素直は能力

昨日、久しぶりにあうん健康庵の小松先生と奥様にお会いしました。いつもながらの温かい心遣い、おもてなし、いつもの素敵な笑顔と生き方にお会いするだけで元気をいただけます。

場所が離れていても、どんな時でも、私たちのことを応援してくださり励ましてくれる。子ども達のためにと精進していくことは厳しくもあり楽しいことでもありますが、志を実践する方との邂逅によって御縁や道はいつも支えられているように思います。

そのあうん健康庵の入口に、「素直は能力」と書かれた色紙があります。この素直さというものは何ものにもかけがえのない自然治癒の極意のように感じ、私自身もこの素直さは単なる性格ではなく己の磨き方としての最大の能力であるように感じています。どんな時でも素直な人は、全ての出来事やご縁を必ず善いことだと受け容れ、それを福に転じます。しかしその大事な場面で素直の能力がない人は、全ての出来事を禍にしてしまうのです。幸不幸はその人のものの見方、受け止め方ですからどんな出来事もその人がどういう見方をするのかで見え方が変わってきます。その見え方を変える技術、それも素直の能力の一つであることは分かります。

素直と言えば、私が最初に思い浮かべるのは松下幸之助さんです。

松下幸之助さんは、人間にとって何よりも欠かせない大切なものは「素直さ」であると言い切ります。生涯をかけて、素直という言葉を言い続け書き続け実践をし続けた方です。そのエピソードや人生の出来事の場面で如何に松下幸之助さんが素直の能力を活かして禍を転じて全て福にしてきたかが分かります。何よりこれは産まれつきでもっていたのではなく、大切だと気付いて努力して能力を磨いたことが「素直の初段」という言葉の中に残っています。

『私自身はこういうことを考えている。それは、聞くところによると、碁というものは特別に先生について指導を受けたりしなくとも、およそ一万回うてば初段ぐらいの強さになれるのだという。だから素直な心になりたいということを強く心に願って、毎日をそういう気持で過ごせば、一万日すなわち約三十年で素直な心の初段にはなれるのではないかと考えるのである。初段ともなれば、一応事に当たってある程度素直な心が働き、そう大きなあやまちをおかすことは避けられるようになるだろう、そう考えて、私自身は日々それを心がけ、また自分の言動を反省して、少しでも素直な心を養い高めていこうとしているのである。そのように方法はみずから是と思われるものを求めたらよいわけだが、素直な心の涵養、向上ということ自体は、あらゆる経営者、さらには、すべての人が心がけていくべき、きわめて大切なものである。それなくして、経営の真の成功も、人生の真の幸せもあり得ないといってもいい。だから、素直な心に段位をつけられるものであれば、やはりお互いに初段ぐらいにはなることはめざしたい。そこまでいけば、これまでに述べてきたようなことも、おのずと体得され、生かされてくると言ってよいであろう』

松下幸之助さんは80歳半ばになってようやく素直の初段になったと言っていました。生き方として如何に素直を磨くかは、日々の御縁や出来事を通した時、自分がどのようにそれを転じつづけて福にしたかという実践なのです。日々の過ごし方一つ、当たり前ではなく有り難いと感じて物事の見方を転じて観ることや、何かあった時にこれはきっと大切なことを教えてくださっていると学びに換えること、そういう日々の行動で素直は磨かれるように私は思います。また松下幸之助さんはこう言います。

『素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境はうぬぼれを生む。逆境、順境そのいずれをも問わぬ。それはそのときのその人に与えられたひとつの運命である。ただその境涯に素直に生きるがよい。』

生き方として、逆境が来た時に卑屈になればそれはまた己に負けることになります。そして順境の時にうまくいっているからと調子にのればまた己に負ける。人生は常に己に克つかどうか、自分との付き合いをどう素直な状態にしていくかですから運命を受け容れその境涯に対して如何に油断しないで何があろうがなかろうが日々に粛々と実践を続けていくかということになるのです。

素直さを磨くという心があれば、素直さの能力は高まっていきます。最後に松下幸之助さんが言う素直な心で締めくくります。

『素直な心とは、単に人に逆らわず従順であるということではありません。本当の素直さというものは、力強く、積極的な内容をもつものだと思います。つまり、素直な心とは、私心なくくもりのない心というか、一つのことにとらわれず、物事をあるがままに見ようとする心といえるでしょう。その心から、物事の実相をつかむ力も生まれてくるのではないかと思うのです。だから、真理をつかむ働きのある心だと思います。したがって、素直な心とは、何ものにもとらわれず、物事の真実と、何が正しいかを見きわめて、これに従う心、適応していく心です。お互いが素直な心になれば、していいこと、してならないことの区別も明らかとなり、また正邪の判別もあやまることなく、何をなすべきかもおのずとわかってきます。素直な心になりましょう。素直な心はあなたを強くし正しく聡明にいたします。』(「素直な心になるために」PHP)

