心身一如~心の観ている世界に近づく~

物事という出来事には光と影があるように、それぞれに別の側面を持っています。例えば、嬉しいことがあればその陰には悲しいことも同時に増えていくとも言われます。勝負の世界なども、勝ち負けがある以上、どちらかが笑いどちらかが泣くというように側面が発生します。

人生も同じようにこの側面はどんな出来事にとっても発生しているとも言えるのです。人生の意味を深めていると、この側面について考えることで人生の妙味を感じることができるようになります。

一見、それは禍に見えているようなものが実はそれが福になったり、一見、失敗に見えたその出来事がその後の人生の大成功につながったりと、目先の自分の小さな視野では理解できないこともその意味を深める力があれば別の側面から冷静に観察することができるようになるということです。

人間は自分の執着を持ち、その執着ゆえに一つの側面にしがみ付きたくなるのかもしれません。そんな時、どうその側面以外の側面を見出し、丸ごと受け止め受け容れて「見方を転じるか」、言い換えれば違う側面を見出すことができるかがその人の心の能力ではないかと思います。

以前、小林正観さんの著書で「見方道」についての内容を拝読したことがあります。小林正観さんは、自分を見方道の家元になりたいと修行を積まれたそうです。「見方を変えればすべては味方になる」というような具合です。具体的には、あらゆるものの見方を「うれしい・たのしい・しあわせ、感謝の心」で観直そうという技法です。

これは先ほどの側面をどう悲観を楽観にするか、それだけではなく全てを必然と転じるときの心の技法のひとつのようにも思います。人生は決して良いことだけではなく悪いこともある、しかしその見方を転じ切ることができるならそれは全て至善になることだということでしょうね。

これらの側面というのは、全体で循環しているものとも言えます。雨が降って嫌な思いをする生き物もいれば、それで救われる生き物もいる。自分にとって都合が悪くても、周りにとっては都合がいいこともある。全体にとっては善いことになっているという見方もあるように私は思うのです。

もしも地球全体で他力が働いている時、善いことにしてくださるのなら諦めてみようと思うものです。もしくは、きっと地球や循環が元にしてくれるのだから安心して委ねてみようという心境のことです。

畢竟、人生は天命があり運命に従い天寿を全うするものです。どうなるか分からなくても、委ねていけばどうにかしてくださるものです。思い通りにいかなくても、その側面では思ってもいないような偉大なことを成し遂げていたり、思ってもいないような幸運や恩恵をいただいているものなのです。

そういう側面を見る力がついてはじめて心の技法を身に付けれているといってもいいのかもしれません。心神一如というか、絶対安心絶対積極の元気のチカラは無我の中にあるように思えてなりません。

日々は自分で見ていること以上のことが本当に沢山発生しています。

見方を大きくすることや、見方を沢山持つことや、見方を換えてみることはすべて心が観ている世界に近づくコツのように私は思います。生き方上手というのは、別に世渡りが上手いことをいうのではなくこの見方が上手な人を言うのでしょう。

子ども達のためにも、どんなことが起きてもそれを全て至善に転じて歩んでいけるような大人のモデルを目指していきたいと思います。

ありがとうございます。