映されてきた古美術品などの中には、確かに「経年」の価値を感じます。

この経年の価値には、自然の変化と同じように自然が変化して積み重ねていく年月の重みを感じます。この重みは感覚によってはじめて直感できるもので、永い年月大切に遣われた重みや、誰かのためにと役に立ってきた重み、そして心を籠めてそのものをつくり上げた重み、様々な重みを感じます。これを重厚感といったりもしますが、心が入っているもの、経年変化の味わいがあるものはすべて重みがあります。

そしてこれは人にも由ります。

何百年も何千年も時代の篩にかけられて遺った言葉も重みがあります。例えば、孔子や仏陀、キリストなどの言葉にもその一言には重みがあります。そして道を歩んだ大家や、実践を積み重ねた方々にも貫禄があります。この貫禄も重みのことで、軽々しくない行動や眼差しには凛としたものをいつも感じます。

この経年変化は、自然の持つ日々の積み重ねの自然美のように私は思います。

自然を観賞する感覚というものは、その人の自然観に由るものです。どれだけ自然が美しいと感じるかは、その人の心の澄み方に由るものです。心が澄んでいれば自然が美しいと感じ、自然の美しさが心に映るということはその人の心が澄み渡っているということです。

その自然の美しさを道具の中に見出し、その美しさを留めている骨董に心を通じ合わせる仕合わせを味わっているのが経年変化の美のように思います。新しいものばかりが価値があるかのようになり古いものは価値がないと捨て去られていく世の中ですが、自然の価値の素晴らしさは永久不変の美であろうと私は思います。永久不変の美には「とき」が籠っています。

子ども達のためにも、その自然の真心を伝承していきたいと思います。

慢心

古に思いを馳せれば馳せるほど、人の心の様相の変化を感じます。私たちは知識をつけては進化しているように思っていますが、その実、全てにおいて古の心には敵いません。それは、知識を得て慢心し人は自惚れていくことに他なりません。

不易と流行というものがあります。心の世界は変わることがなく、そして時は流れていきます。焦りと油断が慢心を産み、自惚れと過ぎたる自愛が慢心を助長します。そのうち、流行だけが先行して不易が失われていくように思います。

そもそも慢心しないというのは、人を見下さないということです。それは別に比較しないというわけではなく、自分を特別視しないということでもあります。人は油断をするとすぐに自分が分かったかのように錯覚します。分かった気にならないと戒め続けることよりも、分かったことで分かった気になり知識によって得た安楽によって錯覚するものです。しかしその時、分かった気になった故に慢心が生まれ分かっていないという謙虚さを失うのです。

実際の世の中は、自分が知っている範囲などほんのわずかなものです。ほとんど全てのことは知った気になっているだけで知ったわけではありません。そして知るということはできません、なぜなら変化せず、已むものはこの世にまったく存在しないからです。

万物は変化し続けているからこそ、かつて知ったことがずっとそのままであることはありません。しかし知った気になってしまうと、その変化していることを忘れてしまうのです。慢心が油断であり、油断が大敵なのです。その油断しないようにするには、自分の慢心をいつも戒め続けなければならないように思います。

どんなに悟った人であっても、どんなに膨大な知識をもって努力している人であっても、慢心は誰にもあります。慢心しませんということ自体も慢心であり、慢心していると思っていることであれ慢心です。慢心とは、絶対的に人間が放すことができないものであり、それは聖賢と言えども聖人と言えども、誰しも取り払うことが難しく一生かかったものだからです。

二宮尊徳の遺誡に、「予が足を開ケ、予が手を開ケ、予が書簡ヲ見よ、予が日記ヲ見よ、戦々恐々深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」があります。

ここにも常に慢心を恐れて謙虚に向き合い続けた姿があります。自信と自惚れは百害あって一利なしです。古に学び直し、古の心を師として分かった気にならず真摯に精進していきたいと思います。

自然の美

日々、炭と憩り、御茶を立てて一服する日々を過ごしていると心の安らぎを覚えます。不思議なことですが、この炭を使いお湯を沸かし一杯の御茶を呑むことがこんなにも心が落ち着くのは何か自然の慈愛と通じ合っている気がします。

茶器というものが戦国時代は、大変重宝され一国一城の価値があったとも言えます。心が安らぐときに、その周囲に日頃から愛着をもって大切に遣っている道具たちに見守られ一杯の御茶をいただく、道具たちもそれぞれに持ち味を活かして一杯の御茶のために盡力する、その一つに向かって籠めた真心が御湯と御茶を通じて心に沁みわたります。

