怒りとは

人間には怒りという感情があります。これは原始の感情と言われるもので、自我の一つです。この自我は思い通りにならないときには思い通りにしたいという感情が出て来ます。何かを守りたいや何かをやり遂げたいという時にも、その怒りの感情が助けたりもします。決して怒りが悪いことではありません。

しかし怒りは時として感情に呑まれると周りが見えなくなりその怒りの感情によって自他を傷つけたり自分も負傷することもあります。怒りとどう付き合っていくのかは、人間の成長には欠かせないものです。

一般的な怒りは、私的な憎しみや自分の執着、また正論を振りかざす思い込みなどから相手が間違っていると矢印を向けることで発生します。自分は正しいと相手が間違っていると思えば怒りますが、この怒りは自分の中にある価値観が左右しています。怒ることを憤るとも言いますが、私的なものを私憤といいこれを世の中や大義のためとなる公憤ともいう言い方をします。

怒りをいくら抑えてみても、爆発するのが感情ですから我慢はかえって怒りを増幅していくものです。怒りをコントロールしようとするものもありますが、私は怒りは悪いものとは思っておらずそれをどう義憤に転じるかが大切だと感じているのです。

人は同じ怒りでも、理念があればそれを善いものへと転じることができます。世の中の人々のためにや、世界平和のために、もしくは子どもたちの未来のためにや、苦しんでいる人々のためにと、その怒りを私的なものではなく世の中のためにという大義に転じて怒りを活用すればいいのです。

怒りが悪いと思い込み、感情を押し殺したり、感情を持たない無機質なものになろうとしたら世の中は一向に変革に向かいません。人が怒りがあるのは元気な証拠であり、元気さの背景には愛や慈しみがあったりするものです。

三木清がこういうことを「人生論ノート」という著書で記しています。

「今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語らうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るといふことは今日の人間が無性格であるといふことのしるしである。切に義人を思ふ。義人とは何か。怒ることを知れる者である。」

憎しみと怒りは意味が異なり、怒りは純粋で深い真理があるともいえます。仏教では以前拝見した蔵王権現や不動明王などには「憤怒」という慈悲の表情があります。世の中を憂い、私欲に打ち克ちそれを大義にまで昇華することは慈愛であるということでしょう。

私利私欲の私憤ではなく、利他に生きる義憤はその人の中にあるチカラの源泉です。自らを修め、己に克つ実践を続けていくことで人は成熟しその怒りを慈愛にしていくことができると私は思います。

怒ることが悪いのではなく、怒りを何のために使うのかが大切ということです。

人間の全ての感情には確かな意味が存在します、その感情も使い方次第、ものの見方次第でいくらでも活かしていくことができます。感情を否定するのではなく、感情を受け止めてそれを善いものだと捉えること、言い換えれば全てをポジティブに転換することで物事はより一層、成熟し豊かになっていくように思います。

人の心に寄り添って生きることは、その人のことを丸ごと肯定して信じ切ることです。引き続き子どもたちの手本になるような大人たちを目指し、精進していきたいと思います。