天の尊爵

昨日、コメントに「矢人豈函人より不仁ならんやと」ありました。これは孟子が矢を造ろうが鎧を造ろうがそれが実際の真心とは関係がないといい、その他、巫女と大工も同じであると言っている一文です。しかしこれを解釈する人は、ひょっとすると自分の仕事は選ばなければならないと思い違いをする人がいますが本来は真心はどんな仕事をしていても発揮されるものです。このたとえ話は、「道」の話をしているからです。

よく職業によって、自分は良い人か悪い人かと思い込む人がいます。職業差別などもそうですが、どの仕事であってもその人の真心が自然で無我であり、天の命に従い純粋であるのならそれは尊いことです。こういう尊いものをいただけることを「天の尊爵」とも言います。

孟子に「夫れ仁は天の尊爵なり。人の安宅(あんたく)なり。之れを禦(とど)むることなくして不仁なるは、是れふち不智なり。(公孫丑上七章)」があります。

意訳ですが、(真心は天が与えた尊い位である。これは徳を実践する人に与えられる安らかな身の置き場である。そうならずに真心があちこちと落ち着かないのは徳を実践しないからでありそれでは智者とは言わないのである。)と言います。

この「天の尊爵」について吉田松陰が孟子の講釈、講孟箚記の中で講義をしています。

「何をか『尊爵』と云う。人、本心を存し、人道に於いて失う所無ければ、仮令一時に屈抑せらるるとも、万世に発揚すべし。俗輩に凌侮せらるるとも、道を知る者には尊崇せらるべし。道を知る者の尊崇は万世に発揚するに足る。固より俗輩の凌侮、一時の屈抑の比すべきならんや。」と言います。

意訳ですが(一体何を尊爵というのか、人は人としての本質を失わず人道に間違わなければたとえその志が何かによって抑えられることがあったとしてもそれは永遠に伝道されていくものです。もしも俗世の大衆に侮られ辱しめられても必ず道を実践する人物たちには尊敬されるはずである。道を実践する人物から尊敬されるのなら、永遠に伝道することには十分である。別に一時的に俗世の大衆に邪魔されても別に一時的なものにしかならならず、決して問題にもならないことなのである。)と言います。

本来、職業というものは伝道について付属するものであり、職業に入るから道に入るのではなく、道を実践するからこそ職業が尊くなるのです。自分が実践せずに、職業だけを転職すれば道の実践者になったのではありません。そんなものは職を失えばあっという間に志も失ってしまいます。本来、自ら道を実践することでそこで徳が自然に顕れ、その徳を高め、徳に報いることで真心は次第に引き立たされてその地位を得るということです。

そもそも「尊爵」は、「尊い位」の意味ですがこの「位」という字は「人が立てる」と書きます。徳が高く実践する人は、周りがその人を立てていきます。尊爵というのは、天の道理に従い、天命に応じて、無我無心、無想無念に一心不乱に真心を実践する中で得られるその人に天が与えた天命のことです。

それは矢を造ろうが、鎧を造ろうが、巫女であろうが、大工であろうが本来は関係がなく、道を実践するものであれば、自ら省みて仁を盡していくのでしょう。

だからこそ吉田松陰はこう言いました。

『自ら顧みてなおくんば、千万人ともいえども我行かん』と。

(自分で自分の言動を顧みて天に恥ずかしくないのなら、たとえその道を一千万人が塞ぐことがあろうとも、私は全うするのだ)と。

その大義を貫く真心こそが孟子が言う、「矢人豈函人より・・」の一文の本質であろうと私は思います。

そして孔子は「内に省みて疾しからざれば、其れ何を憂え何を懼れん。」と言いました。結局は、自分の身の置き場に安心するのではなく、自分の心に疚しい気持ちが一点の曇りもないくらい内省することによってはじめて心の安宅は得られるといっているように思います。何をもって安心するかは真心の実践によります。

自分が良い人か悪い人かを自ら裁く前に、自分の真心は本当に天意に従っているか、天命に沿っているかと深く自反慎独していたいと思います。今日の実践を、また真心を盡して執り行わせていただきたいと思います。