逆境のときこそ素直さは磨かれ、そして順境の時こそまた素直さは磨かれる。素直の初段になるために、日々素直は能力と言い続けることは生涯の人生道場であり、一生の修行であるように思います。

自然治癒もまたこの素直さが何よりも肝要であることを学び直しました。

起きた出来事一つ一つに大切な意味があることに感謝し、日々の御縁を大切に学び直しを味わっていきたいと思います。

 

真の実践者

よく実践者のことをみて、人はなんであんな大変なことをやるのだろうと思うものです。もしくはあれだけやらなければならないことばかりで大変ではないかと心配されるものです。例えば、トイレ掃除をしている人や毎日有り難うを100回言うなどと決めている人を見てはなんであんな大変なことを続けるのだろうかと感じるものです。

しかし実際は聖人になろうとやっているわけでもなく、立派な人になろうとしているわけでもなく、周りから見れば無理してわざわざしなくてもと思うかもしれませんが本人は実際は気づいたことを忘れないためにすぐに実践をした方が未来に色々な効果が出てきて最終的には運が善くなり不思議とうまくいくことが多いから続けているのです。

体調が悪い時とか、感情の落ち着かない時でも、実践をしていたら自然に心が穏やかになって初心を取り戻していきます。どうしても人は日々に忙しくなり大切な初心を忘れたりしますからそれを忘れないでいることで物事は本質的に積み上がり願望も成就していきますから日々に内省したり振り返るための実践を持っている人はやっぱり「好いこと尽し」になっていきます。別に「やらなければならない」と、ネバネバしているのではなくそっちの方が楽しいし上手くいく体験を沢山しているからその人は自然に続いているとも言えます。

実際に人が善いと思ったことをいくら知っても、知っているだけでは何も変わりません。そこに知ったことを忘れないための実践があって善いことは伸ばしていけます。

たとえば御蔭様を忘れない方が良いと知ったら、すぐに御蔭様ノートを書いていくことを決める。普通は3日もすれば御蔭様であったことも忘れるのが人間ですが、日々に御蔭様ノートを書いていたら忘れないのです。こういうように忘れないために続けていたら、日々に御蔭様の存在を実感することができ自分の力ではなくいつも御蔭様の力によって物事は進めてくださっているのだと感謝する心が次第に持てるようになっていきます。すると、人間関係も御蔭様、仕事の成果も御蔭様、健康も安全もすべて御蔭様だとなって日頃感じれない他人様の偉大な憐れみや施し、思いやり利他の人の行っている姿が観えてきてより感謝が伝わり合い自分の真似したくなり自他が仕合わせになっていくのです。

これは別に何が何でもしなければならないと思って本人はやっているわけではなく、そっちの方が楽しいからやっているだけでそっちの方が得だし効果が出てくれば無理するよりも楽だから続けるのです。実際に実践をしてみれば、実践をした方が楽だなと思う事ばかりです。言い換えれば自分にメリットがあるからやっているだけです。

先ほどの御蔭様ノートもそうだし、このかんながらブログ、他にも昨年からはじめた暮らしの実践で炭を熾してお茶を飲むのもそうですが、日々にやればやるほどに気づいたことがカタチになってきて結果も経過も以前よりずっと善くなってきています。一つやって効果が出てくれば他にもいっぱいやりたくなります。そうしているうちに周りの人たちから実践者とか呼ばれますが、実際は効果が出てくると愉しいから続けているだけなのです。そして効果が出たら人に教えてあげたくなりますから一緒にやらないかと誘うのです。例えば社内で皆で一緒に行っている「ツイてる体操」や「面白い話」、その他様々な実践もやればやるほどに楽しくなって皆の人生の運気も上がって結果も出て来ます。決してしなければならないと悲壮感からやっているのではなく、そっちの方が楽だし楽しい、効果覿面だからやっているだけなのです。

実践をするのは何でも最初は大変そうに見えますが、実践を継続していくと次第に思った以上の効果や奇跡に出会ってその凄さやその実践がつくってくれた様々な神業に驚き感動することばかりです。継続は力なりという諺もありますが、継続してみないと分からないのが実践の醍醐味ですから続けてはじめて変化の楽しさを味わえます。トイレ掃除だって一日やったくらいではわかりませんが、何年もやっている人には掃除で何が変わるのかの実感を沢山持っているのです。

実践の面白さはその実践そのものの大変さを見るのではなく「実践しているとどんな効果がありますか?」と本人にストレートに聴いた方がその実践の価値と面白さを正しく知ることが出来るように思います。