おもてなしというものは、道具たちをはじめ大切にそのものの持ち味を活かして協力し合い一つの物事のためにチカラを分かち合って相手に自分たちの真心で御迎えすることではないかとこの御茶を点てている中で実感します。

日頃、会社でもお客様がお越しになる際に、みんなでチカラを合わせて色々と準備します。その真心からの行動や実践は、目には観えなくても必ず相手に伝わり、おもてなしに心が穏やかになり豊かな仕合わせを味わえるものです。これはみんなが心を一つにすることが大切であり、御茶の道具たちと協力して心を一つにおもてなしするものまた同じ仕組みであろうと私は思います。生物非生物に関わらず、みんなで一緒に誰かをおもてなすというのは、そこに自然の美があるように思います。

炭の実践の中で、もっとも私が感じ入ったのはこの炭と御茶の関係に出会ったことでした。茶道で有名な千利休に利休七則というものがあります。これは弟子から「茶の湯の真髄は何ですか?」と問われ、問答がそのままその茶道の心得として遺ったものです。

利休は弟子にこう言いました。

「茶は服の良き様に点て、炭は湯の沸く様に置き、冬は暖かに夏は涼しく、花は野の花の様に生け、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」と。

弟子がそれくらいのことは私でも知っていますと答えると、もしもあなたがそれができるなら私はあなたの弟子になりましょうと応えたと言います。無念無想、かんながらも同じですがどの道もまた心のあるがままにあることが伝承されているかのようです。

千利休は、禅の心を一休禅師の弟子村田珠光の足跡を歩んだと言われます。その村田珠光には、その茶の道の「初心」が記されたやり取りの手紙が遺っていると言います。

「 此道、第一わろき事ハ、心のかまんかしやう也、こふ者をはそねミ、初心の者をハ見くたす事、一段無勿躰事共也、こふしやにハちかつきて一言をもなけき、又初心の物をはいかにもそたつへき事也、此道の一大事ハ、和漢之さかいをまきらかす事、肝要肝要、ようしんあるへき事也、又、当時ひゑかるゝと申して、初心の人躰か、ひせん物しからき物なとをもちて、人もゆるさぬたけくらむ事、言語道断也、かるゝと云事ハよき道具をもち、其あちわひをよくしりて、心の下地によりてたけくらミて、後まて、ひへやせてこそ面白くあるへき也、又さハあれ共、一向かなハぬ人躰ハ、道具にハからかふへからす候也、いか様のてとり風情にても、なけく所肝要にて候、たゝかまんかしやうかわるき事にて候、又ハ、かまんなくてもならぬ道也、銘道ニいわく、心の師とハなれ、心を師とせされ、と古人もいわれし也」

何を初心と言っているか、古今の聖人の道を歩む人たちは同じ真心と実践を歩むように思います。そして心の師となり、心を師とせよといいます。自分の真心のままに歩むことこそ自然であり、その自然美をカタチに示したのがこの火と水の持つ芸術、そして生き方と暮らし方だったのかもしれません。自然の美しさを感じるのは、心が自然と一体になるからです。その心の美しさが響き合うことが、自然の美だということです。

子どものためにと必死に生きていく中で、志を支えてくれるこの炭と御茶、そして道具たち、自然のすべてに感謝しています。

 

 

人道の本質

二宮尊徳の遺訓には、私たち人間がどのようにすることでもっとも天道地理に沿うのかということが記されています。今のような物質が溢れ、飢饉飢餓などが遠ざかった世の中にはあまり二宮尊徳の偉業が弘がりませんが、本来は「心田の荒蕪を耕す」といった本質で観れば今の時代ほど二宮尊徳の教えが必要な時代に入っていると思うのです。

その尊徳翁遺訓に「水車のたとえ」というものがあります。

『「水車の回るは半ばは天道にして半ばは人道なり」。翁曰はく、それ人道は言ふれば、水車の如し、その形半分は水流に順ひ、半分は水流に逆うて輪廻す。丸に水中に入れば回らずして流れるべし、また水を離るれば回ることあるべからず。それ仏家にいはゆる知識のごとく、世を離れたるごとし、また凡俗の教義も聞かず義務も知らず、私欲一遍に着するは、水車を丸に水中に沈めたるが如し。ともに社会の用をなさず。故に人道は中庸を尊ぶ。水車の中庸はよろしきほどに水車に入りて半分は水に順ひ半分は流水にさかのぼりて運転滞ほらざるにあり、人の道もそのごとく、天理に順ひて種を蒔き、天理に逆うて草を取り、欲に従ひて家業に励み欲を制して義務を思ふべきなり。』