早起きは三文の徳とか、毎日笑顔でニコニコしているとか、自他に前向きな言葉がけをし続けるとか、みんなが喜ぶことをたくさんするとか、ありがとうを沢山言うとか、毎朝神社を参拝してお祈りをするとか、そういうものも実践と呼びます。そうやって実践をやっていた方がなんでも不思議とうまくいくことを知っている人のことを実践者、または実践ジャーと呼びます。早起きだって今の時代は暗いうちから起きてそんなに早起きでストイックだと自分には無理だとか煙たがられますが、実際に早朝から起きてやっている方が日中や夜中にやるよりもずっと楽だし効果が出て楽しいから早起きしているだけで早起きが「好いこと尽し」だからやっているだけなのです。

私は実践者はみんな謙虚な人だと思っています。なぜなら自分の力で物事が動かないことを知っている真の謙虚な人はみんな自分自身の実践を欠かさないからです。それは自分が傲慢になり我儘になり感謝を忘れ御蔭さまを信じなくなることで人生がつまらなくなることに気づいているからです。謙虚な人ほど実践を続けて、黙々と粛々と続けるのは自分の力ではないと思うことの方が自然体だと思っているからです。

実践は人に強要するのではなく自分が実践していたらこんないいことがあったよ、こんな奇跡があったんだよとこの実践の面白さ、実践の功徳、周り廻ってくる自然の恩恵を伝えていきたいと思います。やってみてもしも継続ができてその価値や面白さを知ったなら同じように悩んでいる人のために何か御役に立つかもしれません。他人を変えることはできませんから、自分の実践の姿、その実践の背中を見てもらって人は変わることがあるのかもしれません。

実践の価値を伝道できるように、自らの実践を味わい、実践を愉しみ、周りの実践者と一緒に楽しく道を弘げていけるように精進していきたいと思います。

生き物たちを活かす生き方

今、人間以外の生き物は絶滅の危機にさらされています。生態系というのは、渾然一体に食べ食べられ御互いを活かし合い命を伸ばし合う関係ですがそれが人間の都合で自然を変えることでそれまでの生態系を画一化してしまいそこから種が消えていく連鎖が止まらなくなっているのです。

どれくらい絶滅スピードが上がっているかというと恐竜時代は1年間に0.001種、1万年前には0.01種、1000年前には0.1種、100年前からは1年間に1種の割合で生物が絶滅していると言われます。絶滅のスピードは加速し今では1日に約100種となっています。つまりこの計算では1年間に約4万種がこの地球上から姿を消していることになります。この100年で約4万倍以上の加速で世の中から種が消えています。さらにそのスピードは加速を続け、このままでは25~30年後には地球上の全生物の4分の1が失われてしまう計算になっていると言います。

実際はより複合的に総合的に御互いが絡みあっているのが自然界ですから、ひょっとすると以上のスピードよりも速く絶滅してしまうかもしれません。以前は巨大隕石の衝突や、火山の天変地異で滅亡したことがありましたが今は人間の欲望で滅亡する時代です。コントロールできず肥大化した不自然は、人間以外の生き物たちのいのちを先に奪い、最期には人間のいのちを奪ってしまうのでしょう。

絶滅のスピードを速めることで分かっている範囲では野生動物の乱獲、生物資源の乱獲、森林破壊、農薬や薬剤の散布、排ガスや空気汚染からの酸性雨、合成洗剤などの身近な生活環境汚染の積み重ねによるものと言われます。

しかし本質は、人間が何よりも優先され周りの生き物たちへの思いやりや配慮がない暮らしをしていることが原因であるように思います。自然農では、作物を育てますが取り過ぎることがありません。その上で周りの生き物たちが生活できるように薬をまかず草をのこし他の生き物たちが一緒に暮らしていけるように配慮します。

生き物たちが一緒に暮らして多様性が働けば、一部の生き物たちが暴れたり食べ尽したり取り過ぎることはありません。人間が薬をまいて全ての生き物たちを殺傷したときだけ、その後、一つの生き物が大量に増えるため農園に問題が発生するのです。実際に取り過ぎず、分を弁えて周りを思いやっていけば自然は自ずから調和するようにできています。そしてその時だけ、末永くいのちは活かし合い生きながらえる仕組みになっているのです。

将来のことを思えば、今の子どもたちが大人になった時にはほとんどの生き物たちがこの世の中からいなくなっていきます。今、気づいたなら一人ひとりが身近な実践から生き方を変えていくしかありません。

地球が喜ぶものを使うとか、地球が悲しむものをやめていくなどもそうです。何を実践することが、他のいのちを思いやり、何に配慮することが周りのいのちを活かすのかということをそれぞれで身近な暮らしから見直し取り組んでいくしかありません。

壊れていくスピードが速いからと、絶滅は止められないからと何もしないでは子どもたちの未来に対する責任が果たせません。今、自分ができる実践を積み重ねることはたとえハチドリの一滴であっても、大海に石を積み上げるようであっても、その実践の祈りは必ず未来に引き継がれていくように思います。

今は人間生命時代の大転換期です。

この時代に生まれてきた世代であることを誇りに思い、生き物たちのいのちを活かすために今の自らの生き方を見直し、未来の子どもたちのために変えられるところから一つずつ丁寧に丹精を籠めて変えていきたいと思います。

垣根を超える~渾然一体の組織~

「垣根」という言葉があります。これはもともと敷地を限るために設ける囲いや仕切り、それを竹や植木などで作る言葉ですが心の垣根というように間のことを言うこともあります。また組織の垣根や部門間の垣根というように、それぞれが自分の責任の範囲を決めて垣根を作ります。それらの垣根を超えて何かを言うと越権行為とみなされたり、自分の責任の範囲を超えたということになるのです。

しかしチームや協力、理念を優先する組織においてこの垣根というのは最大の障壁になっていきます。なぜなら、大きな目的や理念のためには情報共有は部門間を超えて必要であり、また組織の制限がかかっていたらオープンに皆で議論して衆知を集めて問題を解決していくことができないからです。

日本の組織や部門というのは縦の関係で成り立っています、そこから横の関係が弱くなります。実際に縦串の関係というのは、責任の範囲内が決められそこから役割を分けられています。しかしその責任の範囲内のことをやっていたら垣根は広がっていくのです。この場合の垣根は、自分の置かれている立場のことです。組織の中で自分の立場を考えてくれとばかり相手に迫っても物事が解決することがありません。御互いの立場を乗り越えて仲良くしていくには、本来の目的や理念を共有しては御互いを隔てる組織や部門の壁を超えなければならないのです。

例えば、夫婦で考えてみても子どもに何かあったとき、自分は夫の立場だからと手伝うことを制限したり、自分は妻をちゃんとやっているのだからとやることとやらないことを自分が仕分けしていたら子育てを協力することができません。子育てを一緒にするのが夫婦だからその御互いの立場の垣根を超えて協力することで本来の三方よしの家庭を築けるのです。

これは会社にも同じことが言えるし、社會に置き換えても同じことが言えます。

協力するというのは、置かれている立場、自分がやっている仕事を自分で仕分けて理解するのではなく如何に協力するかということを優先しているかということです。横の関係が強く結ばれる組織は垣根がありません。御互いの垣根を超えて協力していますから、情報共有をはじめあらゆるコミュニケーションや智慧が結集していきます。

組織や部門が垣根を超えて協力することができるなら、本来の目的や理念の実現にむけて大きく前進していくのです。

垣根を超えるのは、自分の中の立場の刷り込みを捨て去ることと地道な横串の関係の実践に由ります。一緒に取り組むということは、垣根を取り払うことであり誰がやってもいい、持ち味を活かし得意なところを伸ばすという御互いを活かし合う関係を築くということです。

そこに三方よしの発想が産まれ、みんな違ってみんないいという協力し助け合う姿に変わっていきます。ここで重要になるのは組織は縦の関係か横の関係ではなく、本来は渾然一体になっていることが何よりも大切だということです。

渾然一体に混ざり合う組織にするために、勝手な立場や勝手な部門などができないように刷り込みを取り払っていきたいと思います。これから必要となる、新たな聴福人の姿を見つめていきたいと思います。

ものづくりの心~古代と隕鐵~

世界最古の鉄器を調べていると、隕鉄が多いことが分かっています。例えば、トルコで発掘された世界最古の剣も隕鉄でできており、他にも古代エジプトや中国の遺跡からは、隕鉄を鍛造した鉄片がいくつも出土しています。

これが隕鉄であることがわかるのは、ウィッドマン・ステッテン組織と呼ばれる特有の鉄・ニッケル合金の金属組織が入っているからです。 このウィッドマン・ステッテン組織ができるには、最低700℃以上からゆっくり冷やす必要があります。宇宙の中で温度が約1℃下がるには約100万年を要するため、計算すると最低でも7億年という冷却過程を必要とするので人工的にはつくることができません。

隕鉄は、少なくても数億年から数十億年の歳月をかけて宇宙が鍛造した物質なのです。その鐵は、地球上の鉄とは全く異なる組織構造を持つため調べればそれが隕鉄かどうかが分かるのです。

昔の人たちは、その宇宙から降ってきた隕鉄を特別ものだとみなしました。数億年から数十億年かけてできたその鐵は、いのちがあるものとしそれが天から偶然地上に降ってくるのだからそのものは全て霊力を持っていると信じたのです。