これは意訳ですが、(天道と人道は水車のようである。その水車の半分は水に従い、半分は水に逆らう。水の中に入れば水車は回らず、水の外に出ても回らない。これは世の中と交わらない仏教徒のようなものでこれでは水中の水車と同じく役に立てない。だからこそ人道はバランスが大事である。人の道は自然に沿って自ら種を蒔き、そして自然に逆らってその周りの草を刈る、これは慾に従って幸福成功のために精進しつつ、同時に慾に逆らって世の中への理想や利他を盡して社會貢献していくのである。)と。

自然農を実践する中で、自然に沿う事と自然に逆らう事は常に向き合うことになります。天地自然の恩恵を受けて私たちは存在していますが、人間はその中で自然を破壊し自分たちの思い通りの世の中にしているとも言えます。

一方では自然を愛しつつ、一方では自然をコントロールしようとする。これが人間とも言えます。ここでの二宮尊徳の言う、天道と人道とは別に天道か人道かと言っているわけではないと私は思います。

まずは天道を素直に優先し、その上で人道を謙虚に行うことだと私は言っているように思うのです。この優先順位が違うならば、人間は慾に負け、慾を制することがなく、今の世界のように樹木や生き物たちは絶滅の一途を辿ります。

この水車のたとえというのは、結局は「人の道」とはどういうものかということをたとえています。人間は天道に従うことで循環し、そして中庸を実践することで人道に適うというのです。

この世の本当の意味での幸不幸はこの「人の道如何」に由ります。

二宮尊徳が言う、「報徳」の真心を今の時代に置き換えて「仕法」を仕組みに昇華してこれからも子どもたちのいる現場に種を蒔き続け、刷り込みの草を刈り続けたいと思います。

御縁の尊さ

一つの会社や組織を運営していく中で、そこで働く人たちの出会いと別れというものがあります。経営者をはじめ、そこで勤める社員も御互いに未熟者同士ですからその時々の状態では不本意なことも発生するかもしれません。

しかし人はそういう人と人との御縁を通じて成長していくものであり、どう在りたいか、どう生きたいかということに向き合うのもまたその節目節目の自己との正対に由ります。別れが尊いからこそまた出会いもまた尊いことに気づくのが人間のようにも思います。その御縁の御蔭様で、様々なことを学べ、その御蔭様で今が存在していますから何よりも大切なことは、「御縁があったということそのもの」に感謝することのように思います。

ただよく時間が経って省みて思うことは、その時は決して自分の思い通りにならないように思えても実際は自分の思った以上のことが発生していたということです。

以前、この宇宙は目に見える部分が5パーセントほどで残りの95パーセントが目には観えないもののチカラで動いているということを聞いたことがあります。それはダークマターといって、姿かたちのないものが支えるのです。あの星々や銀河に至るまで、その星々や銀河を支えるのはその目には観えないチカラによって支えられているというのです。

実際に人の御縁も同じようなもので、目に見えて発生した出来事は全体の数パーセントで実は残りの90パーセント以上はその御縁の周りが支えているように感じるのです。

その時々は、人は様々な感情を持ち、自分の価値観の世界でのみしか世界を見れず感じることもできませんがその御縁が一体これからどうなってゆくのかと未来に想いを馳せるとき、その御縁の周囲でどんな奇跡が同時に生まれるのかを希望するのです。

人と人が出会う事に意味がないことは一切なく、出会いと別れによってまた新たな道が顕れていきます。その道の全体を支えるものが御縁であり、その御縁に気づける人は目に見える数パーセントのことを何より一期一会に大切に接するように思うのです。

誰かにかける今日の真心の一言や、誰かからいただいた今日の親切は、実はその観えない部分の偉大な御蔭様によって已むことなく永遠に休むことなく行われているのかもしれません。

だからこそ御蔭様に感謝するように御縁を尊び、日々に発生する小さな出来事から全体を想像していけば自ずから御縁の有難さに気づき、御縁の良し悪しという自分の都合で見るのではなく、「御縁そのものが尊い」と感じられるようになるように思います。

常に御縁こそが尊いといつも実感できるように、御蔭様に生きる有り難い実践を積み重ねていきたいと思います。