かつての古代人はそれを剣にしたり、御守にしたり、御神体にしたり、様々なものに仕立てましたが古代人は私たちの想像を超える技術力があったことになります。

かつてツタンカーメンの王墓からも隕鉄剣が出土しているし、マレーシア辺りにはクリスという儀礼用の隕鉄剣が存在していますが日本では、隕鉄を星鉄、隕星、天降鉄などと呼び鉄が魔除けの力を秘めるという言い伝えも残っています。

今でも神社に日本刀を奉納するのも、破邪顕正の御力に由るものです。草薙の剣で有名な天叢雲も隕鉄で鍛えられているのではないかという説もありますし、出雲大社の御神体も隕石隕鉄ではないかという説もあるそうです。実際にかつて富山県に落下した隕鉄から農商務大臣の榎本武揚が刀工の岡吉国宗に依頼し、出雲の玉鋼と隕鉄を合わせて長刀2振、短刀3振、合計5振の刀を製作し、長刀1振を大正天皇に献上したたとあります。

この流星刀は、通常の日本刀の作り方でやればボロボロになってしまうといいます。日本では刀匠法華三郎が流星刀に挑戦しています。その時、鍛錬の温度は、思い切って融解直前まで上げる必要があったといい最適温度と不適温度の間には、わずか30~50℃程度の差しかなくその違いで、鍛着したり、しなかったり、溶け落ちそうになったりしたとあります。刀匠は炎の色を見て適温を感じ取り、成功させたというまさに熟練の技で鍛造されました。隕鉄を鍛えた刀はニッケルと鉄が層を作り屋久杉の年輪のような、派手な模様を形成し日本刀にない独特の板目肌と杢目肌が浮いて刃縁は柾目肌に出たそうです。私が御縁をいただいた、平安城源信重刀匠の流星刀も同じように独特な柾目肌が出ています。

実際に宇宙のものを地球の技術で新しいものに産み出すということは、今の科学では対応できないものばかりです。古代の人たちが持っていた技術は、そのものの持つ本質やいのちを見抜く力が備わっていたのかもしれません。

流星刀の魅力は、その「鐵のいのち」と対話して新たないのちを吹き込む魅力です。かつての人々が天から降ってきた鐵に新たないのちを吹き込み道具とした様子に天への畏敬を感じます。今の時代も、色々なものづくりがありますが古代の人たちの心を忘れずにものづくりの心を伝承していきたいと感じます。

隕鉄からできた日本刀のものづくりの心に思いを馳せつつ、未来の子ども達に何を譲っていけばいいか観直してみたいと思います。

協力の本質

人は自分の責任の範囲というものをそれぞれに持っているものです。例えば、自分の役割が何かということを自分で決めているものです。それは肩書きや立場、組織の中での自分の役割などのことですがそのことから無責任の構図が発生することがあります。

例えば、自分の責任の範囲を決めればそれ以外は自分の責任ではないという考え方があります。自分はこの仕事を貰っているのだからそれはやるけれど、他のことは他の人がやるという考えです。経理であれば経理の範囲しかせず、営業であれば営業の範囲しかしないというようにそれぞれ自分の立場を勝手に決めてはその中の役割や責任だけを果たせば自分は問題なく取り組んでいると思うのです。

しかし実際にはちょっと深く考えたらわかると思いますが、その自分の範囲の責任を果たしても、全体の目的や方針に対する責任が果たせておらずもしもその会社や集団が消失してしまった場合は誰の責任かということになります。一般的にはトップの責任や役員の責任、その組織がなくなるほどの原因をつくった人物の責任といいますが実際は全体責任はそこで働くみんなに責任があったということになります。これはかつて教育で歪んだ個人主義を教え込まれた競争の刷り込みでもあり、自分さえよければいいという利己主義でそれぞれが保身に入る敵対構図の刷り込みでもあります。

アメリカの大統領、J・Fケネディの有名な演説「国があなたに何かをしてくれるのではなく、あなたが国に何ができるかを考えよう」があります。これは一人ひとりが、全体に対して責任を持って取り組もうということに似ています。自分はこの役割をやっているのだからではなく、自分がどれだけ全体の役割を果たせるか、それは自分の範囲を決めるのではなくもっと大きな目的や理念のためにできることは何でもやろうという決意です。

組織が敵対したりバラバラになるのは、自分の立場や自分の役割を決めて相手と対峙するからです。本来の全体目的や大きな目標に向かって総力戦で挑もう、自分が何ができるかを問おうとするのなら敵対ではなく協力になるはずです。協力できなくなるのは、それぞれの自分の立場を守ろうとするから対峙してしまうのです。みんなで一致団結して一家協力して一人ひとりが全体に対して主体的に協力して取り組めば必ず国をはじめ会社、すべての集団は目的を実現できるように思います。

最後に、そのJ・Fケネディの演説のその前後の文章を紹介します。

『世界の長い歴史の中で、自由が最大の危機に晒されているときに、それを守る役回りを与えられた世代というのは多くありません。私はこの責任を恐れず、喜んで受け入れます。おそらく皆さんも、この役目を他の誰かや他の世代に譲りたいとは思わないでしょう。我々がこの取り組みに注ぎ込む精力と信念、そして献身的な努力は、この国とこの国に奉仕する人々を明るく照らし、その情熱の光は世界を輝かせるはずです。そして、同胞であるアメリカ市民の皆さん、国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか。また同胞である世界市民の皆さん、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、人類の自由のために共に何ができるかを考えようではありませんか。』

何かをしてもらおうとばかり考えるのではなく、自分が何ができるかを考える。この主体性があってこそはじめて組織や集団は「協力型」に切り替わります。協力することは、足し算ではなく掛け算になります。相乗効果というシナジーが発生し、一人ではできないと思っていたことが相乗効果によってできるようになるのです。

如何に協力を優先するか、如何に相乗効果を発揮するかは、一人ひとりの主体的な信念と行動、実践にかかっています。引き続き、子ども達のためにも憧れるモデルになるような働き方を目指していきたいと思います。

万物の他力~御蔭様の力~

人は自分の力でどうにかなることと自分の力でどうにもならないことがあります。しかしよくよく観察していると自分の力でどうにかなることなどはほとんどなく、周りの御蔭様ではじめて物事が全て成就しています。自分の思い通りにならないことに執着があるから人はどうにかしようとしますが、実際は周りの御蔭様で動いていることを知れば自ずから自分の力だけを頼っても仕方がないと思えるようになるのです。

実際に、自力の後に他力が働くという言葉があります。人事を盡しているからこそ天が手助けをしてくれるという発想です。この他力や天の手助けというのが御蔭様のことで、御蔭様が働いて自分の思っている以上のことをしてくださっているという感謝の心です。

この他力や天の助けというのは、自分の力云々や誰かの力云々ではなく御蔭様に感謝した方が楽になるということです。自分の力ではどうにもならないからこそ、もっと御蔭様に感謝していこう、もっと大きな見守りを信頼していこうとするのです。

その姿勢やその態度が、本来の自力や尽力、誠実や真心を引き出し自他ともに一体になって大いなる循環の流れにスパンとはまり、自然界の相乗効果のようなものが発生し思った以上の御縁に感謝でき力の意味を実感するのです。

力というのは、全てにおいて相乗効果のことであり相乗効果が発揮できるように力を使っているから力は働いてくれているとも言えます。例えば自利ではなく利他に生きる人はいつも相乗効果を引き出して物事が自然に動くのを邪魔をせずその力をかりて物事が澄まされていくのです。

その他力や天の御助けが入るようにするには、その力をいつも観る感性を身に着ける必要があります。それが御蔭様の感謝を忘れない実践であろうと思います。有り難い有り難いと、不思議な力に見守られているという実感がある人は、いつもその御力をおかりして物事が動いていることを知ります。自分の思い通りに自分中心に過信して力を使うことを戒め、いつも有り難い御蔭様によって助けていただき今の自分が存在できていることを謙虚に受け止めます。

そういう生き方が、周りの力を使うことであり相乗効果によってより偉大なことを実現する本来の力を使っていることになります。

本来の力とは、万物の他力でありそれが働いているだけです。

自分もその力の一部、他力の中の一つになるのだから御蔭様になり御蔭様と言われるような天と一体になるような生き方、敬天愛人の実践によって万物の他力に近づいていくことが未来へその御蔭様の力を譲る方法のように思います。

子ども達の為にも、御蔭様の感謝を忘れずに力を譲る心を醸成していきたいと思います。

発想の転換

人間には思い込みというものがあります。今まで生きてきて、どのような刷り込みを受けどのような常識を持ったか、そこがその人の先入観であり価値観でもあります。今までやってきたことの上に物事をいくら考えてみても、もしもそれがまったく今までと同じことでは不可能だと自覚するとき、人ははじめてそこで発想の転換ということに気づくのです。

しかしこの発想の転換に気づくには、よほどの衝撃を受け止める力が必要です。

以前、地動説を唱えたコペルニクスがそれまで地球を中心に世の中が変わっているという世界観を、太陽を中心に世界が変わっているということを発表しました。しかしそれまで信じられた天動説があるから、その後、同じように地動説を唱えた人たちは異端として沢山火あぶりの刑で処刑されていきました。世の中の刷り込みや常識を壊すということは、それまでの価値観の否定です。ガリレオも無理やり天動説を唱えるように圧力をかけられて従いました。晩年、「それでも地球はまわっている」と言っても、実際は世の中の常識や刷り込みが怖くて誰も真実を認めようとはしませんでした。人間というのはどこまでも自分中心、自己都合ですから真実すらもあっという間に書き換えてしまいます。

その後、科学が進み「明らかに」地球が太陽の周りをまわっていることが隠せないほどに証明され気づいてその常識や刷り込みは覆されました。真実が覆い隠せなくなったとき、世の中はその真実を認めるしかなくなります。それまでにかかった時間が如何に膨大か、それほど刷り込みは取り払われなかったということです。

これは今まで信じられてきたことが真実で、それ以外のことは真実ではないという考え方です。誰かが先に言ってそうだと言ってしまえば、そうなんだと何も考えずに鵜呑みにする、これを刷り込みとも言えます。物事の本質を見極める人は、刷り込みを信じず自分の感性を信じます。そして本質を突き詰めて、自分中心で物事を考えるのではなく「発想の転換」によって自然に全体を捉えるのです。

これができる人は、刷り込みを持たない人です。あるがままにありのままを素直に観ることが出来るのは知識で物事を判断するのではなく、智慧で物事を直感するのです。この智慧は、人間の知識を信用せず自然の姿を信じることに似ています。

自然がどうなっているのかを詳しい人は、そもそも人間の知識が自然に適っていない、理に適っていないことを見抜きます。自然に精通する人は、何が自然で不自然かが正しく見極められるのです。王道というものも同じく、本質的で本来どうあることがもっとも自然かということを貫く実践の道でもあります。そしてそれは己に克っているから己という刷り込みに囚われないでいることができます。

どんな時も人が行詰るとき、そこに発想の転換は必要です。

そして発想を転換するには、それまでの常識を一度すべて疑ってみる必要があります。また今までの自分の刷り込みに気付き、その刷り込みを外して物事をみることも必要です。そのためには、自分に矢印を向けて自分が間違っているのではないかという自分自身の刷り込みを一度疑ってみる必要があります。自分に矢印を向ける人なら、自分の間違いにハッと気づいてそこから発想の転換への道筋が出て来ます。そうやって素直に謙虚に刷り込みを取り払ったなら、何のためにやるのか、どの方法でやるのかは自然に照らして真実を考えてみるといいように思います。

ありのままに物事が観えるというのは、刷り込みを日々に取り払い続けることで実現します。刷り込みのままに知識をいくら入れても、それは刷り込みを助長するだけですから刷り込み自身が何かをまず考えることが刷り込みに流されないコツかもしれません。

私たちの本業はずっと刷り込みを取り払うことに終始しています、刷り込みを取り払う本物の技術こそが、これからの子ども達の見守る環境には必要不可欠です。

自然から学び直し、子どもから学び直すことも自分の刷り込みを取り払う方法論の一つです。引き続き、子ども達にあるがままのことを伝承していくためにも、本質は何か、真実が何か、何を行うことがもっとも自然で王道かということを観直し続けて実践を積み重ねていきたいと思います。

 

自然のまま~本質かどうか~

今年は自然農の畑と両親の耕す畑で高菜を栽培してみて、色々な発見がありました。自然農の畑の高菜は、大きくなく小さいものばかりです。もう5年間、無肥料無施肥でやっているものといえば近場の雑草を刈って敷き詰めるくらいです。それに比べて両親の畑は、肥料が残っているので私の高菜の6倍くらいの大きさになっています。実際に農協や農産物直売所では両親の畑の高菜の方が評判がいいはずです。大きくて肉厚な野菜は高く売れます。

しかしよくよく観察してみると、どの辺が異なっているのかということにすぐに気付きます。まず自然農の野菜は、根がとても強く茎がしっかりと強くなかなか収穫するときに簡単に切れません。全体的に小ぶりですが、ほとんど虫がついてなく食べられている形跡もありません。色つやがとても野性的で、収穫してからもなかなか腐りはじめません。高菜などは天日干ししてもすぐには萎れず、元気なままです。売るには大きくて肉厚ではないので価値が低いのですが、食べるには最高です。両親の畑の方は大きさと肉厚さはすごいのですが虫が大量についています。その虫を洗い流すのが一苦労で、これだけの虫を防除しようとすれば農薬を使わないと成り立たないのがすぐにわかります。

実際に大きくしようとすればするほど、大量に肉厚なものを作ろうとすればするほどに肥料が増えていきます。そして肥料が増えていけば虫も増えていきます。虫が増えていくから農薬も増えていくのです。この「大きくする」ということが如何に別の手間を増やしているのかということなのです。しかし大きくする理由はお金になるからです。お金にするために育てるのだから大きくした方が消費は増えるということです。作るときから消費をするために作るのだからエネルギーも使う道具や中身も消費するものを沢山使うことで経済効果が上げているのです。

しかしここで大きくしないと決めるとどうなるか、すると売れなくなります。売れなくなるのを諦めてしまえば消費は落ちていきます。食べていくにもお金がなければ食べていけないのだから食べていくものを作っているのにそれを作ってもお金にならなければ生活していけないという矛盾が発生してしまうのです。私のように兼業農家で行う場合は、自然に食べるものを育ててもそれで収穫して食べて別のことでお金は稼げばいいのですが実際は専業になるとやはり食べるものではなく売れるものを中心につくりはじめるのです。

消費するものか食べるものか、今の時代は消費者が消費するものを求めていますから食べるよりも消費材の方が価値が高く売り買いされていくのです。道具ひとつでも今は修理するよりも買い換えた方が安い時代です。プラスチック製品などは、最初から使い捨てるために大量消費できるように作られています。そもそも道具も使うものではなく消費するもの、食べ物も食べるものではなく消費するものなのです。

自然農は食べるものを作ります。消費にはあまり役に立ちませんが、その分、自然循環する農の暮らしが行え、食べる営みや育てる営み、自然と寄り添い生きていく智慧を学び生き方の方を自然大道に沿っていくことができます。

食べ物をつくることが本来の農であり、消費することが農ではありませんから如何に農を実践するかが自然農の醍醐味になります。美味しい食べものを育て、美味しい食べ物を加工する、そして美味しく食べてもらうこと。

美味しいものを作ることは大きくすることでもなく肉厚にすることでもありません。かえって自然の大きさのままにそれが小さくても自然の姿のままで育てることが美味しいものを作ることです。

この自然のままがいいという価値観は、常に「一体何のためにやるのか」という本質を外すことがありません。本来、人が自然が分かるのはそもそも何のために作るのか、それと深く正対しているから自然のままの意味が自明するのです。

引き続き、本物の漬物作り通し本質的に育てる感性を磨きたいと思います。

 

漬かるということ

昨日、高菜の漬物を二樽分の塩漬けを行いました。この数日間、まず漬かるのを待ってから杉樽へ本漬けするという要領です。漬物の「漬かる」ということがどういうことか、改めて深めておこうと思います。

漬かるというのは、液体にひたるということでもあります。塩をまぶし、塩漬けすることで漬物の組織が浸透圧によって水が出て来ます。この時、塩によってカビや腐敗菌などは除菌されかわって塩に強い乳酸菌が発酵して漬物を円やかにしていくのです。

漬物は乳酸菌のお風呂に漬かることで、カビや腐敗の影響を受けなくなるのです。

言い換えれば漬物は、乳酸菌の餌であり住まいです。乳酸菌は私たちの腸内でも活発に活動しています、私たちの腸内も同じく餌があり住まいになっています。現在科学が進み、腸は第2の脳であるということまで言われています。それくらい腸内の状態は、感情を司り、免疫や生き方にまで影響を与えるという研究結果が出てきているからです。

その腸内のバランスを維持していくということが健康におおきな影響を与えます。漬物を実践してみてわかるのは、決して人間に有用なだけの微生物だけではなく同時に悪玉菌といった人間に都合が悪いのも同時に増えていきます。

漬物を漬ける人は、塩梅を確かめ発酵菌が優位になるように塩加減や漬かり加減を調整し続けなければなりません。ここに昔からの智慧があり、漬物を漬けるコツがあるのです。

おいしくて栄養価があり保存性がある漬物は、かつては縄文時代から海水に漬け込むことで発明されたのではないかとも言われます。その後は、ウリや青菜を塩漬けし大陸から味噌や酒が入り、室町には香の物と呼ばれあらゆる漬物が出て来ます。江戸時代には各家庭で様々な漬物をつくられました。

これらの漬物は、お米を主食に私たちにはとても重宝されお米で不足する栄養価はほとんど漬物で補ったほどです。保存が効き、栄養価があり、微生物を摂取でき、美味しくご飯が進む漬物は私たち日本人には切っても切れぬほどの関係です。

今のように食生活が西洋化していく中で、次第に漬物も遠ざかってきています。本来、先祖たちが何を食べてきたか、それを食歴といいますがそれが大きく変化して体調も変化してきていますが先祖代々自分たちのカラダを守ってきた漬物の智慧が失われていくのはとても残念に思います。

先祖たちの食歴、智慧を譲り遺していくためにもその風土にあった漬物を遺していきたいと思います。不思議ですが樽や甕に住み着いた微生物たちは先祖たちのカラダを潤した先祖たちそのものです。時代を超えても、漬かっているものは先祖の温かい見守りそのものかもしれません。

漬物から原点回帰し、もう一度先祖たちの真心に漬かってみたいと思います。